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| な に ぬ ね の / は ひ ふ へ ほ / ま み む め も / や ・ ゆ ・ よ ら り る れ ろ / わ / 戻る ブアンコク | 武安国 | 孔融軍の部将 鉄鎚の使い手 |
| フウシュウ | フウ習 | 蜀の将 関羽の仇に立ち上がる |
| フエイ | 傅嬰 | 孫翊の腹心 |
| フクカン | 伏完 | 献帝の后妃伏皇后の父 曹操抹殺を謀る外戚 |
| フクトク | 伏徳 | 献帝の后妃伏皇后の兄 献帝の世話役 |
| フシジン | 傅士仁 | 荊州の将 関羽を見捨てた将 |
| フセン | 傅僉 | 姜維子飼いの将 |
| フトウ | 傅トウ | 蜀の将 関羽仇討軍の第4陣 |
| ブンオウ | 文鴦 | 文淑の幼名 |
| ブンキンチュウジャク | 文欽仲若 | 楊州の刺史 司馬師の廃帝に反乱した人物 |
| ブンコ | 文虎 | 文欽の子 文鴦の弟 |
| ブンシュウ | 文醜 | 袁紹の勇将 |
| ブンシュク | 文淑 | 文欽の子 鉄鞭の使い手 |
| ブンペイチュウギョウ | 文聘仲業 | 荊州の忠将 赤壁の左翼 |
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武安国 ブアンコク 容姿 :孔融軍の部将。鉄鎚の使い手。
孔融軍の部将 鉄鎚の使い手
出身地:??
生没年:??〜??年
〜列伝〜 ソウソウのトウタク誅滅の檄に呼応して兵を起こし、第十鎮として洛陽に攻め のぼったコウユウ軍にいた。 虎牢関を攻めた際、リョフに鉄鎚を振り回して戦いを挑み、十合い余り戦った が、腕を切落とされ逃げ帰った。
フウ習 フウシュウ 容姿 :蜀の将。関羽の仇に立ち上がる。
蜀の将 関羽の仇に立ち上がる
出身地:??
生没年:??〜??年
〜列伝〜 カンウの仇討軍にリュウビの副将として従った。宜都で蜀将ゴハン、チョウナ ンに従って呉の大将ソンカンと戦った。その夜に手下に偽りの降伏をさせて情報 を流させてソンカンの陣中を攻めた。ソンカンは敗走し、彝陵に退いた。そこに コウチュウが加勢に来て、高齢のために出陣を諌めるのも聞かずに討って出た。 コウチュウの加勢にゴハンとともに向かった。 蜀軍の連勝の中、先に呉に降ったビホウとフシジンがバチュウの首を持って蜀 軍に降伏した。しかし、リュウビの怒りは収まらず、カンウの霊前で切り刻まれ た。 さらに呉に進撃する蜀軍から陣中に火の手が上がり、馬に乗って逃げようとし たところを呉将ジョセイとぶつかった。ジョセイはリュウビを見つけたので追い かけた。この隙に彝陵城のソンカンを攻めていたゴハン、チョウナンに報せて3 人で加勢に向かった。しかし、チョウナンとともに呉軍に囲まれ彝陵城から討っ て出たソンカンに後ろを攻められて奮戦したが乱戦の中で死んだ。
傅嬰 フエイ 容姿 :孫翊の腹心。
孫翊の腹心
出身地:??
生没年:??〜??年
〜列伝〜 呉主ソンケンの弟ソンヨクがキラン、タイウンによって誅殺された後、除氏、 ソンコウとともにキラン、タイウンを殺した。 その功で牙門将に取り立てられた。
伏完 フクカン 容姿 :献帝の后妃伏皇后の父。
献帝の后妃伏皇后の父 曹操抹殺を謀る外戚
出身地:??
生没年:??〜214年
〜列伝〜 ソウソウが朝廷を専横している時、献帝に密詔を車騎将軍トウショウに与える 策を献じた。しかし、トウショウの密詔は露見し、トウショウ等はソウソウに処 刑された。 その後、伏皇后と謀ってソウソウを討とうとしたが、宦官のボクジュンが密詔 を届ける際に発見されて、一族はソウソウに処刑された。
伏完 フクトク 容姿 :献帝の后妃伏皇后の兄。献帝の世話役。
献帝の后妃伏皇后の兄 献帝の世話役
出身地:??
生没年:??〜214年
〜列伝〜 リカク・カクシが長安を占拠している時、献帝が長安脱出を試みた。その際、 献帝に付き従い、リカク・カクシに追撃された時、切り立った岸辺で絹布で献帝 を縛って岸辺から降ろすことを進言した。自分は、伏皇后を背負って崖を降りた。 その後、伏皇后と謀ってソウソウを討とうとした父のフクトクの策が露見し、 一族はソウソウに処刑された。
傅士仁 フシジン 容姿 :荊州の将。
荊州の将 関羽を見捨てた将
出身地:??
生没年:??〜221年
〜列伝〜 カンウのソウジンの守る樊城攻略の際、ビホウとともに先鋒をつとめるが、出 陣間際に陣から失火して武具や食料を焼いてしまいカンウに打ち首にされかけた。 しかし、ヒシのとりなしで棒打40回の計にとどめられ、先陣を取り下げられて 公安守備に回された。 荊州が呉に攻められ、呉のグホンに説得され降伏した。そしてビホウに降伏を 促しに行き、そこにやってきたカンウの使者を斬った。さらにそこに呉軍が攻め てきたため、ビホウは呉に降るしか道はないと決断しともに呉に降った。 カンウの死後、蜀軍が仇討ちに軍を進め呉軍が兵を退くと、ビホウとともにバ チュウの首を持って蜀軍に降伏した。しかし、リュウビの怒りは収まらず、カン ウの霊前で切り刻まれた。
傅僉 フセン 容姿 :姜維子飼いの将。
姜維子飼いの将
出身地:??
生没年:??〜263年
〜列伝〜 キョウイのもとにおり、魏討伐の際はリホウ、オウシンを討ち取った。 再びキョウイが魏討伐に向かった時は、陽平関を守った。魏将ショウカイが大 軍で攻めて来ると、副将ショウジョは、 「ここは陽平関に立て篭もって守備に徹するべきかと存じます。」 と言ったが、 「敵軍は遠征で疲弊しており討って出る機会だ。」 と言ってショウジョの止めるのも聞かずに兵を率いて討って出た。ショウカイは わざと兵を退き、それにかかって深追いをしてしまい反撃を食らった。そこで兵 を退いて陽平関に戻るが、既にショウジョは魏に降っており陽平関は陥落してい た。大いに怒って馬を返して魏の軍勢に斬りかかっていった。 「蜀の臣と生まれたからは、死しても蜀の鬼となろう。」 と言って再び斬り込んで行った。そして無数の槍を受け、自ら首を刎ねて死んだ。
傅トウ フトウ 容姿 :蜀の将。関羽仇討軍の第4陣。傅僉の父。
蜀の将 関羽仇討軍の第4陣
出身地:義陽郡
生没年:??〜221年
〜列伝〜 カンウの仇討ち軍の第4陣として従った。 呉将ジュンウタンの夜襲をチョウユウ、シャマカらの働きで敗走させた。しか し、蜀軍の湿地に7百里に渡る布陣を火攻めされ、チョウホウとともにリュウビ を守って馬鞍山まで逃れた。 カンコウがリュウビに白帝城で体勢を立て直す事を進言した。そこでリュウビ の後詰め申し出た。そして、呉軍に包囲されて呉将テイホウに降伏を勧められた。 「わしは漢の大将。呉の犬めに降るものか。」 と、降伏に応じず100余合するが抜けられず、 「もはやこれまで」 と叫んで血を吐いて死んだ。 正史では「傅ユウ」と記されている。
文欽仲若 ブンキンチュウジャク 容姿 :若くして名将の子として武勇の才を評価された。気が荒く、礼儀をわき まえない性格。上官を馬鹿にしたり官吏の方に従わず、いつも弾劾の上 奏を受けたが、明帝によって抑えられた。曹爽と同郷であったため待遇 された。
楊州の刺史 司馬師の廃帝に反乱した人物
出身地:??
生没年:??〜258年
〜列伝〜 シバシの廃帝に怒り、カンキュウケンとともに反乱した。しかし、魏軍に斬り 込むもののトウガイに敗れて父子ばらばらに呉のソンシュンのもとに落ち延びた。 その後、魏のショカツタンとともに呉軍に加わって謀反した。しかし、魏の兵 糧攻めにあい、父がショカツタンに兵士の食い延ばしを図るために城外に出す事 を進言した。しかし、ショカツタンは二心あると疑って打ち首にした。
文虎 ブンコ 容姿 :文欽の子。文鴦の弟。
文欽の子 文鴦の弟
出身地:??
生没年:??〜??年
〜列伝〜 父と兄と魏のショカツタンとともに呉軍に加わって謀反した。魏の兵糧攻めを され、父がショカツタンに兵士の食い延ばしを図るために城外に出す事を進言し た。しかし、ショカツタンは二心あると疑って打ち首にした。 父が殺されたことを知ると弟と共に魏に降った。兄弟は偏将軍に任じられ、関 内侯に封ぜられた。
文淑 ブンシュク 容姿 :本名は文淑。幼名は阿鴦。文欽の子。鉄鞭の使い手。身の丈8尺。
文欽の子 鉄鞭の使い手
出身地:??
生没年:237〜??年
〜列伝〜 父と共にシバショウと戦う。しかし、魏軍に斬り込むもののトウガイに敗れて 父子ばらばらに呉のソンシュンのもとに落ち延びた。 その後、魏のショカツタンとともに呉軍に加わって謀反した。魏の兵糧攻めを され、父がショカツタンに兵士の食い延ばしを図るために城外に出す事を進言し た。しかし、ショカツタンは二心あると疑って打ち首にした。 父が殺されたことを知ると弟と共に魏に降った。兄弟は偏将軍に任じられ、関 内侯に封ぜられた。 後に涼州蛮族討伐で功を揚げて武名を天下に示した。武帝は彼に嫌悪感を持ち 晋武帝楊后の父ヨウシュンが処刑された事件にこじつけて、反逆を図ったとして 3族を処刑した。
文聘仲業 ブンペイチュウギョウ 容姿 :荊州の忠将。赤壁の左翼。
荊州の忠将 赤壁の左翼
出身地:南陽郡宛県
生没年:??〜??年
〜列伝〜 荊州のリュウヒョウを頼って来たリュウビをサイボウに従って殺そうとした。 しかし、サイボウはリュウビを討つ事はできずに逃げられてしまう。 新野をソウソウに陥落させられて襄陽に逃げてきたリュウビをギエンが向かえ 入れようとした。しかし、その際、 「おのれ、雑兵の分際で大それた事を。」 と怒って槍をしごいてギエンと打ち合った。リュウビは、 「荊州の領民を苦しめるような事になってしまった。」 と言ってショカツリョウの進言で江陵へ向かった。ギエンは手勢を討ち取られ、 長沙のカンゲンを頼って落ち延びた。 荊州がソウソウに降伏した時は、遅れてソウソウのもとに参じ、ソウソウに何 故遅れたのか問われると、 「国を守れなかった事が恥ずかしくて参れませんでした。」 と答えた。ソウソウその忠誠心に感じ入って手厚い礼を持って処遇した。そして、 江東太守に封じ、関内侯として5千の兵を与えてリュウビの追撃を命じた。当陽 県でリュウビに追いつくが、裏切り者と罵られて軍を退いた。 赤壁の戦いで左翼を率いた。呉軍のカントウ、シュウタイと戦ったが劣勢にな り兵を退いた。呉のコウガイの火のついた船の突撃を阻止するために船を出すが かなわず肩に矢を受けた。モウカイの援軍に救われて赤壁から敗走するソウソウ に追いついた。 ソウソウの銅雀台完成の祝宴でソウソウの錦袍を賭けて弓比べをして見事に勝 ち取った。 ソウソウ没後ソウヒが跡を継ぎ、蜀もリュウビが没してリュウゼンが跡を継い だ。呉のソンケンと蜀のリュウゼンが同盟を結ぶとソウヒは大いに怒って呉に進 軍した。黄初5年(224年)チョウリョウ、チョウコウ、ジョコウらと共に出 兵した。しかし、呉将ジョセイの策の前に大敗し、長江に大風が吹いて魏の船団 は動きがとれず、小船に乗り換えてソウヒを背負って逃げ延びた。