確率

内井惣七

[これは、さる大手出版社が企画した哲学事典のために数年前に書いた私の原稿である。当の事典が(誰の責任かわからないが)いつまでたっても出そうにないので、教材としてウェッブに出すことにした。注は新しくつけたものである。『科学哲学入門』6.14以下に関係する。その後、当の事典はようやく出版された。『事典・哲学の木』講談社、174-177, 2002年3月に本稿注なし)が収録されている。]


 

確率は数学、経験科学、および実践的意志決定にかかわる

「確率」という言葉は、現代ではすでに日常生活でも頻繁に使われる言葉であり、天気予報の「降水確率」や、「宝くじで当たる確率」、「京大文学部の入試に合格する確率」などといった使われ方をする。しかし、この言葉が現在のような意味をになって使われはじめたのは、そう古いことではなく、17世紀の中ごろからである。

「現在のような意味」とは、まず第一に「数学的にきちんと扱える」ということであり、「確率」の満たすべき条件が数学的に明確に規定されるということである。第二に、経験科学における確率の役割も忘れるわけにはいかない。学業成績の評価において使われる「偏差値」も、数学的確率論を応用した経験的な統計学で使われる概念であり、テストの点数や実験や観察の測定値などが大きな集団のなかでどのように分布するかに関わる。物理学や生物学で確率概念が本格的に使われはじめたのは、数学よりももっと新しく、19世紀の中ごろからであるが、現代の科学において確率はすでに不可欠な概念となっている。そして、第三に、日常生活を含めた実践的な決定の場で確率が果たす役割も、確率の本質的な意味に関わりをもつ。確率論の歴史は、フランスの数学者パスカル(1623-62)とフェルマ(1601-65)の往復書簡(1654)に始まるのだが、そのきっかけをつくったのは、当時フランスの社交界で名を馳せていたシュヴァリエ・ド・メレという賭事によく通じていた人物である。彼があるタイプの賭が有利か不利かの計算の仕方に疑問をもち、友人のパスカルに質問をしたのがことの始まりである。ある条件での賭が自分にとって有利か不利か、という損得に関わる実践的な指針を得るために確率の計算方法が探求されはじめた、というのが確率論のルーツである。

Blaise Pascal

確率の統計的側面と実践的側面

さて、確率がこのようにいろいろな場面で用いられているので、確率については哲学が問題にすべき点はないと考えるなら、それは大きな誤りである。「確率とは何だろうか」という問いは、いまだに科学哲学の難問の一つである。確率の数学的側面は、いわば確率概念が数学に乗るための形式的条件であり、今日では数個の公理でもって明確に示すことができる。「確率とはしかじかのものだ」と答えるどのような学説もこれを無視することはできない。しかし、難問はその後である。むずかしい問題が生じる理由は、確率がもつ次の二つの側面をどう関係づけるかにある。

(1)数多く生じる一群の事象のうちでの特定の事象の割合――例えば、よく切ったトランプのカードから一枚を引き、また戻して切りなおす、という手続きにより、赤いカードが出る割合(これを赤いカードの「相対頻度」という)は長い間にはどうなるか――という、統計的な性質と確率との間には明らかに密接な関係がある。これを確率の統計的側面と呼ぼう。進化論や統計物理学で確率が役立つのは、まさに確率のこの側面に基づく。この側面から示唆されるのは、経験的事象の確率は、多くの場合客観的であり、十分な証拠さえ集めれば、誰にとっても確率の同じ値が認められるということである。

(2)すでに触れた賭の損得の判断をはじめ、保険やワクチン接種の効用や危険性の判断など、一般に不確実な状況のもとで合理的に意志決定あるいは行為選択するためには、予想される結果の価値とともに、その結果が生じる確率をも考慮に入れることが不可欠である。例えば、勝てる見込みが非常に小さな賭に大金を注ぎ込むのは愚かであり避けるべきである。この判断は、行為の各々の選択肢がもたらしうる異なる可能な結果1、2、等が予想されるなら

行為の期待される効用 = (可能な結果1の価値×その確率)+(可能な結果2の価値×その確率)+・・・

という期待効用を計算し、期待効用が大きな選択肢を選ぶのが合理的だという原理に基づく。

確率には、このように実践的決定を左右し、そのための指針となるという、もう一つの重要な役割が認められている。これを確率の実践的側面と呼ぼう。ゲーム理論や意志決定の理論で確率が応用されるのは、まさに確率のこの側面による。しかし、この実践的側面から強く示唆されるのは、意志決定や行為選択の主体にとって、価値と同様確率にも主観的な差異があって当然ではないかということである。仮に期待効用が数値で表されたとしたなら、前述の式から、確率の値を可能な結果の価値の関数として求めることもできる。事実、すでに18世紀の中ごろに、イギリスのトマス・ベイズ(1702-61)はそのような確率の定義を提唱している[note 1]大胆な賭博師と堅実な節約家とは、それぞれの個性(とくに、何を高く評価し、何を低く評価するかという価値判断の違い)に応じて、合理的でもありうるし、非合理的でもありうるので、その個性の違いが彼らの確率の違いに反映されても不思議ではない。とすると、彼らの確率は主観的だということになる。かくして、確率の実践的側面は、確率が主観的であるということを示唆し、これは統計的側面から示唆される客観性とは一見相反する性格を示す。

以上のような分析から、確率とは一義的な概念ではなく、少なくとも二種類があるのだという見解が生まれるかもしれない。事実、このような見解をとる立場もいくつかあるのだが、それでもそれらの異なる確率概念の間の関係はどうなっているのか、という新たな疑問が生じ、問題が解消するわけではない。

帰納的確率と統計的確率

確率には統計的側面と実践的側面とがあり、いずれの側面をも十分に説明できるような確率の理解のしかた(確率の解釈)を求めることが、確率の哲学における基本問題である。この基本問題に対する一つの有力な手がかりは、ある事象の確率が経験的に見いだされる過程を分析してみることから得られる。

例えば、ここにある一枚のコインが表裏いずれの面に偏っているか、またどの程度偏っているかは、ふつう確率の言葉で表現できる。すなわち、「このコインを投げて表が出る確率は 1/3 である、P(O)=1/3」と言えば、このコインは裏に偏っており、裏より表がこの程度出にくい、という意味である。もちろん、この文脈でも「確率」の意味は必ずしも一義的ではない。「表の出にくさ」というある種の物理的傾向性とも理解しうるし、「表(O)という事象の長い間の相対頻度」とも理解しうる。さらに、ベイズのような考え方では、「裏が出たら1ポンド払い表が出たら2ポンド受け取る、という表に対する1対2の賭率が公平だ」ということの簡略な言い換えにすぎない、という主観的な理解さえ可能かもしれない。しかし、いずれの見解をとっても、P(O) の値が未知であるかぎり、この値は経験的な探求(例えば、数多く投げて結果を見る)によって見いだすほかはない。そこで、このような経験的知識の対象とされる確率を「統計的確率」と名づけることにしよう。

しかし、経験的な知識は検証の過程、あるいは確証の手続きを常に必要とする。このコインを何回投げ、どのような観察結果が得られたなら「P(O)=1/3」という仮説 h は確証されたと見なせるのだろうか。これは、統計的仮説の検証の問題の一例であり、科学的仮説の検証一般にさえ応用できるかもしれない。確率論の歴史のなかでこの問題に重要な貢献をしたのは、先のベイズとピエール-シモン・ラプラス(1749-1827)とである。一般に、統計的な仮説を前提してよければ、その仮説のもとで具体的な結果が生じる確率は計算できる。例えば、「P(O)=1/3」なら3回続けて表が出る確率は「P(OOO)=1/27」である。しかし、経験的な探求でわれわれが知りたいのは、3回続けて表が出たとき、この証拠 e に基づいて判断すれば先の仮説はどれほど確からしいと見なせるかという「P(h, e)」の確率である。この確率は、ある情報に基づいた仮説の確率であり、先の統計的確率とは異質に見える。そこで、これを「帰納的確率」と名づけておく。

ラプラスはこれを「逆確率」と呼び、これを求めるための「逆算法の原理」を発見したのであるが(1774年)、これはベイズがすでに到達していた原理(現在では「ベイズの定理」と呼ばれる)とほぼ同じものであった。この逆算法あるいはベイズの定理によれば、観察された証拠 e に最も大きな確率を与える仮説 h が、長い間には最も大きな確証の度合、つまりP(h, e) を得ることになる。

このように、統計的仮説の確証が確率論のなかで展開できることになり、確率論が科学的推論を再構成するための有用な道具立てであるという新たな見通しが開けた。そして、それまで確率論とは別の起源をもつと見なされていた誤差の問題、すなわち繰返し行なわれた多数の測定データから、最も誤差が小さいと期待できる最善の測定値を得るにはどうすればよいかという問題も、確率論のうちに統合できることが明らかにされた(1810年)。しかし、ここでわれわれが注目すべきことは、「統計的確率を知るためには統計的仮説の確証が必要であり、そのためには帰納的確率が前提される」という論理的関係である。この関係を押さえる限り、確率の哲学にとっては帰納的確率のほうが基本的であると認めざるをえない。

Pierre-Simon Laplace

帰納的確率は主観的か

そこで、確率とは何かというわれわれの問題は、「帰納的確率の解明」および「帰納的確率と統計的確率との関係」という二つの課題に帰着する。これら二つの課題に完璧に答えられる学説はまだ存在しない。しかし、わたしが最も有望だと考えるのは、すでに触れたベイズ流の考え方である。これは、帰納的確率にはすでに示唆したような主観的な解釈を与え、それによって確率の実践的側面を説明できる。他方、統計的確率に顕著に見られる客観性は、ベイズの定理により、観察された事実に現れた問題の事象の相対頻度が、長い間には統計的仮説の確証において大勢を決定するという事実に訴えて説明できる。つまり、統計的確率は本来主観的な帰納的確率の一形態なのだが、未知の確率であるために経験的仮説の確証を通じてしか人々に明らかにならない。そして、確証される、つまり人々の意見が収束する仮説は、最初は人々の意見が大きく異なっていても、長い間には一つに収束するという形で客観的でありうる[note 2]。これが、統計的確率の客観性にほかならない。以上が現代のベイズ主義者の基本路線である。


[note 1] ベイズの1764年の論文(死後出版)、定義5が確率の定義となっている。

"The probability of any event is the ratio between the value at which an expectation depending on the happening of the event ought to be computed, and the value of the thing expected upon its happening."

ただし、ベイズ自身が確率の主観性を主張しているわけではない。Back

[note 2] デ・フィネッティの定理を参照。Back


参考文献:『確率の哲学的試論』ラプラス、岩波文庫/『科学哲学入門』内井惣七、世界思想社/『現代哲学のフロンティア』神野慧一郎編、第8章、勁草書房/『ラムジー哲学論文集』、IV「真理と確率」、勁草書房/『人間的な合理性の哲学』伊藤邦武、勁草書房


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