今日も、授業は進む。
とりあえずは、先日から読んでいる竹取物語の授業からはじめることにした。どうやら雫は古典を読むのが気に入ったらしく、国語の授業になると普段より更に熱心に聴いてくれるのだ。
「先生、」
途中まで読んだところで雫が突然私の名前を呼んだ。
「かぐや姫は、いつから気付いてたの?」
いつもの囁くような声で、そう尋ねる。
「どういう、ことですか?」
雫は唇に指をあてると少し考えて、
「かぐや姫はいつから自分が月の国の人だって分かってたんだろう、って――そう思ったの」
「なるほど、そういうことですか」
それにしても難しい問題である。
「これはあくまで僕の想像ですが……もしかしたら求婚者達に難題を与えた時点で、薄々かぐや姫は分かっていたのかもしれませんね。ほら雫さん、五人の男たちに探させたものは何でした?」
「〝仏の御鉢の石〟と、〝蓬莱の玉の枝〟と、〝火鼠の皮衣〟と、〝龍の首の石〟と、〝燕の子安貝〟」
――パーフェクトである。
「ええ、良く覚えてましたね。それらは全て、仏教でいうところの
「つまりそんなモノはこの世には存在しない。如意宝珠は実体を持つものではありませんからね。試練という中で〝完成された自己〟を得てくるということ、それが本当の課題だったのではないでしょうか」
なるほど、とでもいいたげに雫がコクリと頷く。
「如意宝珠は一人一人の心の中にあります。それを持つことを結婚の条件に挙げたのは……無意識ながらかぐや姫本人が自分を〝天の人〟だと理解していた、ということなのかもしれませんね」
私がそう言うと雫は少しうつむいて、何もない空間の一点を見つめ。
「無意識に――理解――」
そう呟いた。
*
「どうですか? 授業の方は」
夕刻、洗濯物を届けに来た美千代は私にそう尋ねてきた。
「そうですね。変わった子だという話だったので不安だったんですが、今のところ特に問題はありません。雫さんは賢い方ですし、やる気も十分に見受けられますし、むしろ飲み込みが早すぎて僕が焦っているくらいです」
もっと勉強しておくんでしたと苦笑すると、美千代は衣類をしまう手を止め、信じられないとでも言いたげな顔を浮かべた。
どうしかましたか、と私が訪ねると美千代は、
「今までとは……違いますので」
そう声をひそめて言う。普段は色々とよく教えてくれるが、さすがに自分の仕えている家の悪口になるようなことは言いにくいらしい。
――当たり前といえば当たり前だが。
「前にも何回か家庭教師を雇ったことがあったんですけれど、いつも話を聞いていなかったりいつの間にかいなくなっていたりとか。そんな具合でどの先生も長続きしなかったんです。だから少しびっくりしたというか」
「なるほど。それで……か」
これで納得がいった。何故かはよく分からないが、私の前でだけ雫は〝困った子〟ではない、ということらしい。道理で私には困った子と呼ばれる理由が分からないわけだ。
「変わった者同士、波長でも合うんですかね」
私は苦笑する。静江の言ったこともあながち間違っていなかったか。
「さぁ、何ででしょう? ――あ、もしかして」
美千代が言いかけた瞬間、コンコンと乾いたノックの音が響いた。
私がどうぞ、と返事をすると扉が開き、数学の問題集を持った雫が入ってきた。他人の部屋に入るので緊張しているのか、動きが少しぎこちない。
「おや。雫さん、どうしたんですか?」
雫はバッと持っていた本を開く。私が復習がてら少しずつやるようにと言って渡した数学の問題集だ。
「ここの問題が――わからなくて」
そう言って問題の一つを指で示す。
そこには丁寧な字で数式が書き込まれていた。見るとどうやらこの問題を解くのに必要な公式に気付いていないらしく、そこで途中式は止まっていた。
――記憶力が凄まじく良い雫にしては珍しいことである。
「ああ、ここですか。ここのポイントは……」
そうして説明していると、美千代がからかうような口調で耳打ちする。
「お嬢様は、自分から誰かとお話しをすることもほとんどないんです。もしかしたら先生のことを好かれてらっしゃるのかもしれませんよ?」
「えっ――?」
じゃあ私は仕事がありますので、と言って美千代はクスクスと笑いながら外に出ていった。
私が放心していると、
「先生、続きは?」
と雫に催促された。
「あぁ、え、ええと、それでこの式をこうやって整理するとこの公式にぴったり当てはまるわけで……」
何故だかどぎまぎしながら、私は説明を続けた。
*
夜――。
ふぅ、と溜息をつくと私はベッドに横になった。
早いもので、ここに来てからすでに二週間近くが経過した。
はじめて雫を見たときは心臓が潰れるかと思うほどに驚いたものだが、こうして毎日彼女に様々なことを教えているうちにそんな感覚はどこか遠くに追いやられてしまったらしい。
話を聞いている限りでは不安だらけだったものの、いざ教え始めてみれば雫は熱心に話を聴いてくれるし屋敷での生活は快適であるし、言うことはない。
雫が何故か私を気に入っているらしいという点が若干気になるが、雫が幼くして父を亡くしているということを考えれば、私にどこか父性のようなものを感じているのかもしれない。確証は無いがそう考えているのが健全であろう。私は〝教師と教え子の禁断の関係〟などという言葉にときめく人間ではない。
――夢が無意識の願望の表れでないとするなら、であるが。
そういえば、ここに来てからどういうわけかあの夢を見なくなった。依然として記憶の方はさっぱり戻らないが、やはりあれはただの夢で、ストレスか何かが原因だったのではないか――そんな気さえしてくる。 記憶が一向に戻らないのは困ったことなのだが、こうも心身ともに調子が良いとさほど辛いという気持ちは起こらない。むしろこのままでも良いと妥協してしまいそうなくらい心地良いのだ。
このままこんな生活を続けるのも悪くないか、と呟いたあとで、私は苦笑した。
これではまるでかぐや姫だ、と。
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