漫画批評における、視点をめぐる諸問題:1

目次

視点1
視点2
視点3

■同一化技法という造語から

 「主観ショット」という映画用語がある。また、漫画論の世界では「同一化技法」という言葉がある。

 主観ショットとは、Point of View(視点)ショットとも呼ばれ、略して「POVショット」もしくは単に「POV」とも呼ばれている。カメラが映す映像を「登場人物の視点から撮影したもの」として見立て、登場人物の視線の向きを、観客の視線とほぼ一致させることのできるカメラワークを指す。そして主観ショットの効果を生み出すような演出は、(登場人物と観客の視線を同一にすることから)「同一化させる」などと説明される。

 一方、同一化技法とは、漫画研究家である竹内オサムがその著作(『マンガ表現学入 門』など)の中で提唱した言葉であり、映画の技法を漫画に援用したものだと定義されている。しかし、映画用語の中には「同一化」という言葉こそあれ、実は「同一化“技法”」という言葉は見かけられない。つまり竹内オサムによる、漫画の為の造語であるのだ。同一化技法によって表現されたコマを「一人称視点」と呼んでもいるが、この言葉の定義も、竹内オサム自身によるものである。

 「漫画の表現手法」と「映画のカメラワーク」とでは、当然、その原理原則は異なってくる。映画用語をそのまま使わず、「漫画の為の言葉」を造って用意したことは、その点では正解といえるかもしれない。どうした所で、漫画の中での主観ショットは、「主観ショットに類する表現」にしかなりえない筈だからだ。例えば、映画用語としての主観ショットは「主観移動ショット」とも呼ばれることからも原理原則の違いを知ることができる。人間の視界は頭の動きに合わせて動くのが普通であるから、当然カメラを回している間はカメラを移動させることに繋がる。そのことから「主観“移動”ショット」と呼ばれるのだろうが、しかし漫画では「移動する視点(カメラ)」をワンカットで表現するには別の工夫が必要となってくる。必然的に映画と漫画では、主観ショットの扱い方、見せ方は異なってくる筈だ。

 本論では、映画における「主観ショット」と、漫画における「主観ショットに類する表現」を比較してみた上で、では、漫画にとっての主観ショットとは何なのか? ということを踏み込んで考えてみたい。

■同一化技法と一人称視点

 前述したように、映画技法書の中において「同一化技法を使う」などといった説明の仕方は、筆者の知る限りは見かけられない。単純に「主観ショット(POV)で撮影する」といった表現がされるのだが、主観ショットというカメラワークの「効果」に名前はあっても、その「効果を生む技法」に名前があるわけではないということだ。
 それは、その効果を生む演出には考え得る限りいくつもの方法がありえるからで、一概に原則化できるものではないからかもしれない。そう、結果的に「主観視点のように見える」と観客が感じられさえすれば良いのであって、主観ショットの演出はそれで成立するからだ。映画の主観ショットの場合は、具体例を用いた解説こそ多いが、これといった決まりがあるわけではない。かなりフレキシブルなものとして説明されることが多いと思う。

 しかし一方、竹内オサムの「同一化技法」には、やや限定的すぎるとも言える決まりがあるようだった。
 

竹内はマンガにおける「同一化技法」の導入に、あらためて段階を設定する。竹内はまず「同一化技法」の意味を「マンガのなかの登場人物と読者の眼が完全に重なる[ヽヽヽヽヽヽ]同一化技法のみを扱う」(『マンガ表現学入門』九〇頁 傍点筆者)と限定し、

 ――伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』p172

 こうした「限定」によって、見えてこなくなる表現というのもあるのではないだろうか。
 例えば、宮本大人が「マンガと乗り物」(『誕生!「手塚治虫」』収録)で提示したことから始まる『凸凹ポンスケ』(1934年、古澤岩美発行印刷。いわゆる「手塚以前」の作品)を巡る議論からもその片鱗は発見できる。
 

図に見られるコマ展開は、竹内オサムが、『手塚治虫論』(平凡社、一九九三年)や『子供マンガの巨人たち』(三一書房、一九九五年)で、「絵と言葉のズレ」と呼んだ技法と、「一人称視点」と呼んだ技法を複合したものといえる。(中略)
 

<台詞>

1コマ目:
 オー
 スゴイナ
 ナンデモ
 チッチャク
 ミエラ!!

3コマ目:
 コテシラベニ
 コノハガヘシ
 ウヘッ!
 メガマハル

登場人物の視点から見たとおぼしき画面のことを、一人称視点による画面という。上空から捉えられたチッチャク見える景色のコマは、正確には、それがこのたぬきの視点からのものであるかを判断することができない。しかし、たとえこのコマが、たぬきの一人称視点によるものではないとしても、前のコマにおける、下の方を見ながらのたぬきのセリフは、そのたぬきが見ているものを見たいという期待を次のコマへともたらすものであるから、それは一応、一人称視点が持つのと同じ効果を持つものだといえる。

 ――宮本大人「マンガと乗り物」(『誕生!「手塚治虫」』p85-86)

「登場人物の視点から見たとおぼしき画面のことを、一人称視点による画面という。」
「正確には、それがこのたぬきの視点からのものであるかを判断することができない。しかし、」
「それは一応、一人称視点が持つのと同じ効果を持つものだといえる。」

 ここでは、以上の三点をポイントとして押さえておきたい。
 宮本大人の指摘に対して、竹内オサムは以下のように反論した。その反論の内容は、「手塚以前」に一人称視点の表現は存在しえない、という結論先行が窺えるものでもあったが……。
 

『手塚治虫論』を引き合いにだし、宮本大人は「一人称視点」モンタージュ型と同一の効果のある表現が戦前のマンガにもあったと指摘した。
(中略)よく見ればわかることだが、二コマ目の絵は上の飛行機の二人から見た風景ではない。二コマ目の絵は、飛行機の進行方向に寄り添う別の視点人物が、視点を下に向けた視野だと判断できる。ここらあたりは宮本も慎重で、「正確には、それがこのたぬきの視点からのものであるかを判断することができない。(中略 「マンガと乗り物」の引用続く)それは一応、一人称視点が持つのと同じ効果を持つものだといえる。」と言葉を選んでいる。
 読者に寄り添えば「同じ効果」ではなく「類似した効果」を生み出す表現だが、あきらかに「一人称視点」ではない。それにここでぼくが問題としているのは、読者への「効果」だけでなく、手塚治虫というマンガ家の視点意識のありようの方だ。

 ――竹内オサム『マンガ表現学入門』p106-107(*1)

 以上のような竹内オサムの反論について、伊藤剛は
 

 この「批判」の要点はふたつある。ひとつは、竹内が「同一化技法」の意味を、「視点意識」という概念を用い、より強く限定していること。

 ――伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』p178

とコメントしている。
 「より強く限定していること」というのは、先に引用した
 

竹内はまず「同一化技法」の意味を「マンガのなかの登場人物と読者の眼が完全に重なる[ヽヽヽヽヽヽ]同一化技法のみを扱う」(『マンガ表現学入門』九〇頁 傍点筆者)と限定し、

 ――伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』p172

という記述を反復したものだ。

 しかし竹内オサムの「限定的な」解釈とは裏腹に、映画における主観ショットには、「完全に視線が一致しなければならない」という厳密なルールは存在しない。例えば、精確な「カメラ目線」でない視線であっても、視点人物と被写体人物が「見つめ合っている」ような効果は充分に生み出すことができる。その程度の不一致は、誤差の範囲として許容されるのだ(単純に考えてみても、カメラを役者の頭部と「全く同じ位置」に据えて撮影する、ということ自体が困難なのだから、至極当然ではあるのだが)。
 そしてその「誤差の範囲」は、漫画においても同じことが言える。カメラ目線ではないのだが、「相手と目を合わしている」という印象を感じさせることは可能なのだ。


(島田英次郎『伊達グルーヴ』1巻p72)

一人称視点「ではない」が……

 実際に『凸凹ポンスケ』の問題のコマを眺めてみると、「景色のコマ」が「ポンスケ自身の視覚」と完全に一致するものではない、ということが確認できる。
 ポンスケの視野を忠実に再現しようとしてみた場合、彼の視野内には「飛行機の機体の一部」が映る筈で、ひいては「ゴーグルの内側」や「鼻の頭」までが目に入るだろうからだ。
 そのように、視点人物の身に付けているものや身体の一部分をフレーム内に入れることで「誰かの主観視点」であること示す手法を、映画では「インヴェントリーPOV」と称する。インヴェントリーPOVについては、映画よりも、FPSと呼ばれるジャンルのTVゲームの、プレイ画面をイメージしたもらった方が早いかもしれない。FPSとは「First Person Shooting game」、つまり「一人称のシューティング・ゲーム」の意味で、まさに竹内オサムが言うような「一人称視点」(First Person View)を眺めながらプレイされるゲームである。
 『凸凹ポンスケ』においては、確かにインヴェントリーPOVのような演出は行われていない。竹内オサムが「別の視点人物が、視点を下に向けた視野」だと判断したのは、その為だろう。

 筆者としては、宮本大人が「景色のコマ」について
 

正確には、それがこのたぬきの視点からのものであるかを判断することができない
 

とし竹内オサムも
 

「同じ効果」ではなく「類似した効果」を生み出す表現だ
 

とみなすその見解は、それはそれで正しいだろう、と考えている。
 ただ、竹内オサムは「完全一致型の一人称視点」を特権的に考えるあまり、「不一致型」とでも呼ぶべき効果の「表現的意味」を見逃してしまっているように思う。
 『テヅカ・イズ・デッド』においても、(竹内オサムへの追及が論の中心となっている所為もあって)「それ」に対する考察はなされないまま留保されている。

 筆者としては、この「完全に一致しない視点」が持つ「意味」をもっと大きく取り上げ、漫画ならではの価値ある表現として捉えるべきだと考えている。
 別な言い方をすれば、漫画と映画の区別――いわゆる「漫画表現は、単なる映画的手法の引き写しではない」式の主張――をするならば、むしろ注目するべきはこちらであろう、と。
 次のページからは、その注目点に絞って掘り下げていきたい。
 


漫画批評における、視点をめぐる諸問題:2≫に続く
▼目次 ▼リクィド・ファイア

マンガ表現学入門

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

誕生!「手塚治虫」 マンガの神様を育てたバックグラウンド

 

*1
 余談だが、この引用文の中に「二人から見た風景ではない」という記述があるが、作中に登場しているのは「二人」ではなく「一人」である。
 おそらく誤字であろう。