スクラン考3:双方向を目指す想い(2/2)

目次
スクラン考1
スクラン考2
スクラン考3(1)
>スクラン考3(2)

■KC1巻から始まるスクランの世界

 スクランの世界に流れる、ディスコミュニケーション性とは具体的にどういうものか。
 それは、善意や好意をちゃんと理解して、その感謝の気持ちを本人に返す、という正常なコミュニケーションが稀にしか描かれず、その踏み外しをこそドラマの基点にしていることからも説明できる。
 実際に、善意と好意に伴う感謝のシーンをKC1巻から探し出してみようか。初期の段階までなら天満も、単純に行儀の良い子として「ありがとうございます」を条件反射的に言えている(♯03,♯04参照)のだが、その天満に播磨からの好意や善意が絡み出してきた途端、想いのすれ違いが始まる。

 ♯05では、テスト中の助け船が失敗に終わった(播磨の空想では感謝される図が展開されている)。
 ♯06では、ラブレターによる好意が理解してもらえたものの、播磨自身は名乗り出せなかった。
 ♯12では、チカンを退治して感謝されるが、やはり播磨は名乗り出せなかった。

 恋愛感情を伴った播磨→天満の関係に限らずとも、例えば♯16の天満は、美琴に「ありがとう! 勇気が出るわ!」と感謝した直後に「ずるいよ 美琴ちゃん 胸 おっきすぎ!!」と筋違いの文句を言って「ぜんっぜん わかってねえ!!」となる。
 基本的に、人の話をストレートに理解して受け止められるキャラクターが少ない。それはある意味、当然の人間関係でもある。人は人の考えていることを完全に理解することはできないのだ。
 ♭01の八雲は、他者の好意を(相手の表層意識を読める能力を持っているのに、もしくは読めてしまうからこそ)理解して受け入れることができないというジレンマの持ち主として描かれる。彼女の発する「……… ありがとう」という言葉には虚しくも実感がこもらない。そして、八雲が身を投げ出す形で落地から守られた(猫なのだから守られずとも多分無事だったろう)猫の伊織は、もしかすると感謝の気持ちを八雲に伝えようとしたのかもしれないが、猫の心の声は「ニャーニャー」としか伝わらなかった。
 ♭02では、その伊織と似た感情を感じるという播磨修治の心を八雲は読んでしまう。修治の純粋な好意を、八雲はスッと受け入れることができたのだが、仮にも他人の心の内を覗いてしまっているのだから、その感情を口に出して指摘することができる筈もなく、遠回しな態度だけで好意に応えることになる。そして修治自身にしても、その態度は根拠が無い(まさか自分の好意が通じた結果だとは考えがたい)のだから、喜びはすれど、お礼を返すべくもない。感情が言葉にならない。

■ディスコミュニケーションを前提にしたコミュニケーション

 KC8巻♯100や♯141で天満が、KC9巻♯116で沢近愛理が、播磨に向かって言った「ありがとう」のように、謝意を返された側が素直に言葉を受け取れないという、ズキリとする表現もまた、スクランは多い(お礼されるようなことじゃない、そんな資格は無い、といった類の)。相手に対して秘密を隠し持つなど、懐に一物を抱えたコミュニケーションによって、そうした齟齬の数々は際限無く生まれていく。

 八雲のワンウェイな(読心のみの)テレパシー能力は、スクランにおけるディスコミュニケーション性を象徴するもので、その障害(作中でいう「枷」)故に裏主人公の役を担っているようにも思える。
 彼女にとっては、姉の天満ですらすれ違いの多い存在であって、心が視えない時の天満は八雲でも行動が読めないし、天満は八雲の理解者ではあるが、彼女の「枷」まで理解してはいない。互いに向けた愛情が強いということは確かでも、通い合ってはいないのだ。またKC2巻♭03では、サラ・アディエマスに向けて一度言いかけた感謝の言葉が言い切れず、後でか細く言い直すということがあったが、前後共に感情を伝えきれていない。そんな八雲が、相手の善意を汲み取った上で、きちんと「ありがとう」と告げることができたのは、猫の伊織だけ(KC10巻♭29参照)だという事実が何とも切ない(ただ、彼女は播磨から感謝を受け取るというシーンが多く、特徴的な関係を育んでいる)。
 そもそも、天満の想い人である烏丸は、八雲同様か、それ以上のコミュニケーション障害を抱えた人物として描かれている。フィクションの登場人物に心理学用語をあてはめようとする行為はヤボと思われるかもしれないが、軽度の高機能自閉症(アスペルガー症候群)をコミカルにした性格だという見方をしても良さそうな人物である。烏丸程の変人ではないにしろ、近しい障害を抱えた人間は多いものだろう。
 そこで天満を主人公としてみなした場合、彼女の目的意識はただ烏丸に告白するだけには留まらない。烏丸の理解者となり、彼とのコミュニケーションを成立させることもまた、天満にとっては目指すべきゴールとして設定されているように思える。少なくとも、天満自身の意識の上ではそうだろう。
 物語の中で間断的に挿入される、天満と烏丸のコミュニケーションを追うことでもそれは確かめることができる。あらましを表にして順番に並べるとこうなる。(→クリックして別ウインドウを開く
 天満の献身的な努力はちょっとやそっとのものではない。特にKC8巻「描き下ろしオマケマンガ その3」を境にして、天満の「烏丸を理解しよう」という態度は勢いを増し、果敢なものになっていく。KC7巻♯95で播磨が口にしていた「つきあうって コト」の世界に向かって歩を進め、播磨以上の──おそらくスクランの登場人物の中でも際立った──成果を上げているキャラクターが天満その人である。完全には分かり合えないとしても、少しでも相手とのミゾを埋めようとする天満の行動は、内向的な烏丸が相手なだけにヒロイックに映る。そういえば播磨は、天満に理解してもらおうとガムシャラな努力をしたことはあっても、天満の内面を理解しようとしたことはあまり無かったのではないだろうか。

 八雲や烏丸とは反対に、察しが良くて相手を立てることのできる性格の美琴は、その逆位置の問題を象徴しているようにも思える。
 KC4巻♯54の回想シーンにおいて、プライドの高い沢近は美琴のお節介に対してお礼を言う機会を逸しているが、それ故に沢近は美琴への好意を深めていると言える(お礼を言えないことによって一種の「ツケ」を貯めてしまう心理については後述)。その後、美琴に向けた沢近の「アンタを フる方が 馬鹿なのよ…」という慰めは、回想時に思い出した心のツケを返したものと言えるが、その沢近の心理を知ってか知らずか、対する美琴は「ありがと」と素直に感謝していた。同じ花火の景色を眺めて、無言で気持ちを通い合わせるという描写も、スクランの世界では異彩を放つ。
 美琴はKC3巻♯31で播磨に礼を伝えている他にも、KC6巻♯82では今鳥に、KC11巻♯132では麻生にも謝意を伝えられている。しかし、その瞬間に「想い」は殆ど「精算」され、むしろ後に続かない関係を作ることになる。
 美琴は物分かりが良すぎる為か、失恋の経験がトラウマになっている為か、自分自身の気持ちを育てて表現することが苦手で、受け身に回りがちな性格になっているように思える。受け止めるのは上手でも、積極的にはなれないという問題がある。

 ひょっとすると実は、最もスムーズに気持ちを通じ合わせているのはエロ会議や水着ずもう班の面々かもしれない(KC5巻♭14,11巻♭32、13巻♯155など)。他にも絃子と笹倉葉子の女教師二人は気の通じた仲として描かれることが多い(KC5巻♭14,6巻♭19など)し、さつきとララは気持ちを重ねられてもいる(KC11巻♯130)。しかし彼らはメインエピソードの外側に立つ存在なのだ。

■自己満足が産む快楽

 なぜ、スクランを読んでいて楽しいと感じるのか。
 例えば心地良いと感じる場面を、個人的な気持ちで吟味して選び出してみると、上記で挙げてきたような「誰かの誰かへの感情が相手に届いていない」という状況が作り出されている瞬間を特に楽しい、と感じているようだ。皆さんの場合はどうだろう。
 相手に感情が届かないとはどういうことだろうか。また、それがなぜ読者の快感に繋がるのだろうか。
 それは「相手に届かないことによって、その感情が内攻して純化する」からではないか。片想いの感情は、屈折しながらも純粋だと称されるのと同じで。特に優しさやお節介、「親切心」の在り方に絞って更に踏み込んで考えてみたい。
 スクランには、世話焼きや親切な人達が良く登場し、彼らのお節介こそが物語を動かしているとさえ言える。しかし「片想いは、振り向いてもらえない」というラブコメの法則と同じレベルで、彼らの親切心がそのまま相手に届くということも、その感謝を本人に返すということも、殆ど無い。どこかで必ずステップを踏み外したり、ズレを生じさせていたり、苦みを含んだものであったりする。仮に感謝の言葉があったとしても、なぜ感謝されたのかが伝わらないまま会話が流れたり(KC13巻♯154など)、充分に自分の感情を示しきれなかったりする(前出したKC2巻♭03など)。
 つまり親切にした側は、結果的に「見返りの無い善行」をしていることになるし、逆に親切にされた側は、感情的に「借りを返したつもりになれない」まま、いわば「ツケ」だけが内攻して貯まっていく。すると読者にとってどういう「感じ」が喚起されるかというと、親切にした側を見ては「いいことをして満足した気分」や「無償の愛の強さ」を感じ取り、親切にされた側を見ては「何かお返しをしたくなる負い目」と「愛されている気持ち」が強く湧き起こるのだ。
 KC7巻01において、天満の書いた「しっかりした お姉ちゃんになって 八雲を守って あげられますように」という短冊を盗み見た八雲が、姉の幸せを強く願う(「強く」などと誇張した描写は特にされていないのだが、 読者である我々は「強く」だと感じる)エピソードなどにそれは良く表れている。
 もし親切心が直接受け取られ、謝礼も直接返すことができた場合にはこういった感情は発生しえない。謝礼を返されてしまった時点で自己満足の気分は消失し、謝礼が受理された時点で負い目は解消されてしまうからだ。人間関係が円滑になることで、逆に感情の純度が損なわれるのである。

 返報性の原理によって負い目を感じ、心にツケを貯めた人は、また別の機会に、全く関係無い場面でそのツケを相手に返そうとするだろう。しかしそんな人から唐突な親切を受けたとして、その親切さの真意(=自分に対するお返しであるということ)が読み取れなかったとしたら、どうなるか。その「親切」に対する新たな負い目とツケが発生することになり、無限に貸し借りが連鎖していくのではないか。
 例えば、沢近はことあるごとに播磨に救われていて(リレー競争やお見合いの時)、しかしそのお礼がすぐに届けられることは少なく、ずっと後になってから「お返し」することになるのだが、当の播磨は親切にされた理由が良く解らないまま、恩に着ている所がある(天満の誕生日や周防組のバイトの時)
 花井と美琴の関係も例に挙げてみよう。花井は美琴に対して強い憧れと負い目の記憶を残しており、その気持ちを今でも失っていないが、そのことを本人に伝えたことは無いようだし、美琴自身も忘れている(KC3巻♭08参照)。しかし今も花井が美琴を大事にしている(KC4巻♯52,9巻♯109,10巻♯126参照)のは、過去に作ったツケに衝き動かされているからに他ならないだろう。だからこそ、花井は何も見返りを求めずに美琴を助けようとする。
 一方、美琴にとっての花井は、かつて自分よりも弱かった筈が、いつの間にか「助け慣れたな コイツは」などと言われる相手に成長していて(KC3巻♯42参照)、むしろツケを作り返された関係になってしまっている(かといって、花井の側に「ツケを返しきった」という意識は微塵も無いだろう)。と同時に、本質的にお節介な性格である美琴からすれば、花井は「見てらんない」バカな男でもあり(KC8巻♯100参照)、良く花井の世話を焼いている。そんな美琴に対して、今の花井はどう感じるか。
 スクランでは、思いやりや親切心などは、そのままの形では相手に届かないし、返されない。特に白眉だと思えるのが、KC12巻♭33の、花井がレッサーパンダの空太と戦うエピソード。花井は八雲の為を思ってガムシャラに邁進し、当然それ自体は八雲にとって何の役にも立っていないのだが、翌日に八雲は「花井のメガネをかけた空太」をテレビで見て「あ… かわいい…」と、一時の和らぎを得る。そういう形で届いているのだ。花井自身には気の毒なだけの話だが、地味な味わいのあるエピソードだと思う。

 ここで興味深いと思うのは、読者である我々人間は(良い意味での)「自己満足」を感じたがる存在だということだ。健全な形で発露した自己満足は、気持ちいいものなのである。
 「ありがとう」と言われたがらないミャンマー人の話がある。自ら進んで行った善行が──つまり無償の行為が──、謝礼を受けた途端に「見返りを期待した打算」へと貶められてしまうような気がするからだろうか。「ありがとうと言われると、せっかくした良いことが帳消しになってしまうような気がする」「何かをあげて、『ありがとう』をもらう。これで差し引きゼロになってしまう」、ということらしい。
 確かに、人に「借り」を作らせたまま、与えっぱなしにするゆとりを持つということは、気分がいいものだ。しかし世間的な風潮として、そういった自己満足は禁じられている傾向にないだろうか。エゴイストの偽善であるとか、勝手な思い上がりであるとか、自己完結した愉悦だなどと片付けられることも少なくないと思う。我々は「自己満足を見透かされないよう」善意を抑圧し、悪く言えばドライに振る舞わねばならない時すらある。相手に謝礼を支払うチャンスを与えて、カドが立たないよう気を遣ったり。
 しかしだからこそ、漫画というフィクションの中で健全な自己満足の形を疑似体験できることに、我々は非・日常的な快楽を覚えるのかもしれない。フィクションの場合は第三者の視点によって「一方通行でも、結果的には親切心が相手に届いている」「相手が強く感謝している」事実を、謝礼というコミュニケーションを経ずとも確認することができるからだ(それは今まで例に挙げてきた通りである)。
 スクランの中で描かれるお節介は、概ね健全な善意によるものであり、微笑ましい優しさである。双方向のコミュニケーションを目指すスクランの登場人物達だが、読者が求めているのは実は、一方通行が双方向性を得る一歩手前の……互いの愛情がギリギリ通じ合わない瞬間なのかもしれない。
 意思疎通が成立しないからこそ、心地良い関係というのもありうる。しかし現実では、そう上手い具合に自分の善意の健全さを確認することはできず、ただの自己完結から抜け出ることも難しい。そんな日常生活では満足しえない欲求を補い、コミュニケーションの可能性を感じさせてくれるような……そういうフィクションはスクランに限らずとも多いと思う。皆さんにも思い当たる作品がいくつもある筈だ。
 それは、「読むのが楽しい」ことなのだ。


≪小林尽『School Rumble』考1〜3≫・了
←スクラン考3:双方向を目指す想い(1/2)

▼目次 ▼リクィド・ファイア 

 

School Rumble (1)
♯01〜16
♭01,02

School Rumble (2)
特別長編
♯17〜30
♭03〜05

School Rumble (3)
♯31〜46
♭06〜08

School Rumble (4)
♯47〜58
♭09〜12

School Rumble (5)
♯59〜72
♭13〜16

School Rumble (6)
♯73〜84
♭17〜19

School Rumble (7)
♯85〜96
♭20,01

School Rumble (8)
♯97〜108
♭21〜23

School Rumble (9)
♯109〜119
♭24〜26

School Rumble (10)
♯120〜129
♭27〜29

School Rumble (11)
♯130〜140
♭30〜32

School Rumble (12)
♯141〜152
♭33

School Rumble (13)
♯153〜164
♭34〜36

School Rumble TREASURE FILE