■言葉の限界から/萌えと好きの差 (*1)
本題に入る前に、まずこの論で扱う「萌え」という言葉が指し示す限界を説明しておきたい。
「萌え」と「好き」に大した違いは無い。
「好き」には、ライトでいい加減な感覚で発言される「好き」から、濃くて深い愛情から発せられる「大好き」まで様々あるし、向けられる対象の種別は実に多岐に渡るが、その言葉が取り扱う範囲の幅広さまでを含めて、「萌え」と「好き」の間には大差が無い。
オタクの中には、あまりにも鮮烈で深すぎる愛情を抱いてしまった時に
「これは萌えじゃなくて、“愛”なんだ」
と周囲に弁明せざるをえない傾向がある(筆者もその経験が多々ある)が、それはただ、世間的な「萌え」のイメージが「ライトな好き 〜 死ぬほど大好き」の中間あたりを揺らついているからに過ぎない。
「萌え」を真剣で深刻な意味で用いる人々が少ないが故に、仕方なく別の単語を用いて意味を補わないといけないのだ。
故に“愛”という単語を持ち出して語ろうとするオタク達は結局、その真剣味のある言葉の響きを用いて
「自分は、みんなが普段使っているような“中程度の萌え”なんかではなくて、“もっと深いタイプの萌え”を感じているんだ」
ということを周囲に伝えようとしているのである。
しかし実際に「萌え」、という言葉が扱う範囲は、「好き」や「愛を感じる」に匹敵する。それは恋愛感情に限らず、儚いものを愛おしむセンチメンタリズムから、憧れ、尊敬、友情、信仰、淫欲、ノスタルジー、ありとあらゆる好意的感情は「萌え」という言葉の中に内包することが可能だ。可愛いティーカップは「萌え」だし、憧れのスポーツ選手や映画俳優は「萌え」だし、神や偉人に萌えることもあれば、辛い想い、悲しい想いをしてまで何かに萌えることもある。
然るに、可能な限り広い範囲で言葉を捉えた方が良い。そもそも、萌えの定義を求めようとすることなど、「“愛”とは何か?」という哲学的問い掛けに等しい、ナンセンスな試みに違いあるまい。「○○愛」と、語尾に“愛”が付いた単語はいくつあるだろう? “愛”にだって、それだけ多くの種類があり、そしてその全てが“愛”の中に含まれる。
「萌え」とは、「好き」と同じくらい軽い言葉で、「大好き」と同じくらい真剣な言葉で、「愛」と同じくらい深く懐の広い言葉だ。
そしてどの言葉も、人間の「愛を感じる」という心の機能が刺激された状態を表そうとしている点で等価なのだ。
そこから始めよう。
■「それは萌えじゃない」の欺瞞
美術や芸術などによって心癒されたり、激しく情動を突き動かされたりといった感動は、「萌え」による感動の延長線上にある、と主張しても許されるのではないかと思う。むしろ、芸術の“美”を低俗に降ろしたものが、普段オタク達が感じている「萌え」だと喩えて言ってもいいかもしれない。
ピュグマリオンの説話(*2)を持ち出すまでもなく、芸術家達は総じて自分の作品やそのモチーフに「萌えて」いたのであり、愛好家達はその趣に「萌えて」いたのである。彼らにとって、“美”は「至上の恋人」である。それはオタク達が妄想する「脳内恋愛」と何ら変わることはない。ただ、いくつかの程度の違いがあるだけだ。美や愛のカタチに貴賤があるのかどうかはともかく、中には上品で格式高い萌えもあれば、俗物的で下劣な萌えだってあるだろう。美術品に対して、「萌え」という言葉を使用する人は実際にも居る。
それでもなお、いやそれは萌えとは違うんだ、という指摘にこだわるオタクが居たとすれば、それは他人の恋愛観が自分とは異なるからといって「それは愛じゃない」と言ってしまうような、他者理解の放棄に等しいだろう。
仮に、フリーセックスを標榜する者達がセックスレスカップルに対して「そんなのは愛が無い」と言い放ったとしたらどうだろう。それは言葉の横暴にしかならない。女子高生好きが熟女マニアに向かって「それは異常だ」と笑うのはどうだろう。
オタクが言う「それは萌えじゃない」もまた、これらと同レベルの狭量さで発言されている。オタクの側にしても、自分の感情に対して「それは愛じゃない」などと言われたくはない筈なのにだ。
多くのオタクは、そのレベルの視点からのみで「萌え」を語っている。「これがお前の言う○○萌えってやつか?」「いや、俺の○○萌えはそんなのじゃない」程度の、主観を巡る議論なら構わないが、それを一般論へと広げることはできない。そういった「萌え」への語りは、常に他者への想像力を著しく欠いていることを意識せねばならない。言葉自体に意味は存在せず、ただ他者達による用いられ方だけに注目する必要がある。そして、その他者達とは「無限の他者達」のことであり、ありとあらゆる他者達が含まれるのだ。
かようにして、「萌え」の概念の広まりに限界は存在しないのだが、その一方で、芸術家には芸術家の「萌え」があるように、一般カップルには一般カップルの、フェチシストにはフェチシストの「萌え」が存在する。そして、オタクにはオタクの「萌え」が存在するのだ。これらは、美意識や恋愛観が時代や地方によって変化するのと同様、所属している文化の価値観によって差異が生まれてくる。その違いはどこから生まれてくるのだろうか。
それは、愛情が向けられる対象の在り方の違いである。好きになる対象の性質が異なることで、同じ「好き」という感情でも僅かな(決定的な?)価値観の差が生まれるのである。
■魚の楽しみを知る
「萌え」という言葉を主に用いるのは勿論オタク達であるが、彼らが好むものとは何だったろうか。
オタク達が萌える対象を広く挙げてみると、物語における架空のキャラクター達を始め、イラストレーション、人形(ドール,フィギュア)、機械(ロボット,コンピュータ)、武器、乗物、コスプレ、マスコット、犬、猫、アイドル、声優、著名人、歴史上の偉人、サイト管理人、現実の幼女、などの「意思疎通に隔たりのある存在、あるいは自我を生々しく主張しない存在」ばかりであることに気付くだろう。
急いで結論を先に述べてしまうと、オタク達が用いる「萌え」とは、人が「対象の内面の中に入り込み、そこに理想的なものを投影し、感じ取る」ことができた時に得られる愛情、思い入れから来る一種の「愛着」なのだ。
この一連の行為を、筆者は「対象に入口を作って、その内面に入る」と形容することにしている。
オタクが三次元の人間には萌えにくく、二次元のキャラクターには萌えやすいというのは、この「入口の作りやすさ」と「内面への入りやすさ」「理想の投影しやすさ」の差に起因している。
犬や猫、機械が可愛いのは、彼らが人間との確実なコミュニケーションを得られないからだ。彼らにも彼らの自我が存在する(かもしれない)のだが、それを人間が正しく確認することはできない。自然、人間が彼らの内面を「人間的尺度」でおもんばかり、一方的に想像しながら接する道理になる。それは、思い込みの投影である。
○○ちゃんは優しいのね、賢いのね、よく我慢したわね、なんて甘えた声を出すの、可愛いわ、大好きよ。といった具合に。
これが、「萌え」の仕組みを単純化させたものだ。愛そのものの仕組みと言ってもいい。
『荘子』における「濠上問答」(*3)に近い世界の問題だと言えよう。「濠上問答」は、荘子の「あの魚は楽しそうに泳いでいる」という発言を切っ掛けにして「魚でない人間に、魚の心が理解できる筈がない」という反論を誘ったものだが、啓示的な説話である為、本論を読み進める前に内容を知っておいてほしい。
猫がおなかを出して身体をよじりながら寝転ぶ姿を見た時、我々は「幸せそうだ」と感じ入り、その幸福感を共有する。
これは自己投影であり、勝手な共感に他ならない。我々は猫ではないが、猫の幸福感を理解できるつもりでいる。その理解が正しいかどうかは知りようがない。しかし、その直感に頼る以外の愛し方は無い。
他者(とりわけ異性)に萌えるということは、つまりそういうことだ。
犬や猫に萌える仕組みはこれで理解していただけたと思う。では、我々はいかにして二次元のキャラクターに萌えているのだろう。「架空のキャラクター」に特徴的なのは、その内面が「物語」の演出によって描写されるか、あるいは全く描写されないという点である。
■演出される内面
演出によって描かれるキャラクターの内面というのは、現実に付き合っている人物ではありえない二つの点がある。
一つは、それが「相手の心理を読めてしまっている」という点。もう一つは、「語り手の視点によって美化された理想像である」という点だ。
現実では、他人の心を読むことができないことは当然だが、物語においてはそうではない。キャラクターは自分の感情を隠すことができない。受け手は「神の視点」からキャラクターの心理を観察することができる。視点変更によるモノローグはおろか、「ドキッ」という効果音や、赤面を表すワンポイントなどからでも、その内面を雄弁に物語って(物語らされて)しまうのである。それが「演出」と呼ばれるものの利点であり、(当のキャラクターにとっては)残酷さでもあるのだ。
他のキャラクターが対象の心理に土足で踏み込むような乱暴を行っても、ご都合主義的に許されるケースも多いだろう(えてして物語というものは、そういった乱暴な手順でも経ねばなかなか話が進まないものでもある)。一方現実では、そうおいそれと他人の内面を踏みにじることは許されないものである。現実で相手の内面を覗く為には、それなりのマナーと人生経験、そして適度な横柄さが必要なのだし、しかも苦労して読み取った内面が「真実の心」なのかどうかの保証はどこにもない。
その反面、物語において描かれていることは、信頼度が高い情報だと言える。「私(=受け手)」に対して嘘をつきにくい、という事実がキャラクターの魅力を支えている。
そうでなくても、そこで描かれる心=内面というのは、物語の受け手にとって心地の良いものに限定され、都合良く美化されている。ご都合主義を避けてリアリティや嫌味を持ち込むケースも多いが、娯楽作品であれば、美化はどこかに盛り込まれている筈だ。
また、受け手の妄想力によって、いくらでも美化して「誤読」する行為が許されてもいる。それは現実でもそうで、タレントや作家、サイト管理人、そして故人などの「雲の上の人達」に対しては、受け手が好き勝手な想像をして萌えることができるのである。
■描かれない内面
「物語」によって内面を描かれない、イラストレーションや人形などの場合はどうだろう。こちらはその「イメージ」が喚起する力によって、受け手が勝手に内面へと想像力を投射し、感じ取ることになる。タレ目のキャラクターが上目遣いに見上げる様子、ツリ目のキャラクターが顔を赤らめている様子、などだ。何を考えているのか、受け手は知るべくもないのだが、その内面に勝手な投影をかけることは可能なのである。上目遣いということは、控え目に何かをねだっているのだろう……、顔を赤らめているということは、性的な関係を意識して照れているのだろう……、というように。
荘子が「魚の楽しみ」を知ったのと同じようにだ。仔猫が足元にすりよる姿を見るだけで「可愛い、この子私に甘えてるの?」と言って抱き上げたくなってしまうように。
実際、そういう時の仔猫は単にエサをねだるなどの、何かの頼みごとをしているだけなのだが(だから抱き上げようとすると残念がる)、人間的尺度からすると「足元にすりよる」という行為は、まるで親か恋人に甘えるようなジェスチャーをイメージさせる。仮に自分が猫になったとしたら、好きな人に抱き上げられたい、その為に足元にすりよるだろうな……という、相手を自己に置き換えた連想がそのイメージの裏にはある。
これは、時に魔術的思考(*4)と呼ばれる「主観的な願望と客観的な事実の錯誤」に発展しかねない為、冷静な判断力を失いたくない問題でもある。
■内面と入口
つまりオタク特有の「萌え」に限らず、愛情というものは対象の内面へと向けた感情移入が本質としてあるのである。
実在の人物を思うように愛することが難しいのは、その人物に自我が存在することを我々が知っていて、内面を想像できるまで入り込もうとはせず、安易な感情移入を自重しているからだ。
人は自分の想像力から外れたものを理解しないし、自分が感じられないものに共感することはできない。しかし、その想像力による感情移入こそが、愛情の基礎となりうる。
人は自分よりも幼く未熟なものに愛らしさを感じがちだが、それは相手と同化した気分を得やすいからだろうし、その逆に、強い者に対しては憧れの理想像を重ねようとする。
架空のキャラクターは、受け手にとって想像しやすいパーソナリティを演じる(演じさせられる)か、あるいは、予め内面を空虚にすることによって受け手が自己投影しやすい(なおかつ、愛しやすい)様態を作り出している。キャラクターは、受け手の心の鏡なのだとも言えよう。
勿論、相手の内面を100%理解できたり、完全に自己投影できてしまってもつまらないのだから、適度に不可解かつ異質なパーソナリティを備え、「私」の心を刺激してやまないのが、魅力的なキャラクターだということになる。
その不可解さ、異質さ、というものの典型が、男性にとっての女性性であり、女性にとっての男性性──つまり「他者性」であると考えられよう。極端な例で言えば、「適度にリアルな女性性を織り込んだ性格のキャラ」に「女性イラストレイターの絵」を付けた方が、意外と男性には喜ばれやすいのである。
ここで、前述した結論を再び提示しよう。
萌えの感情とは、「対象に入口を作って、その内面に入る」ことで得られる思い入れであり、愛着である。では、その「入口」を作るとは実際にどういうことで、何が必要なのだろうか。次から追って説明したい。
≪萌えの入口論2:敷居と入門≫に続く
▼目次 ▼リクィド・ファイア