赤膚焼とは?

 赤膚焼は小堀遠州( 1579〜1674)の好んだ遠州七窯のひとつに数えられます。
 特にお茶の道具を造る窯として始まりました。

 私どもの工房の所在する赤膚焼の里、赤膚山は、古の平城京の南西部に位置し、
 青丹よしの詞どおり古来より良質の陶土の産する所であります。
 この良土と天平の昔よりの歴史的、文化的風土に育まれた陶器が赤膚焼であります。

 作品には灰釉を使った乳白色のものが多くみられ、奈良絵とよばれる上絵がつけられています。


赤膚焼の由来

 赤膚焼を産出する大和五条山は古代菅原の地で、附近一帯の土は製陶の素材として最も適しており、
 垂仁帝の御世に
野見宿禰の埴つくりのことが、古記録に見えることから推しても明らかであります。

 天正年間、秀長卿大納言秀長が尾張常滑の陶工与九郎を招いて五条山独自の登窯を始め、
 その後京都の工人、仁清が当地において種々工夫を重ね、また
郡山藩主柳沢家の御用窯となり、
 特に三代城主尭山公が民芸作興の趣旨の下に保護奨励されてより、
 
柳 里恭の影響も 遠州七窯の一 として世に喧伝されるに至ったのです。

 天保年間に城下町郡山の小間物商柏屋武兵衛、一名奥田木白が出現して、
 滋味饒かな赤膚の乳白釉を着彩した奈良人形、香盒、置物の形物楽焼に見せた
 篦目の冴えと素朴な持味を生かした作風は、倅木左、轆轤師山口縫造と共に
 赤膚焼の声価を不滅のものとした実に強力な存在であり、古代赤膚焼の伝統を生かしつつ
 現代の茶陶の基を完成せられたのであります。


奈良絵とは?

 奈良絵は、お釈迦様の生涯を描いた過去現在因果経を漢訳し、そこに経文の絵解きを添えた
 絵因果経を手本にしたもので、上下二本の線の中に人形や家が描かれているものが多く、
 又、奈良の風景や鹿、昔の物語などといった、色々な紋様が組み入れられています。

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