■「萌えの世界」に架けられた梯子
何故、一時「メカと美少女」から「メカ」が抜け落ちて「美少女萌え」だけに変化した時期があったのか? という問題に立ち戻ろう。メカも無ければ性描写も無く、男の視点すら不在であっても、美少女に萌えることはできるようになったのは何故だろうか?
繰り返し強調したように、適切な「入口」が無ければ「萌え」は成立しない筈だ。では、いかにして「入口」の代わり──「梯子」を手に入れていたのだろうか。
仮説のひとつ(*1)ではあるが、90年代頃にオタク達が熱心に美少女で手淫するようになったからという理由が大きな動力源として挙げられると思う。
美少女漫画においては「入口」としての男性器があれば「萌え」に「メカ」は不要になり、更に男性の姿すら消え去るのだが、そういったオナニーと妄想をオタクがぐわっと一斉に行ったのである。エロ同人とエロゲーがオタク文化に浸透したからだ(どちらも80年代の頃から徐々に規模を広げてきた結果だが)。
と同時に、エロゲーとエロパロはオタク達にとっての共通の趣味へと進歩していく。かつては私物のポルノ・アイテムをこっそり使用していたのに対して、全員が一斉に同じエロゲーや同じアニメキャラを使用するようになったのだ。美少女漫画というのは底辺のメディアであって、キラーコンテンツの存在を欠いており、支配的なブームを生みにくかったのだが、エロパロやエロゲーはブームを支えるに足るコンテンツに事欠かなかったのだ。(*2)
とにかく、美少女で抜くオタクは段違いに増えた。しかもその行為を同好の士相手に言いふらす者も、即売会やインターネットの影響で増えた。もうオタクの間では美少女で抜くのは当たり前になってしまったし、とにかく「一人のヒロインに対してそれに欲情する男の数」がバカみたいに増えたのだ。そしてそのヒロインがどこかで有名になると、空気感染のように美少女で抜く者は増えていく。彼らは原作作品に男の影が無くても、平気でいやらしい妄想を迸らせる術を心得ていた。
その正確な時期は定かでないが、オタクの性生活の大革命があるタイミングにおいて巻き起こったことは間違いない。
するとどうなるのかといえば、美少女をリリースする側がわざわざ「入口」を用意してやる手間が要らなくなったのである。オタク達はエロ妄想という「梯子」を手許に所有しているのだから。少しエッチな要素を散りばめておけば、後は受け手側が勝手に妄想で補完してくれる。
それを突き詰めた結果が、「メカと美少女」が死語となり、性描写すら無い「美少女」だけの萌えが生まれた状況なのだろうと考えている。オタク達は、二次元のキャラクターを妄想の中で性欲の対象にすることを可能にした。性欲の対象にするということは、その内面に入ることに繋がる。内面に入ることで、そこに萌えを感じることができる。エロ妄想という「梯子」を手許に持ち続ける限り、入口は不要になる。
ただ、こういった、エロ妄想を手掛かりにした「萌え」が流行してくると、更に今度は「エロさの無い萌え」(これを狭義の「萌え」だと定義することも多く、だからスラング的には「純粋な萌え」とでも呼ばれるのだろうか)というものが新たに出現してきた。これは「メカも無く、男性の居場所も無く、エッチな要素も無いのに、何故か男性に消費されてしまう」新しい美少女の供給形式だった。
これはおそらく、一旦「美少女で抜くことで美少女への入口を手に入れたオタク」が、深い感情移入を美少女に対して覚えることで美少女の中から出られなくなると、そういう形式の消費が可能になるのだと思う。この、美少女とほぼ同一化した状態を指して「乙女回路を内蔵した」と称することもあるようだ。(*3)
この「乙女回路」は、(「メカと美少女」と並行して育まれてきたオタクの趣向である)少女趣味にも起源を持つもので、互いに融合することで更に活性化する。ここでいう「少女趣味」とは少女漫画などの読書体験に由来するのだが、こちらもまた男性が美少女の内面に触れる為の「入口」の一種であったのだ。男性オタクが少女漫画を通して美少女の内面を重視するようになったいきさつはササキバラ・ゴウの仕事(*4)にも詳しい。
しかし、この「純粋な萌え」というのは一度自分から入口を通って中に入った人間にしか理解できないもので、それだけにカルト化も早かった。百合萌え属性なども含め、表現としては突き抜けて進歩したものの、後から入ってきた初心者が入りにくいのだ(中には、天性の感受性で萌えに目覚める者も居ただろうが)。
例えば、なぜ『月刊コミック電撃大王』で『苺ましまろ』という、女の子の日常を描いただけの、入口の見当たらない作品が受け入れられたのかというと、その前身として『あずまんが大王』という作品が連載していたからだ。『あずまんが大王』は、まず第一に優れたギャグ漫画であり、比較的丁寧に「入口」を用意した秀作であったのだが、電撃大王の読者はまずあずまんがに萌えることで「女の子の日常をテーマにした漫画」を読む為の「梯子」を手に入れていた。だからこそ、敷居の高い『苺ましまろ』の世界も受け入れやすかった。
同様に、ある作品の続編や二次創作は「入口」を不要とするもので、いきなり女の子の内面から描くことが多い。『シスター・プリンセス』も最初こそ「兄」との同一化を読者のとっかかりにしていた筈が、シリーズ後期に進むにつれ「妹達の日常」(*5)がクローズアップされ、むしろ受け手側は妹達の内面描写に心を重ねていくよう導かれていったものだ。
「純粋な萌え」とはつまり、ジャンルの頂上であると同時に、袋小路だとも言える。
「萌え属性」という言葉が発達したのもその現象の一端である。例えば、「百合属性」や「妹属性」に弱いオタクが居たとしよう。彼も最初は、何らかの「入口」を伴ったひとつの作品が強烈な原体験となって、その内面世界から「属性」を身に付けた筈だ。
その後、彼は然るべき「入口」を持たないキャラクターであっても、「百合キャラ」「妹キャラ」という記号的な表現だけで萌えることが可能になるだろう。彼自身が、手許に属性という長い「梯子」を所有しているからである。百合っぽいCGを眺めるだけで萌えることができる、「お兄ちゃん」と呼ばれるだけで敏感に反応する、という現象はこういう仕組みから来ている。梅干しの写真を見るだけで唾液が分泌されるようなものだろうか?
しかし、そういった「純粋な萌え」に本来的な「入口」は存在していない。それぞれの萌えに対応する属性、つまり個別の「梯子」を持たない初心者には、やはり入りにくいものなのだ。萌えキャラというものが、記号的な要素の組み合わせだけで構成できると考えるのは、大いなる勘違いである。それは写真に撮った梅干しと同じで、梅干しを食べたことの無い者が眺めた所で、何の味わいも想像できないだろう。(*6)
一人前の完成された作品の場合、作り手側が「入口」を用意し、受け手を中へと案内することができる。「梯子」を手に持った顧客にあまねいて、「入口」を用意しようとしないのは作り手の怠慢にあたろう。00年代前半は、そのような怠慢が珍しくない時代でもあった。
ただ、ギャルゲライターのYU-SHOW氏は、作り手の怠慢を諫めつつも、「核」という表現を用いて「属性」がオタク文化に果たしてきた役割を肯定的に説明している。(*7)作り手側によって用意される「入口」と、受け手側が手に持つ「梯子」は、オタク文化にとって車の両輪のようなものであることが理解できるだろう。
作品に「入口」が無ければ間口は広がらず、受け手が「梯子」を持っていなければ萌えは拠り所となる核を失って分散してしまうのだ。現在、オタク文化は充分に大きく脹らんだ核を得ている。今同時に求められているのは、間口の広さであろう。
■「萌えと燃えの融合」?
だから今は丁度「メカと美少女」的なものへ回帰するムーブメントが起こっているようだ。00年代中期である2005年は、「萌えと燃えの融合」という言い回しが一種の流行語になっている。これは「メカと美少女」という言葉が死語になってしまった今、その代わりに重宝している若年層向けのキャッチコピーなのだろう(その為、ライトノベル業界で広く見受けられるジャンルだ。未成年は「性欲による梯子」が長くない点も覚えておきたい)。
かつて「メカ」が美少女の入口だったように、今は「燃え」が美少女の入口になっているようだ。ただし、ここでいう「燃え」とは「メカ」と同じく「男性が好みやすいもの」=萌えを意味するから、「萌えと燃え」は別物のように思えて、実は同じ「萌え」である。
例えば、日本刀や銃や異能力だって単なる「萌えアイテム」であって、対象が熱血した男性キャラであろうと「好きなキャラ」=「萌えるキャラ」であることには違いあるまい。
「萌えと燃えの融合」などとシャレて書くと、ひねりの効いた変化球を投げているかのようなイメージがあるが、実際はなんてことのない、受け手が打ち返しやすいストレートを親切に投げているだけなのだ(中には勿論、悪球も混ざっていることだろうが)。
むしろ「純粋な萌え」こそが、ストライクゾーンから外れた変化球だったのである。
■内面の中身
キャラクターの内面へと入り込む為に入口が必要だとすると、その次に問題とされるのは当然中身であって、これにはどうしても人一人分の視点が入れるだけの広さの「スペース」が求められる。『老子』の言葉に「挺埴以爲器、當其無、有器之用」(*8)とあるように、空虚な空間こそが「萌えキャラ」には必要なのだ。
そのスペースの中に入り込み、自分の好きな、愛せる要素を詰め込み、次第に充満させていくのである。こういった「萌え」の精神活動は無意識に、かつ一瞬で行われることだが、お気に入りの大好きなキャラクター、というものはこうして育まれていくのである。
例えば、男性オタクが良く主張する「脳内妹は女じゃない」「現実の女には萌えない」という言説は、要するに女性の内面に「女」や「自我」がギッシリ詰まっていると中に入れない、自己投影できない、という意味でもあると思う。
さて、そこで「女」の内面に「男」が押し入るスペースを作る為には三通りの方法があって、一つ目はセックスやSMの快楽による「トランス(忘我)」状態を利用することである。女性性、というか人間性そのものを破壊することで、いわゆる「頭の中が真っ白になる」ような状態を作り出せば良い。
これは前述したように美少女漫画などポルノ全般の手法なのだが、恋愛もの一般で描かれる「照れ」の表現なども、ライトなトランスの表現に含まれよう。つまりツンデレ属性における「ツン→デレ」の魅力とは、主にそうした「心の隙」を利用して生み出されるものだ。
トランスの引き金はセクシャルな関係だけとは限らない。悲劇や狂気、闘争による高揚感などによってもトランス状態を誘うことができる。ギャルゲーにいわゆる「泣きゲー」「鬱ゲー」「燃えゲー」と呼ばれるものが多いのは、それらがヒロインの精神的トランスを(ある意味では安易に)促進させるものだからだ。過剰なギャグによって「キャラを壊す」という表現も、一種のトランスといえばトランスだろう。
なぜこのことによって男が女の中に入りやすくなるかといえば、肉欲的な恍惚や、羞恥心や緊張感による動悸の高鳴り、怒りの暴走などは、男性も良く体験済みのものであり、理解可能で共有しやすい感覚であるからだ。それと同時に、人格をすり減らすようなシチュエーションにヒロインを晒すことによって本来の女性性を抑え付け、余計な自我に邪魔されずに内面へと視点を滑り込ませることが可能になるのである。
このようにしてスペースを空ける手法を「内面を気化させる」と呼ぶことにしよう。女性キャラの場合は中身の女性性を、男性キャラの場合は中身の男性性をトランスによって気化させ、その中身にフリーな空間を作り出してからその内部に没入するのだ。
二つ目は、最初から内面を気化させたキャラクターにすることである。人間性が希薄で、無垢なキャラクターを造形し、理想通りのパーソナリティを演じさせ、理想に反した生臭さ──女性性や人間性の好ましくない部分──を見せないこと。(*9)
そもそも架空のキャラクター、というもの自体が無垢で希薄な存在なのだから、これが最も一般的な手法だとも言える。例えば、ぼけぼけした天然のキャラなどは、その希薄さを誇張していることになるし、メイドさんのエプロンの真っ白な生地などは、内面の無垢さを表面化させた象徴としても働くのだ。動物、ロボット、幼女、白痴じみたバカな女の子、無口な少女……などに対する萌えは、この仕組みによって生じていると言っていい。
ただしこの手法ではリアリティを欠く恐れもあり、内面の希薄さがそのまま「中身のカラッポさ」に直結して味わいを薄めてしまうことも予想され、密度のバランス取りが難しい。
ある意味で、萌えにおいて一番美味しいのは、対象が持つ人間らしさ、つまりリアルな「他者性」が含まれた部分だからだ。
三つ目は、更に発想を割り切って、女の子の内面を男の子にしてしまえば良い、というコペルニクス的転換である。
前述したバトルヒロイン(例えば男言葉で、闘争本能を有し、男性原理を理解してくれるが、僅かに少女性も残したヒロイン達)の系譜がこの手法を採用している。ふたなり少女や、同性愛者的な属性を持ったキャラクターもこれに該当するだろう。男性は当然女の子が好きなのだから、「女の子が好きな女の子」には身近さを感じるのである。
これを更に押し進めたパターンとして、女装っ子、ショタキャラなどが存在している。これらは逆に、男の中に少女性を付与することで、理想的な内面を作り上げている。
ただ、単純に男の性格のままでは「男」の自己主張が強すぎるので、トランスや希薄化を応用して内面を気化させ、フリーなスペースを広げておく必要がある。
本来、男の子の思考回路を採用したこのパターンは男性にとって最も感情移入しやすいものである筈なのだが、大抵の男性はホモセクシュアルに対する抵抗感が強い為、入門するには大変敷居が高い。まず、受け手が「ショタ属性」なり「女装っ子属性」なりの「梯子」を手に入れてから挑む必要があるのだ。「入門」に時間のかかる属性であると言える。
■キャラクターは支配できない
こういった段取りを経てオタクは「お気に入りの大好きなキャラクター」を手に入れるのだが、良く誤解されているように、萌えキャラはその全てが「受け手にとって都合良く支配されている」わけでは、決してない。
考えてみれば当然の話で、萌えキャラとは自己投影の結晶、己の分身のようなものなのだが、さて、人間は自分自身をコントロールできるだろうか? 答えは無論「否」である。自分をコントロールできない人間が、自分の分身をコントロールできるものだろうか。これも答えは「否」である。
その根拠は、何よりも「想像力の限界」にある。いくら「自分を愛して欲しい」「可愛く振る舞って欲しい」と願った所で、具体的な方法が思い付かなければキャラクターは何もしてくれないのだ。それどころか、イヤな想像しか湧かなくて煩悶することもあろう。
想像力には個人差があり、その力量差が作り手と受け手の境界を分けもしているのだが、たとえプロの作家だろうとキャラクターに完全な個性を与えることは難しい。変化を一切望まず、冷凍保存されたような「萌え」を愛し続けたいのなら別だが、記憶というものは劣化していくものであり、それもやはり難しい……。
ゆえにキャラクターを愛するオタクは、究極的には「他者性」の介入を許す。自分の好きなキャラが、原作、あるいは二次創作で自分の支配から解放される瞬間を望むのだ。
だからこそ、物語の中で愛しいキャラが(本人の思いもよらず)傷付けられた時、我々はまるで自分のことのように心を痛め、悲しみ、更に愛を深めることもできるのである。
既に述べたことの繰り返しになるが、理想的な萌えキャラとは「自己投影」と「他者性」が適度にブレンドされた存在なのだと言えよう。人は他者をこそ真剣に愛するのだ。(*10)
≪萌えの入口論4:総論/出口論≫に続く
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