栞札

執筆
任那伽耶
分類
,,

 数日後の昼過ぎ。

「む…………」

古典文学を教えようと思った私は、手持ちのテキストに物語のほんの一部の抜粋しか書いていないことに気がついた。

教える人数の多い学校ならばともかくこれは個人授業だ。せっかく雫は実力があるのだし、教養がてら一冊丸ごと読むほうがよいだろう。

「雫さん、本を読みませんか?」

私が言うと、雫は即座にコクリと頷いた。

――意欲があるのはまったくもって良いことである。

本を探してホールまで来たところで、ちょうど静江と鉢合わせた。

「あら先生、どうかなされましたか?」

「ええ、お嬢様に古典文学をと思いまして。……ああそうだ、どこかに古典文学の書籍はありませんかね?」

そういうと静江は少し考えた後、

「それでしたら離れにあります。幾分このあたりは田舎で町の図書館まで行くのは難儀でしょう? そういうわけで、お母様が建てられたのです。街の図書館には及びませんが……毎年それなりに新しく書籍を入れておりますのでそれなりには使えるかと思います」

「わかりました。では使わせていただきます。ところで、」

静江はやつれているように見える。身体から生命力が失われているというか、栄養失調になっているというか、そんな感じに見えた。

「少し顔色が悪いようですが……大丈夫ですか?」

わたしはそう尋ねた。すると静江は少しだけ表情を曇らせて、

「そう――ですか? まぁ、こんなに暑いのですし、少し調子が悪いのかもしれませんね。元々身体はそんなに丈夫ではありませんし」

「そうですか。お忙しいでしょうが、あまり無茶をなさらないでください」

複雑な表情を浮かべたまま静江は頷くと、何故か逃げるようにして足早に去っていった。

「何事もなければ良いのですが……」

私が誰にともなくそう呟くと、

「母様は、」

突然、雫が口を開いた。

「母様は、わたしを産んで身体が弱くなったの」

なるほど、と頷く。そういうのは良く耳にする話だ。

「元気に――なってほしいな」

誰に言うともなく淋しそうに言う雫。

その姿がなんだか酷く儚げだった。

屋敷裏手の小さな森の中に、その建物はあった。屋敷とは違い、離れのほうはかなり和風建築の面影が強く、深い森の前という環境もあいまってまるでお堂か神社のように見えた。

引き戸に手をかけると鍵はかかっておらず、ガラガラと戸が開いた。

中からはいかにも書庫といった感じの独特のインクと紙と保存剤の香りが鼻に届く。書庫の明かりはすでに点いていて、中では芳明が分厚い書籍を持って立っていた。

「あ、先生。どうしたんですか? 何でまたこんなところに」

芳明は私の後ろからついてきた雫に気付いたらしく、

「あ、そうか。授業なんですね?」

と言って微笑んだ。

「はい、今日は国語の授業です。芳明さんも参加しますか?」

「勉強は――学校だけで勘弁してください」

私が誘うと、芳明は横に手を振って苦笑いした。

私もつられて笑ってしまう。はじめて会った時は分からなかったが、どうやら普段は明るい少年のようだ。

「それにしても……凄い蔵書ですね。とても個人の所有物の範囲とは思えません」

窓を除けば大きな部屋の四方どこもかしこも本棚である。中心には綺麗に机が並べられていて、設備も本式の図書館に負けていない。

見回していると、本棚のところどころに奇妙なものを見つけた。

「ん……アレはなんですか?」

本の間にところどころ挟まっている板のようなものを私が指差すと芳明は、あれは 栞札 しおりふだ です、と答えた。

「しおりふだ?」

「借りた本の代わりにあれを挟んでおくんです。そうすれば返す時に楽ですから。それと、誰が借りているっていうのも色を見れば分かります。例えば、僕は黄色の札を使うことになってます。――あまり僕以外は書庫を使わないんで本棚はあんな具合ですけど」

言われてみると、本棚にある栞札はどこも黄色ばかりで、他の色は見当たらない。

改めて部屋を見回すと私の脇――部屋の入口に使われていない分の栞札が青・赤・白・黄・黒色と並べられている。管理する人間がいないことを考えると、なかなか合理的なシステムだと思われた。

「えっと、それじゃあ僕は本を借りる時はどうしたら良いんでしょう?」

「ああ、そうですね……。じゃあそこの青色のを使ってください。それだけは誰も使ってないから」

と、芳明は答えた。

私が礼を言うと、

「それじゃ、あんまり勉強のお邪魔しても悪いので、僕はこの辺で」

何故か芳明は恐縮したようにそういって足早に部屋を去った。

と。

ふと振り返ると、雫がじっと私の方を見ていた。気のせいか心持ち不満そうな顔である。

「あ、すみません。――それでは授業をはじめますか」

「――――――はい」

雫は小さく頷くと、手近な机にちょこん、と座った。

書籍がみっしりと詰まった本棚を眺める。

さて、一体何の本にしたものか。

しばし考えた後、これぞと決めた本を手に取り、本来あった場所に青い栞札を入れておく。

「竹取――物語?」

表紙を眺め、雫が呟いた。

「ええ、俗に言う〝かぐや姫〟のオリジナルです。この前、名前だけは歴史の授業で教えましたよね?」

雫はいつもより大きく頷く。勿論、という意味らしい。

――そしてこの日も順調に授業は進んだ。

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