[1][2][3][4][5][6][7][8][BACK]

     気付かないけど傍に… -第6話-
作者:吉田 樹さん

 真夏の一日。
 源太と直美。それに由悠を誘って、海にいる。
 直美の水着姿を見たのは、体育の時間くらいのものだったはずだ。じろじろ見ていると、由悠がたしなめるようにして俺の頭を叩く。由悠の水着を褒めて無いとかで、怒ってたんだっけ。
「へ、変…かな?」
「いや、別に」
 正直、その水着は直美に似合ってると思った。なんというか、その。思ってたよりも大きな胸をしている、とかじゃなくて。
 水着になった直美を見て、こいつも女なんだな、と思ったりもした。元から女だとは思っていたけれど、なんというか。いつも考えている、直美も女なんだという感覚よりも。もっと、感情でというか。素直に、女なんだな、と思う事が出来た。
「お兄ちゃん」
 由悠が呼びかけてくる声に、ふと振り返る。その声の調子は、今まで聞いた事が無いくらい暗いものだった。表情も、それに合わせるように暗くなっている。
 それを見ているうちに、俺は不意にある事に気付いていた。
「お兄ちゃん」
 四人で海に行った事なんて無かったんだって。だいたい、俺は…

「お兄ちゃん…」
 しゃくり上げるような声が、白い天井に広がっていた。
 方向感覚がはっきりとしない。鈍い痛みが、頭中に広がっている。吹き込んでくる風に揺れているんだろう。白いカーテンが揺らぐ向こうに、夜の空が見えていた。
 ここは、どこだ?
 頭を振りつつ起き上がろうとする。そして、右肩から腰にかけて走った痛みに、思わず声を洩らしていた。
「お兄ちゃん?」
 息をのむ声に続いて、由悠が俺の事を見ているのが見えた。大きく見開かれた目が、徐々に表情を変えていって。涙でぐっしょり塗れた顔を、笑顔で一杯にしながら飛びついてきた。
「うわ、っておい」
 咄嗟だったので、由悠の体重すら支えられずひっくり返りながら。左腕から、透明な管が伸びている事に気付いていた。とすると、ここは。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん」
 ひたすら呼びかけながら顔をすりつけてくる由悠の頭を、軽く撫でてやった。柔らかい髪の毛の感触が、掌一面で感じられる。
 漠然とした不安が、全身を包み込んでくる。
 理由は、見当はつくけれど、考えたくは無かった。それと同時に、由悠が華奢で柔らかい、女の子の体をしている事に気がつく。すりつけられている胸の感触に、場違いにもどきどきして。
 そう、妹相手に女を感じて、変だと思っているからどきどきしているんだ。
 決して、このどうしようも無い不安が。胸から喉にかけてを虚無で覆われたようなこの感覚が、原因なわけでは無くて。

 由悠が静かに首を振った。
 開ききった窓からは、夜も遅い時間だというのに蝉の声が聞こえてきていた。毛穴がぴりぴりするようだ。肌の下で、皮膚が蠢いているように、どうしようも無い感覚が押し寄せてくる。
 コールに呼ばれて飛んできた看護婦と、その後で来た医者の話によれば。頭を何針も縫う怪我だったわりに、回復は早いらしい。数日ベッドで眠って、抜糸を済ませれば退院していいとの事だった。
 近くでホテルを取る為に動いていた父親と、待合室で憔悴していた母親を由悠が呼び。俺が笑顔で手を振ってやると、二人とも安心したように帰っていった。本当は由悠にも帰って欲しかったんだけれど、こいつは残ると言って聞かなかった。
「お兄ちゃん」
 由悠が心配そうな顔を、俺の方に向けてくる。自分で自分の状態の分かっている俺は、由悠から目を逸らした。多分鏡を見れば、直美だって驚くくらいの怯えた表情をしているんだろう。
 けど、直美と怯えた表情対決をする事は出来無い。もう、出来無いんだ。
 寒かった。ひたすら寒かった。悲しいとか、なんだとか。全然分からない。胸全体をぽっかりとした空洞が覆い尽くしているようで。そして、震えるくらいに寒かった。
 由悠が俺の事をじっと見ている。心配されているのが分かるから、それを吹き飛ばしてやる為に、明るく笑って冗談の一つでも言ってやりたかった。
「何も、」
 けれど、
「何も出来無かった」
 俺の口から出たのは、
「俺は何も出来無かったんだ」
 ただひたすら、後悔する言葉だけだった。
 何かが出来たかなんて、俺には分からない。けれど、けれど。目の前でとても親しい友だちの源太と直美が。他にも大勢の、毎日のように顔を合わせていたクラスメートが。上から降ってきた岩や土砂に潰されたっていうのに。俺は、俺には何もする事が出来無かったんだ。
 もっと、俺は何かが出来ると思っていた。
 自分が思っていた以上に、自分がちっぽけな存在なんだという事が分かってしまって。何も出来無かった俺なんかが生き残って。何でもわかったような顔してて、何も出来無いくせに、どうしようも無い奴のくせに。生き残って。
 ただひたすら、何も出来無かったことが哀しくて。辛くて。嫌で。
「お兄ちゃん」
 由悠の細い指が、俺の頬を拭う。涙? 俺は泣いてるのか? 泣けば済むとでも思っているのか?
「私ね。他の皆さんには悪いと思うけど。お兄ちゃんが生きていてくれたことが、とっても嬉しいんだよ。ここで、本当に。本当に安らかなお兄ちゃんの寝顔を見ていたら、」
 ぼやけた熱い視界の中で、由悠の目に溢れていた涙が、頬を伝い落ちるのが見えた。
「もう、会えないんじゃ無いかって思って」
 俺の顔をしっかりと両手でおさえると、由悠が顔を近づけてきた。そしてそのまま、唇が合わさる。
 由悠とのキスは、海の匂いがした。
 唐突に、本当に思いがけずにした行動だったんだろう。我に返った由悠が、真っ赤になった顔を慌てて逸らそうとする。けれど、何故かとても落ちつく事の出来た俺は、由悠を放す事が出来無かった。
 由悠の頭を抱えて、唇を合わせ続ける。一瞬だけ、びくっとした由悠は。それから力を抜くと、目を閉じて俺に体を預けてきた。
 両手できつく、きつく抱き締めた由悠の体はとても細くて。柔らかくて。壊れてしまうんじゃ無いかと思ったけれど、俺は、壊してしまいたいと思うくらいに。由悠をしっかりと抱き締めた。

NEXT




戻ります 管理用