小堀遠州(こぼり えんしゅう)


天正七年〜正保四年(1579〜1647) 通称作介、名は正一(のち政一)、号は孤篷庵。小堀氏は近江国坂田郡小堀村(長浜市)の草分けの土豪。父の新介正次はもと浅井長政の家臣で、のt長浜城主の秀吉に仕え、その弟の秀長に配属されて家老となり、天正十三年、姫路から大和郡山城に移った。作介もこのとき郡山城に入り、同十六年には秀長訪問の利休の茶湯に給仕したともいう。文禄四年(1595)郡山豊臣氏が廃絶したので父とともに秀吉の直臣に復帰し、伏見六地蔵に移った。作介は古田織部に親近し、籐堂高虎の養女を娶り、春屋宗園に参禅して宗甫の法名を授かり、茶湯を磨いた。すでに父新介は家康に通じ、関ヶ原の論功で備中松山城を給った作介は、伏見作事奉行を命ぜられてその才を発揮した。慶長九年(1604)父の急死によって遺領一万二千石を継いだ。(中略)同十一年、後陽成天皇仙洞御所の作事奉行を命ぜられ、同十三年には駿府城修造の功で従五位下遠江守を授かった。次いで春屋和尚から大有の道号を受け、また江月和尚に請うてその龍光院内に孤篷庵を設けた。禁裏や女御御所の作事奉行を相次いで歴任し、元和三年(1617)河内国奉行となり、所司代板倉重宗をたすけて活躍、同五年に郷里近江小室に遺封された。(中略)同九年、伏見奉行となり、二条城修築や大阪城本丸御殿の作事奉行に当たるなど、公武作事奉行の第一人者として推された。特に建築・作庭の非凡が称されて、金地院崇伝に南禅寺本坊や金地院の茶屋や作庭を依頼され、また寛永六年(1629)江戸城西丸の山里茶屋の作事に急遽召されてその名を轟かせた。同十一年、家光の上洛に備えて近江水口城(茶屋)の修造を命ぜられ、その上洛に際して畿内代官を命ぜられたが、実はすでにその職務に当たっており、ここで公式に畿内や西国の監察の重要任務についたというわけである。早くに二条城に邸を構えた。(中略)晩年は茶事三昧に過ごして、正保四年二月六日に伏見奉行屋敷で没した。(中略)遠州は特に封建社会の確立、ないし伝統文化復興の時流に即応する茶湯の工夫を進めた。また建築造園には古典美を発揚し、武家全盛時代にふさわしく茶室・鎖の間・書院の一体化をはかった。(以下略)
                           (茶道辞典より抜粋)

 

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