代表的な 花籠の絵 茶碗

この茶碗は、赤膚焼がまだ赤膚と言う名前の無い時代に制作されたお茶碗に、柳里恭が絵付けを施したものである。

*柳 里恭(りゅうりきょう) 甲府城代家老柳沢保格(やなぎさわやすただ)の息子・里恭(やすとも)「郡山藩主柳沢吉里の藩士」 別名:柳沢棋園(やなぎさわきえん)1706~1756 武士にして画人。

曽根家の次男に生まれ、元服して大和郡山藩主より柳沢の姓と吉里の里の字を拝領して、名を里恭とした。字は公美。号は棋園、竹渓、玉桂と称した。また柳里恭と呼称する。

詩画はもとより、仏典、医薬、音律、その他多種多芸のひとであった。人情家で、千客万来、地位身分を問わず、大いに交遊したという。わが国文人画先駆者であり、特に池大雅を指導したことは有名である。

*柳沢吉里(やなぎさわよしさと)1709年父、吉保隠居後家督をつぎ、甲斐守と称し甲府城主となる。将軍吉宗の時、国替えの命を受けて、大和、近江、河内、伊勢4カ国151,288石余を領し、1724813日郡山に入城する。郡山城主柳沢家初代である。

優れた文人で、芸道に執心深く、武者小路実陰、正親町公通、冷泉為綱等の添削を受けている。画は狩野洞郁に学ぶ。

さびれてしまっていた城郭や武家屋敷も大々的に整備させ、城下町も徐々に活気を取り戻した。以降、明治維新まで147年間にわたって、柳沢家の郡山藩が続いた。

現在、大和郡山と姉妹都市である山梨県甲府市との結び付きもこの頃から。大和郡山の名物として知られている金魚も実は柳沢家の家臣が甲府より持つてきたものであると言われている。 この絵に描かれている金魚もこうしたお話によるものであろう。

 

ホームに戻る    前のページに戻る