菅原天満宮

 
 
 喜光寺の斜め向い(北東方向)に菅原神社がある。天神様(菅原道真公の生誕の地であり、菅原家発生の地で祀られている由緒ある天満宮である。御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、野見宿禰命(のみのすくねのみこと)、菅原道真公と、菅原家ゆかりの三神をお祀りしている。
《ご祭神の伝承》
[天穂日命]天穂日命は天照大神(あまてらすおおみかみ)が身につけておられた八尺の勾玉(やさかのまがたま)の五百箇御統(いほつみすまる/勾玉や管玉を沢山緒に通した装飾品)を「天の真名井」の水にかざした時、霧の中から五柱の神が生まれられた中のお一人で、天照大神の御子とされている。天孫降臨に先立ち派遣されて、出雲国造(いずものくにのみやつこ/出雲地方の豪族で、出雲大社、熊野大社の祭祀にあたる。)や土師連(はじのむらじ)の祖神である。天穂日の名は、高天原(たかまがはら)に由来する稲穂の神霊とされるところから、国土安泰、風雨順時、五穀豊穰の護り神として崇敬されている。
[野見宿禰命]野見宿禰は天穂日命から十四世の子孫に当たる。幼い頃から豪力で有名であった。垂仁天皇の御代、大和の当麻に当麻蹶速(たいまのけはや)という人がいて、天下に並びなき強力士を誇っていた。蹶速は力自慢のあまり、乱暴者でもあったようだ。このことをお聞きになった天皇は、蹶速に匹敵する力持ちを全国に求められたところ、出雲の国の野見宿禰の評判をお聞きになり、出雲から召し出された。
 相撲のおこりとなる御前試合は、垂仁天皇七年七月七日、伝承によると、現在の奈良県桜井市穴師の大兵主神社の入口辺りで行われた。野見宿禰は蹶速の肋骨や腰を踏みくじいて勝ち、相撲の始祖と仰がれるようになった。古代宮廷では年中行事として七月七日には、相撲節会(すもうせちえ)が行われたそうだ。野見宿禰は出雲へは帰らず、宮廷にお仕えすることになった。
 古代の日本に於ては、皇族や貴族が亡くなられると死者を悼み、死後も淋しくないようにとの願いをこめて、その従者や妃妾、等が命を絶って殉じる殉死の風習が広く行われていた。
 日本書紀によると、垂仁天皇の二十八年に、倭彦命を葬った時、その陵域に近習の人々が生きながらに埋められた。その様子があまりに悲惨であったので、仁慈の心の篤い垂仁天皇は非常に心を痛められ、こうした殉死の習慣
を無くしたいものだと考えておられた。垂仁天皇三十二年に皇后、日葉酢媛(ひばすひめ)が逝去された時、野見宿禰の献策によって、従来の殉死の風を改め、埴輪(はにわ)を立てることにされた。野見宿禰は出雲から土師部(はじべ)100人を呼び寄せ、みずから宰領して埴輪を作って御陵に納めた。この功によって宿禰は土師部臣(はじのおみ)の姓を賜った。
 垂仁天皇が天寿をまっとうされて、巻向(まきむく)の宮で崩御され、菅原伏見陵に鎮座された時、野見宿禰もお供をし、土師氏は菅原の地に移り住み、以来永く菅原の地に住むことになった。

[菅原氏]奈良時代の末、天応元年(七八一)土師宿禰古人等が、光仁天皇より、本拠地の大和国添下郡菅原の地名にちなんだ菅原宿禰の姓を賜り、平安時代の初め、延暦九年には桓武天皇より菅原朝臣の姓を賜った。古人以来、清公(きよとも)、是善と儒家として秀れ、文章院(もんじょういん/八四七年に入唐した菅原清公が、帰朝後奏請して建てた大学寮。)を司った。
菅原道真公]平安時代の中期、承和十二年(八四五)、菅原是善公の三男として、この地で誕生された。菅原神社の東北約100mのところに、この池の水で産湯をつかわれたという産湯池の遺跡がある。道真公のお母様は京の都から父祖の地に帰って、菅原氏の旧邸で道真公をお産みになったようだ。菅原氏は代々有名な学者が出た頭の良い家柄だが、道真公も生まれつき聡明闊達で文学に長じ、十一才の時、立派な詩を作って、学者であるお父様の舌を巻かせたそうだ。
 元慶元年(八七七)に文章博士となり、仁和二年(八八六)讃岐守として赴任した。この任中に都では、先帝の頃から政治の実権を握って摂政、関白として権力をふるった藤原基経と、親政の意欲に燃える新帝、宇多天皇との間に対立が生じて、有名な阿衡事件(あこうじけん)が起こった。阿衡とは、摂政・関白を称する言葉であるが、天皇が基経に政務を一任する旨の詔書のなかに、〈よろしく阿衡の任をもって、卿の任となすべし〉との辞があったのに対し、基経は「阿衡とは実権のない礼遇を意味するものだ」と非難して政務を拒否した。これによって当時の公卿や学者の間に阿衡の語義をめぐって論争がおこり、やむを得ず詔書を改訂された事件である。
 基経はそれ以後、寛平三年(八九一)に死ぬまで、関白の権力を行使した。
 宇多天皇はこの事を深く遺憾とされ、事件の際、基経に諫言した菅原道真を腹心として登用され、基経の子時平と並んで政務に当たらせた。道真は抜擢されて、参議、中納言とすすみ、八九七年に時平が大納言になった時、道真は権大納言に任じられた。宇多天皇は八九三年に醍醐天皇に譲位される際も、道真一人を相談相手にされたそうだ。
 昌泰二年(八九九)、時平は左大臣に、道真は右大臣に任じられた。吉備真備(きびのまきび)が学者で初めて大臣になって以来、二人目の学界出身の大臣である。当時としては破天荒な出世で、政界を司ることを自認していた藤原氏一族や学閥の反感やそねみが大きかった。なかでも、時平は、自分の父親に諫言することによって先帝の信頼を得たと思っていたので、常に自分と平行して昇進してくる道真は、面白くない存在だったのだろう。
 延喜元年(九○一)一月、時平を筆頭とする藤原氏一族の策謀の讒訴(ざんそ)により、突然、大宰権師(だざいごんのそち)に左遷された。
 都の邸宅に妻と娘を残して太宰府に赴く道真は、
東風吹かば においおこせよ梅の花
   あるじなしとて 春な忘れそ
 の歌を残し、配所で月を見ては清涼殿での月見の宴を思い起こして
 去年の今夜清涼に侍す
 秋思の詩篇独り腸を断つ
 恩賜の御衣今ここにあり
 捧げ持ちて毎日余香を拝す
 という詩を詠んだことは、明治以来、昭和二十年の終戦の頃までの小学校の教科書に載っていたので、この年配の物なら誰でも知っている程、有名な話である。
 道真は太宰府の寓居で詩篇など編んで、侘しい悶々の日を送り、延喜三年(九○三)五十九才で失意のうちに亡くなった。死後、都では道真のたたりとされる異変が相次いで起こった。北野天神縁起によると、道真の怨霊(御霊)は雷神となって猛威をふるい、九三○年には清涼殿に落雷して廷臣を殺傷したという。また、日蔵(道賢)上人が地獄巡りをした時、道真を無実の罪で太宰府に左遷した醍醐天皇が、地獄で苦しむのを見たとされている。この縁起には、道真の霊の託宣があって北野社が創建され、道真に贈位贈官があり、怒りもやわらいで、天神様のご加護による様々な霊験話等も描かれて神徳をたたえている。
 朝廷からは延長元年(九二三)、罪を取り消して本官に復し、九九三年には正一位太政大臣を贈られた。こうして、荒ぶる神として恐れられていた道真公の霊は、慈悲深い利生(りしょう)の神として親しまれ、国家安泰を護る神として仰がれるようになった。
 道真公が秀れた学者であったところから、平安時代以来、学問・詩文の神とされ、能筆三聖の一人であったというので、書道の神として尊敬されている。入学試験シーズンになると、全国各地の天満宮にお参りが殺到し、沢山の絵馬が奉納される由縁である。
 人々に天神さんと親しまれ、全国に数知れずある天満宮の中でも、菅原家発祥の地であり、天神様(道真公)生誕の地に建てられた菅原天満宮、道真公が亡くなられた地に、神託によって、その墓地に九○五年に造立された太宰府天満宮と、京都の北野天満宮は、最もご祭神とゆかりの深い重要な神社とされている。
[境内]鳥居をくぐって表門を入ると、外から見るより意外に広い境内が広がっている。いつもは静寂の気がただよっているのだが、この間、菅原道真公ご命日の二月二十五日にお参りしたら、ちょうど「盆梅展」が催されていて、大変な賑わいだった。
 土蔵の横の梅の木も満開で、驚いたことに十羽に余る鴬が枝と枝を飛び廻っていた。梅に鴬と言うけれど、こんなに沢山の鴬が楽しそうに飛び交っているのを初めて見た。
 拝殿の前には狛犬ではなく石の臥牛が並んでいる。牛は天神様の神使として尊崇されている。道真公が牛車(ぎっしゃ)に乗って都大路を行かれる姿が連想される。
 書聖を偲ばす筆塚も立っている。古い筆を社頭に納め、文筆の神である道真公に感謝すると共に、益々の上達を願って造営されたものである。
 「盆梅展」は聞きしに勝る見事なもので、境内や庭園に並べられているだけではなく、権殿にも、樹齢百年、百五十年の梅が妍を競って並べられ、馥郁とした香りが立ちこめている。現代は俳句の季語でも、何の花とも言わず、ただ花といえば桜のこととなっているが、万葉の頃は梅だったというから、道真公が、飛梅の伝説がある程、梅がお好きだったのも、もっともだと納得できる程だ。盆梅展は毎年二月十六日〜三月十五日、菅原天満宮とお向かいの喜光寺を会場として開催される。 喜光寺でも庭園はもちろん、広いお写経道場にも所狭しと並べられて、ご本尊の阿弥陀三尊も行基菩薩のお像も一きわ満足気だ。喜光寺の丈六の阿弥陀如来様は、道真公の死を悼む人達が、生まれ故郷で菩提を弔うために造営されたと伝えられている。
 日本で盆梅というと、小さくまとまった、ひねこびた恰好の良い木を思い浮かべるが、中国の蘇州に行った時、年古りた木の大きな盆栽を見て、これが盆栽かと驚いたことがある。この菅原の里の盆梅展は、それに負けぬ豪快なものがあって、なる程、奈良時代や平安時代の初期は、大仏様に象徴されるように大陸文化の影響を受けたおおらかさがあった。チマチマとして凝ったものが好まれるようになったのは、鎖国政策をとった江戸時代あたりからなのかな、と、思わせるものがある。きっと行基様も道真様も天上から微笑んでおられることだろう。
[おんだ祭]菅原天満宮では、毎月ご命日の二十五日には忌日祭が行われるそうだが、ことに祥月命日の二月二十五日は、祈年祭として、おんだ祭と、学業成就祈願祭が執り行われる。
 北野天神縁起によると、道真公は太宰府で逝去の後、雷神となって都へ現れたというので、避雷の神、慈雨を与えるとして、五穀豊穰の神としての信仰も集めておられる。
 そこで二月二十五日には社前で、豊作を祈る、おんだ祭(お田植え祭)が行われる。(数年前に書いた、この社のおんだ祭の原稿が見つからず、今年はもう終わった時刻に行ったので、他の社のおんだ祭とゴッチヤになっているかも知れない。)
 翁の面をつけた田主と、牛に扮した少年、神官、氏子総代等が、
「西の山に青い雲のさし出たは、
 かの地かや、この地かや」
とはやしながら場内を一巡する。(中略)
田主「今曰った最上吉日なれば鍬はじめせばと存じ候」一同「芽出度う候」田主「打出の小槌」一同「はるかやさよの」三回繰り返す。田主「打て候えば、天下泰平、宝祚長久、国土安穏、五穀成就、社頭尊厳、氏子繁盛と打ちよせて候」一同「芽出度う候」
 この間にもいろいろの祝詞(はぎごと)はあるが「田を打って候えば、牛を使い候」と子どもが扮した牛を面白おかしい所作で追ったり、柄振(えぶり/水田の土をならすのに使う道具)を使ったり、肥を施した後「福の種蒔こうよう、東田に蒔こうよう、南田に蒔こうよう、西田に蒔こうよう、北田に蒔こうよう、」と豊作を祈念する姿は、古来の田楽を偲ばせる優雅でユーモアに富むものである。

         ホームへ戻る   前のページへ戻る