■敷居の高さ
「萌え」が他者の内面を覗き込んだり、中に入り込むことで得られるものだということは、他者の内面イコール「萌えの世界」であるとも言える。
しかし、その萌えの世界にはハードル、「敷居」が存在している。
これは、対象が現実の人間であっても、架空のキャラクターであっても同様で、自我を主張する彼ら、物言わぬ彼らには、ただそのままでは受け手が共感しうる「手掛かり」が存在しないからである。
その「敷居」を登って乗り越え、対象の内面へと「入門」する為に「入口」は必要とされ、作り手側が丁寧に用意してやったり、時に受け手側の手によって「こじ開け」られたりする。
■「視点」が生む入口の重要性
最も正道、かつ愚直とも言える手法が、想定するターゲット層と同じ性別のキャラクターを「視点」に据えることである。男性向けのエロコメやギャルゲーならば男キャラ、女性向けのラブコメや乙女ゲーならば女キャラといった具合に(主人公である必要は無いので、脇役でも構わない)。
まず受け手は、等身大の同性キャラに感情移入することで作品の中に居場所を見つけ、そしてその次に異性キャラ(ヒロインor王子様役)の外面に触れ、やがて内面へ踏み込んでいくのである。
ひどく当たり前の話だが、男の子にとって少女漫画が敷居の高いジャンルであるのは、こういった「視点」の有無が要因になっている。少女漫画の男性読者は、ある程度「内容を理解する努力」をして、その読み方に慣れてからでないと、なかなか楽しみきれないものだ。
まずは、思い切り初歩的な所から説明しよう。以下は、サルまん(*1)の「ウケる少年まんがの描き方」および「ウケる青年まんがの描き方」の回から読み取れる、H描写の優れた表現手法の実例である。
例1・・・ヒロインのパンツを目撃→男性キャラが鼻血をブーと噴き出す
例2・・・ヒロインのヌードを目撃→男性キャラの股間が「ぼっきーん」という擬音と共に巨大化する
なんてくだらない、と思って軽んじてはいけない。
基本こそが全てを表すのだ。上記の例は「枯れた技術」と呼ぶべき、先人が遺した偉大なる叡智である。
冷静になって想像してみてほしいのだが、仮にヒロインを可愛らしく、いやらしく描いた所で、それだけでは「ただの絵」に過ぎない。その「ただの絵」と読者を繋げ、魅力を最大限に発揮させるのは「視点」となるキャラクターのリアクション芸に他ならないのである。
これは少女漫画などのラブコメでも同様であり、どんなに美形のキャラクターがどんなにカッコよく振る舞おうが、視点となるヒロインが「キャッ」とか「ドキッ」とかしなければ、一体どこが良いやら読者には判断のしようが無いのである。少女漫画の場合、ヒロインが持つ男の趣味の難しさや気位の高さなどを前もって強調しておくことで、後の「ドキッ」が説得力を増してくるだろう(「素敵な大人の男性」が理想だった筈のヒロインが、同世代のワルっぽい男の子にドキッとしてしまう王道パターン、など)。
リアクション役に限らず、対象の反応を引き出す為の「追い込み役」もまた重要である。典型的な追い込みは「相手を惚れさせる」「相手が隠している心理を衝く」「相手が自覚していない感情に気付かせる」などのアクションである。そうすることで引き出した反応に対するリアクションの応酬もまた、受け手が期待する描写であろう。
男性オタクに比べて女性オタクはこういった事実に自覚的であり、彼女達は「キャラ萌え」よりも、キャラとキャラの繋がりを重視した「カップリング萌え」を好む傾向がある。最近はその女性オタクの影響か、男性オタクの中にもカップリングの面白さに気付くケースが増えているようだ。
「視点があって初めて萌えキャラの魅力が際立つ」という事実の具体性については、エロゲライターであるみやも氏の
「どんな属性も受け手次第」というウェブ記事に詳しい。
美浜ちよの可愛さが最大に成立するのはどんな時か? 美浜ちよを見て「うあ、かわいい」と反応する周囲のキャラ達が配置されているシークエンスにおいてである
文中で説明されている、この例示に「視点」の重要性が集約されているだろう。これが模範解答的な「入口」の姿なのだと評していい。
付け加えて言えば、サルまんでは「メガネくん(*2)」という概念を用いて「視点」となるキャラクターの重要性を説いている。「萌え」の表現に限らず、娯楽作品全般に至って欠かせざる要素が「視点」の存在なのだと言い換えていいかもしれない。
更に付け加えれば、他人による二次創作作品に触れる、という行為も「萌え」にとっては重要な入口として作用する。つまりその場合、二次創作者の視点を利用することで対象への手掛かりを得ているのである。原作ではちっとも萌えなかったキャラクターでも、「自分がお気に入りの絵描きさん」が愛情を込めて描くようになった途端、自分もそのキャラに萌えるようになった、という体験は誰しもあるのではないだろうか。その場合、その絵描きが感じている愛情をあなたが追体験していることになるのだ。
ちなみに、ごく単純に「絵が上手い」「話が面白い」「雰囲気がいい」といった、作品としての質の良さも「入口」を広げてくれる要素だ。これは当たり前の話ではある。
次は、また別の「入口」の作り方を説明したい。男性の萌え歴史においては「メカと美少女」というムーブメントが80年代頃に隆盛した。それは「萌え」という言葉が生まれる以前に生まれた、オタクが好む趣向の一形態であった。それは、男性オタクが「女性性」に「入口」をこじ開けた、目覚ましい成功例だったのだ。
■メカと美少女
「メカ」とは広義には、単なる機械だけではなく、ロボットや兵器、SF的なガジェットなどを意味し、延長的に「戦争」のモチーフを指し示すこともあったと思われる。いずれも男性が好む要素である。
「メカと美少女」とは、当初は「SFアニメなどに登場するヒロイン」のことであり、宮崎アニメのヒロインなどを起源としている。そこから派生して、銃火器を持ったヒロイン、軍服を着たヒロイン、特撮番組のヒロイン──いわゆる「バトルヒロイン」をオタクは好むようになっていった。今で言う「萌え擬人化」のはしりとして、戦車やロボットを美少女の姿に擬人化させるジャンルも既に成立している。
1981年には薬師丸ひろ子に機関銃を持たせた映画も撮られたが、これは「メカと美少女」の異母姉妹のようなものだった。1983年には『超時空要塞マクロス』が始まっている。
ここでは、(男性が好む、理解しやすいものの象徴である)「メカ」が、ヒロインと受け手とを繋ぐ「入口」として機能しているのである。こういった「入口」は、様々な萌え属性の中に見出すことができる。
バトルヒロインが細分化して枝分かれした結果、「理系少女」や「軍人少女」、「男言葉」などが属性化していったが、これらはバトルヒロイン達に男性達が身近さを感じていたのと同様、美少女に「男性的要素」を付与することで「入口」を用意しているのである。男性的理性を象徴する「眼鏡」や、軍隊的な忠誠心を連想させる「メイド服」なども、男性にとって近寄りやすい「入口」として機能している。
そしてその内面には、理想化された女の子の心理、「少女性」の平原が広がっていたのだ。その中に入ることで、当時のオタク達はくつろぎ、萌え転がったことだろう。
一応注意してほしいのは、こういった「メカ」要素も萌えの対象であるという事実である。「萌えと好きは同義だ」とは初めに述べたが、メカが男性の好む要素であるということは、つまり男性にとってのメカは萌えやすい、敷居が低い、ということだ。敷居の低い「メカ萌え」を手掛かりにして、敷居の高い「美少女萌え」への入口を用意してやったのが、メカと美少女という一大ムーブメントだったのだ。
■「萌えブーム」への世代交代
さてしかし、90年代後半から00年代前半における、空前の「萌えブーム」によって、「メカと美少女」はその姿を潜め、半ば死語となり果てた。
現に、「理系少女」や「眼鏡ッ娘」は確かに「メカと美少女」の後継だったのだが、既に「メカ」を必要とせず、「美少女」のみで萌えを表現するようになっている。
「萌えブーム」の中において美少女は、美少女であるというだけでも男性に消費されるように進化していった。これは何故だろうか。
その答えは、受け手側がその手許に「梯子(ハシゴ)」のようなものを手に入れたことにある。送り手側が意図して「入口」を用意せずとも、新しい世代の受け手達はキャラクターの「内面に入る」ことができるようになっていたのである。
一度「キャラクターの内面=萌えの世界」に「入門」して入り浸り、その世界の仕組みを学んだ彼らは、それ以降、敷居の高いキャラクターにも萌えることができるように成長していった。
その経緯を解説する前に、「性欲」と美少女の関係について触れておきたい。少々下世話な話になってしまうが、現実の恋愛において性欲が切り離せない問題であるように、萌えにおいても性欲は避けて通れない問題であることを認識してほしい。
■性欲と美少女
美少女漫画(エロ漫画)というジャンルは、最も女性の「内面に深く入り込む」ことができる表現媒体のひとつであると思う。しかし、そこにおいて、入口としての「メガネくん」や「メカ」は必需品ではない(有効利用した作品は多いが)。
あれはなんというか「男性器と美少女」とでも呼ぶべきなのか、セックス、つまり性欲を入口にして美少女(女性性)の中に入り、達すると同時に我(男性性)に帰ることができる仕組みを持っている。なお、美少女漫画の起源がエロ劇画である(*3)ことからも窺えるように、漫画に描かれた性描写というものは、二次コンオタクでなくとも充分「使える」敷居の低い表現である点にも注目されたい。
美少女漫画はこの仕組みを突き詰めて先鋭化させることで、一般的なエロコメやギャルゲーからかけ離れた構造を手に入れている。
美少女漫画を貪欲に読むということは、P感覚を媒介にして、架空のV感覚を空想することだと言い換えてもいいだろう。また、A感覚を媒介にすれば、更に効率良くV感覚を空想しやすくなる。具体的な言及は避けるが、貪欲な美少女漫画読み達はそういった努力──身体感覚を拡張させるトレーニング──を怠らないものである。
そうして、美少女漫画読み達は、P感覚とV感覚を重ね合わせることで自らの男性性から遊離し、架空の女性性の中へと跳び込もうとする。想像力の中において女性の身体の中に入り、その身体感覚を持つことの快楽や愉悦、その立場や性役割から来る心理的な機微(時には嫌悪感すらも)を満喫する。そして射精することで、男の身体性に立ち戻るのだ。
「エロ漫画の読者は、実は女の子の視点に自分を重ねてオナニーしているのだ」という旨の指摘は、美少女漫画評論家の永山薫(*4)や、同人作家の希有馬らが何年も前から言及していたことだ。特に、永山薫は美少女漫画に登場するロリータ少女を「去勢された少年=ショタ(自分自身の投影)」として故意に読解していたという個人的な経験を述べている。
森山塔が残した名言「男に頭はいらぬ 男にはチ●ポさえあればいいのだ」(*5)や、雨宮じゅんの「エロ漫画道とは自分で自分を犯す事と見つけたりィ」(*6)などからも窺えるように、漫画家自身も「美少女」側に没入しながら漫画を描くことが多い為、読者も自然と女性視点で感情移入せざるをえなくなってくる。一般的なエロコメやギャルゲーに比べ、女性視点で物語が進む美少女漫画のなんと多いことか。それでも男性が感情移入できるのは、物語に登場する男性器(男の性欲)が「入口」として役立っているからである。
あくまで男性主体の読み方にこだわる読者も多いが、それは美少女漫画を充分に楽しみきれていないスタンスだとも言え、見方によっては少し勿体無いかもしれない。美少女漫画の中には、視点となる男性を性転換させて美少女の姿に変身させ、「犯される側」に回すというジャンルもある。(*7)これがある意味では美少女漫画の真骨頂であると筆者は思う。
視点が女性の内部へと移動していくことはエロ漫画に限らない現象で、ポルノというものは、コアになればなるほど概ねそのように発達していく。官能小説や、AVなどでもそうだ。男性の登場人物や男優達は、ただ女性に官能をもたらし、「入口」を作る為の装置に過ぎず、そこに受け手がいちいち感情移入したりはしない。演出によってクローズアップされるのは、女性の表情や内面であり、その内面が男性の性欲によってこじあけられ、中身を晒していく過程そのものが求められるのである。
■美少女漫画以外のメディアでは
ただ、このように入口としての男性が消失し、女性の内面へと同一化していく構造は男性向けのラブコメやギャルゲー、エロゲーなどでは見掛けにくいものだ。いずれも僅かな例外を除き、「男性主人公(ゲームの場合はプレイヤー・キャラクター)」が最後まで存在している為である。(*8)
受け手が主人公と同化してヒロインとの疑似恋愛(疑似セックス)を追体験するという構造が守られている所為で、ヒロインへの積極的な感情移入が妨げられているのである。辛うじて「女の内面に入る」ことはできても、その視点はまだ男性主体の立場に留まろうとしており、同一化する所まではなかなか踏み入ろうとしないのが、ギャルゲー、エロゲーというジャンルの現在でもある。自分の好きなヒロインを「脳内彼女」と呼ぶオタクの習慣自体が、男性本位な「萌え」の消費の仕方を象徴していると言えるだろう。
逆に言えばこれからは、この問題を克服したタイトルや、美少女漫画的なエッセンスを吸収した消費の仕方が今後注目されるのではないか、という予想もできる。それは実際に少しずつ現れかけているようにも思える。優れた女性視点のエロゲーが無いわけでもない。(*9)
例えば、『マリア様がみてる』のブームに端を発する「百合萌え属性」などは、「女性の身体感覚をイメージする」トレーニングが欠かせないものだ。何もそれはA感覚やV感覚などでなくとも、髪の毛や衣服までを含めた「皮膚感覚」の全てを用いたスキンシップ、そしてそれに伴う女性的感性の機微に対する想像力である。制服のタイや、服の裾に指が触れた時に感じるセクシャルさ。それは、(ヒロイン達を外から眺めるだけでなく)女性性の内面に深く没入した経験が無ければ手に入らない感動であろう。
≪萌えの入口論3:梯子から内面へ≫に続く
▼目次 ▼リクィド・ファイア