Brief History of Science

テキストに出てくる科学者、哲学者を中心とした簡単な年表


1543 コペルニクス『天球回転論』 (死後出版、太陽中心説の天文学、いわゆる地動説)

コペルニクスの道具立ては、大部分古代の天文学と同じ。例えば、星を運ぶ透明の「天球」も認めた。一様円運動を基本として天文現象を説明するためには太陽と地球の役割をいわば入れ替えた方がよいと見なした。コペルニクス自身は、それが宇宙の真の構造を表していると考えた。

1609-1619 ケプラーの三法則(火星軌道の決定から惑星運動の法則へ)

太陽中心説に大きな魅力を感じたケプラーは、コペルニクス説を支持した。当代一の観測家だったテイコ・ブラーエの火星観測データを使って、火星の軌道をこの立場で決定しようと苦闘し、ついに「円運動」の偏見をうち破って「楕円軌道」という新しいパターンに到達した。

1620 ベーコン『ノヴム・オルガヌム』

知識を得るための新しい方法として「帰納法」を提唱したとされるが、19世紀に重視されるようになる仮説演繹法にもすでに気づいていた。科学から技術へという近代的な知識の道筋を「予言」した。

1632 ガリレオ『天文対話』(運動の法則、ガリレオの相対性)

望遠鏡を使った天文観測と運動の科学の創始者の一人。数学を用いた自然学を推進した功績は大きいし、実験的方法および思考実験による「理想化」も使った数々の業績は見事というほかはない。ただし、後世の数学や概念を彼の方法に読み込む解釈は慎みながら彼のテキストを読まないと、伊藤和行さんに叱られるぜ。ドレイクをあまり信用してはいけない。Galilean Relativity

1637 デカルト『方法序説』

誰でも知っている「分析と総合」の方法も奥が深い。デカルトの『方法序説』

1638 ガリレオ『新科学論議』

早くいい翻訳を出してほしいね。ガリレオの数学的道具立てや、彼が抱えていた難点については、伊藤和行さんによるNewsletter No. 39Newsletter No. 47を参照されたい。

1654 パスカル・フェルマ往復書簡(数学的確率論の始まり)

「確からしさ」という概念はもっと早くからあったはずだが、これを数学的にきちんと扱う方法は、彼らに発する。こういった問題を彼らに考えさせるきっかけを作ったシュヴァリエ・ド・メレにも功績の一部を与えるべきか。賭事、運のゲームにおける「公平さ」を決めるための数学として確率論が始まったことを銘記すべきである。確率

1673 ホイヘンス『振り子時計』

ガリレオとニュートンの間に少々埋もれる観のあるホイヘンスは、実は彼らに劣らない逸材。遠心力の分析においてガリレオの等加速度運動のパターンを適用した手腕はみごと(1659)。弟子のライプニッツとともに、ニュートンの絶対時間と絶対空間には反対した相対主義者だった。確率論のモノグラフもある。振り子時計は、ホイヘンスによって時間測定のための精密機器として考案され、以後物理学研究で大きな役割を果たした。誰か、ホイヘンス研究をまとめてくれないかね?Inertia

1687 ニュートン『自然哲学の数学的諸原理』(運動の三法則と万有引力、いわゆるニュートン力学の古典)

これは「ニュートン力学の古典」と見なされるが、この中に「運動方程式」はない。ニュートン自身は幾何学的方法で力学問題を解いた(その解法は芸術的とも言われる)。微積分を使った力学問題の解法は、オイラーらの他の人々によって開発された。相対的な時間と空間、絶対的な時間と空間の区別、絶対的時空がなぜ必要なのか、重力の本性などの問題を論じるときには、ニュートンのこの本と、関連する原稿などの文献は必読文献。Inertia; Newtonian Mechanics; Newton's rules of reasoning

1713 ヤーコプ・ベルヌーイ『推測の技法』(確率論の古典)

1736-7 オイラーによる力学の解析的取り扱い

1739 ヒューム『人間本性論』(因果性と帰納の批判)

Hume on Induction; Salmon on Causality

1764 ベイズの定理(死後出版、確率の逆算法)

ベイズの定理は有名だが、この定理が現れた原論文に当たる人は少ない。ベイズがどのような問題と格闘し、どのような過程で彼の定理にたどり着いたのか、調べてみることは有益である。Bayes Note を見よ。

1781 カント『純粋理性批判』(初版、数学と力学の哲学的基礎づけ)

1788 ラグランジュ『解析力学』、オイラーに始まる力学の解析化が新たな発展段階へ

1805 ルジャンドル、最小二乗法(誤差の法則)

ある物理量を測定するときに誤差は免れない。しかし、測定を多数繰り返せば、より正確な測定値にたどり着けないだろうか?誤差をできるだけ小さな限界内に押し込めるにはどういう方法を採ればよいだろうか?「誤差の平方の和を最小にする」ような推定値をとれ、というのがルジャンドルが初めて明確に定式化した最小二乗法。これに対して、後にガウスからクレームがつき、ガウスの方がもっと早くからこの方法を使っていたという主張がなされる。それはともかく、ルジャンドルには「この方法によってなぜ<最善の>値が得られるのか」という議論が欠けていた。確率論の観点からこの議論を補ったのがラプラスである(1810年)。

1812 ラプラス『確率の解析的理論』(古典的確率論)

1814 ラプラス『確率の哲学的試論』(古典的確率論、ラプラスのデモン)

ラプラスの科学的業績は1770年代の中頃から出始めるが、そのころからすでに力学と確率の仕事が両輪となっている。ラプラスのデモンもすでに1776年の論文で出てくる。天文学の業績でよく知られているのは、木星と土星の運動に見られる「不規則性」の謎(オイラーを含む多くの大家が解こうと試みて成功しなかった)をニュートン力学に基づいて解決し、太陽系の力学的安定性を示したこと。確率論の業績は、『確率の解析的理論』(1812)に集大成され、それの第二版に序文としてつけられたのが『確率の哲学的試論』である。科学における統計的方法の発展にも大きな貢献をした。

1830 ライエル『地質学原理』、ハーシェル『自然哲学研究に関する予備的考察』

ジョン・ハーシェルは、天王星を発見した高名な天文学者ウィリアム・ハーシェルの息子で、みずからも天文学で優れた業績をあげた。当時の「自然科学入門」あるいは「科学哲学入門」といってもよい『予備的考察』は、マクスウェル、ミル、ダーウィン、ジェヴォンズなど、多くの科学者、哲学者に大きな影響を与えたと言われている。ハーシェルは1850年にベルギーの天文学者ケトレの確率・統計の本の長大な書評を書き、これがマクスウェルの気体分子運動論に有力はヒントを与えたのではないかと言われている。ダーウィンの進化論形成に強い影響を与えたライエルの地質学説、いわゆる斉一説(過去の大きな地質学的変化も、現存するのと同じ原因が少しずつ長い間かかって引き起こしたとみなす)も、『予備的考察』のなかで言及されている。

1837 ヒューウェル『帰納的諸科学の歴史』(初版)

1840 ヒューウェル『帰納的諸科学の哲学』(初版)

帰納法についての有力な論者は経験主義者が圧倒的に多いが、カントの先験論哲学にのっとってユニークな帰納論を展開したのがヒューウェルである。「多様性の統一」という、カント的なモチーフを中心に帰納法を扱ったのが彼の説である。彼は、科学史の草分けとしても重要な仕事を残した。彼は、また、ファラデイと協力して電気分解関係の科学用語を作った。しかし、ダーウィンの進化論は徹底的に排斥した。

1843 ミル『論理学の一体系』(帰納のカノン)

ジョン・スチュアート・ミルは父親に英才教育を受けたが、科学研究の経験はなく、主としてハーシェルの『予備的考察』に依拠して帰納論をまとめた。1950年頃まで流通していた論理学の標準的な教科書では、前半に演繹論理学(三段論法の理論を中心)、後半に帰納法を中心とした科学方法論を置くというスタイルがとられたが、それはミルの本をモデルとしたもの。ミルは社会科学方法論も扱った。帰納法をめぐるヒューウェルとの論争も重要。

1847 デ・モーガン『形式論理学』、ブール『論理の数学的分析』(記号論理学のはじまり)

二人は論理的推論を代数的な演算で表すという記号論理学の創始者として有名だが、確率論の基礎づけに関わる重要な業績もあることは、それほど知られていない。とくに、デ・モーガンは1830年代から、イギリスにおける(ラプラスの)古典的確率論のスポークスマンとして活躍した。弟子のジェヴォンズは、デ・モーガンから多くのものを引き継いでいる。

1854 リーマン「幾何学の基礎をなす仮定について」

曲面の幾何学を、三次元のユークリッド空間に埋め込むのではなく、その曲面に内在的に扱うガウスの手法を多次元空間にまで拡張して、いわゆる微分幾何学の基礎を築いた仕事。リーマンの「教授資格論文」。簡単に言えば、曲がりくねった座標軸をもつ座標系を使っても、「計量」の概念を導入することによって種々の幾何学的構造を扱えることを示した仕事。後に、アインシュタインが一般相対性理論を作るときに、その数学を提供することとなる。しかし、それまでにも、ヘルムホルツなどを通じて、幾何学の基礎を考え直す試みに重要な刺激を与えている。

1858 ダーウィンとウォレス、自然淘汰説の同時発表

かつては美談とされたこの同時発表は、ダーウィンの取り巻き連が強引に仕組んだもの。自然淘汰説に至る仕事は、もちろんダーウィンの方が早く始め、多くの蓄積を積み重ねていたが、何も公表していなかった。他方、ウォレスは1850年代中頃から進化のアイデアを論文で公表し始めており、ライエルが注目していた。ライエルにおそらく警告されたダーウィンは、蓄積された成果をまとめるべく1856年頃から原稿執筆にかかっていたのだが、そのさなか、ウォレスがマレー群島で書き上げた(自然淘汰説の)見事な原稿が、6月にダーウィンに送られてきたのである(ライエルに見せてほしいという依頼)。ダーウィンに泣きつかれたライエルとフッカーは、7月1日のリンネ学会に、「同時発表」の原稿を急遽滑り込ませた(ダーウィンは、間に合わせの抜き書きと手紙の一節しか用意できなかった)。ウォレスには、すべてが事後承諾で事が運ばれた。「変種がもとのタイプから限りなく離れていく傾向性について」と題されたウォレスのこの論文は、見事な論文なので進化論の歴史を研究する者にとっては必読文献の一つ。

1859 ダーウィン『種の起源』

前述の通り、もう後がなくなったダーウィンは、執筆中の大きな本を中断し、内容をもっと縮約した別の本にかかる。こうして、二十年あまり暖め続けたアイデアが活字になったのが『種の起源』である。その後も、版を重ねるたびに彼は追加や改訂を行なったので、後の方の版ではワケがわからなくなる箇所も出てくる。現在では、結局「初版が一番いい」という評価になっているのだが、スティーヴン・グールドなど、「多元(言?)主義」の進化論を標榜する連中は、その主張に都合のいい後の方の版から引用したがる。わたしに言わせれば、ダーウィンの一番すばらしいところは、生物学において「還元主義」(ダーウィン自身は唯物主義と呼んだ)の路線を徹底的に追究したこと。「人間のみに特有」と見なされてきた諸能力を次々とはぎ取っていくダーウィンの手腕と徹底ぶりには迫力がある(その全貌は、ついに1871年の『人間の由来』で明らかとなる)。ダーウィンは、ある種の「哲学」こみで読まなオモロナイのや!

1860 マクスウェル、気体分子運動論

「気体の動力学的理論の例示」という論文で、マクスウェルは、多数の気体分子の運動を扱うためにニュートン力学と統計的手法を併用するというきわめて斬新な理論を提唱し、これが従来の熱力学のいくつかの結果と合致することを示した。本格的な「気体分子運動論」の始まりであり、後の「統計力学」への歩みが始まる。決定論的なニュートン力学が支配する世界になぜ確率・統計を導入することが許容されるのか?マクスウェルの答えは、ラプラスの路線を踏襲したものだった。すなわち、多数の気体分子について、われわれ人間はそれらの初期条件を把握できないという「無知」の状態にある。そこで「確率」が意味を持つと見なされたのである。温度差がなく、仕事を取り出せない熱平衡状態に対応するものは、気体分子の速度の分布がベル・カーブ(正規分布)をとったときである、というのがマクスウェルの発見。しかし、彼は後に「マクスウェルのデモン」に気づき、ニュートン力学と熱力学との「矛盾」を指摘することになる。

1865 マクスウェルの方程式(電磁気学)

1866 メンデル、遺伝の法則

1871 マクスウェルのデモン

熱力学の第二法則は、熱平衡状態からは、外から余分な仕事を加えない限りエネルギーが取り出せないという。しかし、気体分子の運動速度を見分けられる能力を持った小さなデモンが気体容器中にいて、早い分子と遅い分子を(仕事を費やさずに)仕分けることができるなら、熱平衡状態を温度差のある二つの領域にわけて、再びエネルギーを取り出せる状態にできる、と指摘した。ということは、ニュートン力学と熱力学(あるいは気体分子運動論)は同格の理論ではあり得ない。無知の程度によって、二つ以上のレベルに分かれるのである。もっとも、このデモンの「情報処理」にエネルギーはいらないのかという疑問が残る。

1872 ボルツマン、H 定理(熱力学第二法則の統計力学版)

マクスウェルの路線をさらに追究したボルツマンは、熱平衡状態にない気体がどのように時間発展して熱平衡状態に至るかを表す方程式にたどりついた。それによれば、気体分子が最初どのような状態にあっても、ほとんどの場合、長期的には熱平衡状態に至るのである。これを、力学的概念に基づいて導き出したのが H 定理であり、言い換えれば、熱力学第二法則の力学版である。しかし、ここでも行なわれている力学と確率論との併用を、どのようにして正当化できるのかという問題があり、これがその後も尾を引く。Theory Reduction

1874 ジェヴォンズ『科学の諸原理』(確率論的帰納法)

1879 フレーゲ『概念記法』(論理学、述語論理の始まり)

1883 マッハ『力学の発展史』(初版)

18世紀には完全に確立されたと見なされたニュートン力学も、完璧だったわけではない。ニュートン力学で前提されていた「質量」の定義や絶対空間と絶対時間に潜む問題を鋭く指摘したのがマッハのこの著作。実証主義と思考の経済を強調する立場から、相対運動のみに基づいて力学を書き換えるべきだと見なしたマッハは、ニュートンの運動の第一法則(慣性の法則)を、絶対的な時空なしで理解する方策を示唆した。アインシュタインは、マッハのこのような批判から重要な示唆を受けたと述懐している。後に、一般相対性理論を形成するに当たって、「マッハ原理」と名付けられたアイデアにこだわった。これは、慣性の法則は、問題の物体と宇宙全体との関係で理解すべきだというマッハの示唆に基づいている。Mach's Principle

1900 プランクの量子仮説

テキストではまったく触れてないが、量子力学の始まり。熱力学(気体分子運動論)と電磁気学を結合して「空洞輻射」の問題を研究していたプランクは、経験的にうまく当てはまる公式にたどり着いただけでなく、エネルギー配分がとびとびの値を単位としてしかなされないという「エネルギー量子仮説」に思い至った。詳しくは、Bohr Seminar 参照。

1905 アインシュタイン、特殊相対性理論

19世紀の後半に多くの物理学者を悩ませた、力学と電磁気学の不調和の問題を、いわば「天才の一筆」で解決する方策を示したアインシュタインの出世作。電磁気現象の担い手たるエーテルは、ニュートンの絶対空間を満たす媒体だと見なされていた。とすると、エーテル中を運動する地球の上では、光(電磁波の一種)の運動が、エーテルに相対的な地球の運動の影響を被るはずである。ところが、そのような現象がいかに精密に測定しても見られないというのが、マイケルソンーモーリーの実験結果。この実験結果を知らずに編み出されたアインシュタインの理論は、アド・ホックな余分な仮説なしでこの困惑する事態を解決できることを示した。互いに一様等速運動する系では力学法則は同等に成り立つというガリレオの相対性を一般化し、そのような系では自然法則はすべて同等に成り立つはずだと見なすのがアインシュタインの(特殊)相対性原理。これに加えて、そのような系では光の伝播がすべて同じ速度で行われるはずだというのが光速度一定の原理。これら二つを基本原理として物理学をやるためには、古典物理学で前提されていたような絶対的な時間と空間とは捨てて、時間と空間を相対的にのみ理解すべきであるとアインシュタインは主張した。空間と時間の分析、とくに「同時性」についての新しい定義の仕方が提唱されたのは画期的。これは、ヒューウェルが強調した、科学における「概念的問題」の際だった一例となろう。 Electromagnetism and Relativity

1905 アインシュタイン、光量子仮説

アインシュタインの出発点の一つも統計力学的考察。同じく1905年の別の論文で、アインシュタインはプランクの量子仮説を適用する新しい道を示した。光が金属に当たったとき、そこから電子が飛び出すという現象がある。これが光と物質との相互作用の一例であるが、アインシュタインはこの現象から、光が単なる波ではなく、まとまったエネルギーを塊として運んでいる粒子であると考えなければならないと論じた。つまり、この時代の常識だった光の波動説に対する強力な異議申し立てを行ったわけである。光や物質の二重性(波の側面と粒子の側面)がその後の難問となる。

1913 ボーアの原子モデル(量子力学)

プランクの量子仮説を原子の構造の研究に持ち込んで成功を収めたのが、ラザフォードの弟子だったボーアである。量子的な飛躍のある「定常状態」を要請することで、原子の出す特有のスペクトル線をはじめとしたミクロの多くの現象を説明できる見通しが生まれた。

1915 アインシュタイン、一般相対性理論

1907年に新しい着想を得たアインシュタインは、「相対性原理」を一般化して重力までも扱える新しい理論を目指す。1905年の相対性原理の弱点は、ある基準系と、それに相対的に加速度運動をする系との間で自然法則が異なるように見えること。すでにニュートンは、加速運動で生じる力を根拠として、絶対時空の必要性を論じていたのである。アインシュタインの着想とは、加速運動で生じる力と重力とは等価なものだと見なせば、相対性原理が加速度運動にまで拡張できるというものだった。しかし、この着想をきちんと重力を扱える理論に練り上げるには大きな困難があった。まず、数学的な道具立てが、特殊相対論とはけた違いに難しくなる。なかでも、時間と空間を扱う幾何学が、加速度や重力のため「曲がった」ものとなるため、そのような湾曲を扱えるリーマン幾何学となって、難解な微分幾何学を必要とする。概念的にも、古典力学でなじんだユークリッド幾何学からの離反はきわめて大きくなる。加えて、最終理論の重力場の方程式には影響が及ばなかったものの、アインシュタインはいくつかの概念的な混同を犯した。「一般相対性原理」には結局どのような物理的内容があるのだろうか?相対運動のみから物理学を組み立てるというアインシュタインの当初のプランは結局どう決着したのだろうか?マッハ原理は結局どういう内容であり、そもそも満たしうるのだろうか?大きな星がみずからの重力でつぶれる重力崩壊で生じる特異点(ブラックホール)は認めうるのだろうか?一般相対論と時空の関係説との関係は?などなど、一般相対性理論には、優れて哲学的な問題が山ほど含まれているのである。1919年5月に、イギリスの観測隊が日食時の光の湾曲(太陽をかすめる遠くの恒星の位置がずれて見える)を検証したことにより、アインシュタインは一躍世界の名士になった。See Einstein Seminar

1917 相対論的宇宙論の始まり

「一般相対性の宇宙論的考察」という論文で、アインシュタインは一般相対性を宇宙に適用するとどうなるか考察した。静的な定常宇宙を想定していた彼は、重力による宇宙の収縮を防ぐために一種の斥力を表す宇宙項を導入した。ド・ジッター等との議論からも影響を受け、これ以後も議論は続く。

1922 動的宇宙論

アレクサンドル・フリードマンは、一般相対性が、膨張、収縮する宇宙を許容することを発見(ただし、この可能性が認められていくのはしばらく後)。

1926 シュレーディンガー、波動方程式(量子力学)

1927 ハイゼンベルク、不確定性原理(量子力学)

1928-30 ディラックによる相対論と量子論の結合の試み

電子の扱いに相対論を導入する試みから、結果的に陽電子および反粒子(反物質)の存在を予見することになった。陽電子は1932年に発見された。

1929 膨張する宇宙の観測的証拠

遠くの銀河を観測していたエドウィン・ハッブルは、宇宙が高速で膨張しているという観測的証拠をつかんだ。ハッブルの法則。

1930- エディントン、ルメートルらによる膨張宇宙論の動きが始まる

1930-32 集団遺伝学の始まり(Fisher, Wright, Haldane)See Brief History of Evolutionary Biology

1935 湯川、中間子理論

1948 火の玉(ビッグバン)宇宙論

ジョージ・ガモフを中心として、ビッグバン宇宙論が提唱された。先行する膨張宇宙論と異なるのは、素粒子論を考察に加えて、初期宇宙での元素合成や銀河形成の過程が論じ始められたこと。

 

For more specific subjects (timeline), see Nuclear Physics and Eugenics timeline.


Last modified Dec. 23, 2005. (c) Soshichi Uchii

webmaster