漫画批評における、視点をめぐる諸問題:3

目次

視点1
視点2
視点3

サンプル1:視界と身体のコラージュ


(板垣恵介『グラップラー刃牙』32巻p93)

 この例において、2コマ目のカット全体では「視点人物の内なる印象」が描かれている。目の前の相手から、頭部への強烈なダメージを与えられた直後のシーンである。
 脳震盪によって「ドロドロ」に揺らいだ景色が「その者の視覚」であることを示唆していることは明かだろう。先んずる1コマ目は「ドロドロ」ではないから、客観的な視点で描かれたコマであることも分かる(逆に言うと1コマ目の時点で既に、手前の人物の頭の中は「ドロドロ」の視界を見ている筈だ)。
 注目すべきは、2コマ目において、同じ絵の中に「その者の横顔」も一緒に描かれているという点である。当然ながら、本人の視界の中に「自分の横顔」は本来入りえない。絵の全体図としては「一台のカメラでは撮影することのできない」映像であり、ということは、二種類の異なる映像を合成した、一種のコラージュ表現に近い構図だと言えるだろう(実際に二枚の絵を貼り重ねているわけではないが) 。

 この「横顔」が視界と同時に描かれることによって、読者はより強く視点人物の「主観性」に入り込むことができるようになる。なぜなら、そこからはまぎれもない「身体感覚」を感じとることができるからだ。恐れの表情からは、筋肉と神経の震え、落ちる汗の冷たさ、見開いた目の緊張感などを感覚的に共有することになるだろう。ついでに言えば、フキダシの中の台詞まで歪んでしまっているので、聴覚にもダメージが及んでいることが窺える。
 ページをめくって続くコマでは、更に後ろ姿まで描かれるようになる。


(板垣恵介『グラップラー刃牙』32巻p94)

 ドロドロに歪んだ景色であることから、このコマの主観は変化していない(主観視点から客観視点にチェンジしたわけではない)ことが理解できるわけだが、良く見ると、「本人の背後の地面」までが描き込まれている。こうなってくると、より「心的イメージ」に寄って描かれたコマであることが窺えるだろう。視覚のみではなく、自分の周囲に対する空間把握を統合した認識(……と、それが崩壊する様子)が「絵」になっているわけだ。
 そしてこの後ろ姿からは、呆然とした無力感や、足下のおぼつかなさ、周囲との距離感の無さ……などが感じとれ、読者は「その者の内なる印象」と同化することができる。
 また少し深読みではあるけれど、「周囲はドロドロに揺らいでいる」のに「自己の身体イメージは比較的しっかりしている」という描写から察して、「空間把握へのダメージ」と「自己イメージへのダメージ」の差を読み取ることだってできるだろう。

サンプル2:変形アングル

 次に重要な点として、「漫画の絵とは、常に真正面からのアングルで鑑賞されるものではない」という事実を意識に留めておいて頂きたい。
 読者はコマを右から左へと読み進めることで、自然と「左向きに視線を差し込むようなアングルで眺める」かのような感覚を備えていく。これは、映画メディアとの大きな違いの一つである(絵巻物や壁画には近いかもしれない)。
 その為、漫画においては「実際の視点位置よりもやや左から撮影したようなカット」でも、充分に同化の効果をもたらす場合がある。もう一度『炎の転校生』の例を見てみよう。


(島本和彦『炎の転校生』文庫版2巻p166)

 1コマ目の映像は、主観となる人物の視覚を再現できていないが、読者は「漫画を読むアングルの傾き」によって、右側の人物と視線が一致する感覚を得やすくなっている。
 「視覚を再現できていない」というのは、映画の主観ショットでいう「誤差の範囲」の中に収まるようなレベルでもない、ということだ。こうした「アングルの傾きやすさ」と、それを利用した「変形アングルによる主観ショット」は、漫画ならではの特性であろう。いや、映画などでもアングルを操ることは可能だとは思われる。ただ、その際の原理原則が両者では微妙に異なる、ということだ。

 また、このような角度からシーンを描いたカットの場合、人物の身体の一部がフレームの中に入ることがある為、(コラージュの場合と同じく)身体感覚との同化を読者に促すことに繋がる。『炎の転校生』の例の場合、表情までは1コマ目の時点では描かれていないが(次のコマで表情が描かれる……というのは映画のモンタージュ技法と変わらない)、「首を見上げるように反らせている」「正面から強い光を浴びている」といった、身体にまつわる情報を得ることができる。

■総論

 現在の漫画制作の場において、以上のような表現の工夫は一般的であるとさえ言えるが、表現論の領域で注目されることはまだ少ないように思える。
 よって我々は、「同一化技法」あるいは「映画的な主観ショット」などといった概念から離れて、もう一度、漫画が表現しうる「視点」と「主観」のダイナミズムを検証してみる価値があるのではないだろうか。

 また、これは技術論の世界に留まる問題でもないと考えている。
 漫画の絵には、なにがしかの意味がある。
 それを読み取ろうとすればなにがしかを感じ取れるし、読み取ろうとしなければ感じ取れないまま去りかねない。
 漫画の中で描き分けられる主観性を「読む」、というのもその内の大事なひとつであって、それは時にストーリーやテーマを理解する上で重大な役割を果たすことだってある。
 漫画における「主観性」については、拙論である「視線力学の基礎」でも重要視したことだが、まだ注意するべきポイントは多く残されているのである。
 漫画は深いのだ。 
 我々は漫画をもっと読み込むことができるし、もっと読みたい、と思う。


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