豊 臣 秀 長

 秀吉の異父弟。天文9年生まれ。始め小一郎長秀。天正13年頃から秀長と改める。当時、播磨、但馬の領主として姫路に居住。天正13年4月、秀吉の名代として紀伊・和泉の兵八万を率い、四国征伐、六月長曾俄部元親らを降伏させる。
 天正13年9月、兄秀吉と共に五千の将兵を従え郡山に入城した。所領百万石と言われる規模に相応しい城郭の縄張りと、城下町の建設にとりかかる。現在の遺構はすべて秀長当時のもので、今日数多く見られる石垣の転用材(礎石、伽藍石、石仏類など)は当時の大和の特徴であった寺社勢力の弾圧と武士の権力誇示のために意識的に持ち運んだと言われる。
 また、城下町では城町、奈良町、堺町、今井町などの名に見られる当時の先進的商業都市から商人を移住させたり、紺屋町などには、後に云う箱本十三町に商業の専有権を保証した当時の文書を今日なお伝えている。
 天正15年9月、秀長は大納言に昇進、同16年には徳川家康の訪問を受けており、同18年10月には兄秀吉が秀長の病気を見舞うために来城している。
 天正19年1月22日、郡山城内で没する。享年52歳、大和郡山市上箕山に葬られる。
 墓所は「大納言塚」と呼ばれ地元の人々の手で護られている。

 

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