柳沢家歴代郡山藩主

柳沢吉里(やなぎさわよしさと)

貞享4-延享2(1687-1745)
江戸中期の大名。柳沢吉保の長男として江戸上屋敷に生まれる。幼名安暉、のち安貞。元禄14年
(1701)父とともに徳川綱吉から松平姓と吉の字を許され、松平伊勢守吉里と称する。
宝永6年
(1709)父、吉保の隠居後家督をつぎ、甲斐守と称し甲府城主となる。将軍吉宗の時、国替えの命を受けて、大和、近江、河内、伊勢4ヵ国151、288石余を領し、享保9年(1724)8月13日郡山に入城する。郡山城主柳沢家初代である。
優れた文人で、芸道に執心深く、武者小路実陰、正親町公通、冷泉為綱等の添削を受けている。画は狩野洞郁に学ぶ。
延享2年
(1745)9月6日江戸桜田幸橋邸で没した。59才。法名は乾徳院瑞龍全刹大居士。武蔵国豊島郡(新宿区河田町)の月桂寺に葬られた


柳沢信鴻(やなぎさわのぶとき)

享保9-寛政4(1724-1792)
江戸中期の大名。柳沢吉里の子として郡山城中に生まれる。幼名義稠、のち信卿、伊信。月村・蘇明山人・香山・幽蘭台などを号す。延享2年(1745)父の遺領をつぎ郡山城主柳沢家二代となり、美濃守と称する。
博学多才で文学、芸術を愛し、ことに演劇、俳諧を好んだ。儒学や漢詩は谷口元淡や荻生金谷に、俳諧は米仲・春来・珠来に学ぶ。
安永2年(1773)家督を保光に譲り、江戸駒込の別邸六義園に退隠して風流三昧の生活を送る。死の直前まで書き続けた『宴遊日記』『松鶴日記』(柳沢文庫蔵)は当時の俳諧史、演劇史、風俗史などの研究には必読の書といわれている。
寛政4年(1792)3月3日六義園で没した。69才。法名は即仏心院無誉祐阿香山大居士。月桂寺に葬られた。


柳沢保光(やなぎさわやすみつ)

宝暦3-文化14(1753-1817)
江戸中期の大名。柳沢信鴻の子として江戸桜田幸橋の邸で生まれる。幼名久菊、保明。尭山の号は有名である。
安永2年
(1773)父信鴻隠居により家督をつぐ。甲斐守と称する。保光もまた、文学芸術を好み、ことに茶道は石州流の片桐一法庵宗幽を主とし、また千家流の宗旦にも私淑してその道を究めている。茶器にも造形が深く、当時領内で廃絶の運命にあった赤膚焼の復興にも尽力した。文化8年(1811)致仕して、保泰に譲り、剃髪して専ら風雅の道に親しむ。
文化14
年(1817)1月20日江戸新堀邸で没した。65才。法名は止観心院尭山飮明大居士。月桂寺に葬られた。


柳沢保泰(やなぎさわやすひろ)

天明2-天保9(1782-1838)
江戸中期の大名。柳沢保光の子として江戸桜田幸橋の邸で生まれる。幼名信近、のち光雄。
文化8年
(1811)父保光致仕のあとをうけて家督をつぐ。甲斐守と称する。文学武芸の振興に努めた。子弟の教育にはことに心を用い、時には自らの手許金より、藩士の学資を補助するなどした。
天保9年
(1838)5月25日江戸桜田幸橋邸で没した。57才。法名は峻徳院仁嶽高猷。月桂寺に葬られた。


柳沢保興(やなぎさわやすおき)

文化12-嘉永元(1815-1848)
江戸後期の大名。柳沢保泰の子として郡山城中で生まれる。はじめ鏐之助。
天保9年
(1838)父の遺領をつぎ、甲斐守と称する。
天保11年
(1840)12月、光格天皇の葬事に奉護して、泉湧寺に35日間宿衛。
嘉永元年
(1848)8月21日江戸桜田幸橋邸で没した。34才。法名は天寧院鎮山全功。月桂寺に葬られた。


柳沢保申(やなぎさわやすのぶ)

弘化3-明治26(1846-1893)
幕末維新期の大名。柳沢保興の子として郡山城中で生まれる。はじめ保徳。
嘉永元年
(1848)父の死によりわずか3才で家督をつぐ。甲斐守と称する。
郡山における最後の藩主として維新の変革にのぞみ、世相混乱の中にあって、よく士庶を誘掖善導し、郷土の繁栄に貢献した業績は高く評価されている。産業の発展及び救済に力を入れ、明治20年には柳沢養魚研究場を設立、金魚の研究につとめ、同26年には産業の発展を目的に郡山紡績会社を創立せしめ、資本金の十分の一を出資している。また、教育振興にも熱心で、現郡山高等学校に多額の金品と土地を提供した。明治17年伯爵に叙せられる。
明治26年10月2日郡山旧邸内で没した。48才。市内永慶寺に葬られた。

 

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