道徳起源論から進化倫理学へ

(『哲学研究』567号に掲載)

内井惣七


総目次

『哲学研究』566号
『哲学研究』567号
『哲学研究』569号
第一部 道徳起源論と還元主義   第二部 規範倫理学における還元主義 21 合理性──最大化か満足化か?
1 ダーウィンの「危険な考え」 13 規範倫理学と還元主義 22 進化における「最適化」
2 シュルマンのダーウィン批判 14 なぜ還元主義か 23 最大化モデルは不要か
3 科学としての倫理学 15 道徳的とは 24 デネットの「倫理的応急処置」
4 ダーウィニズムの理解 16 行為原則の必要性 25 普遍化可能性と合理性
5 生物学的利益と人間的利益 17 道徳性と普遍化可能性 26 コミットメント関係と信頼
6 道徳感覚あるいは良心の起源 18 すべての人の善の考慮 27 信頼と社会的知性
7 ダーウィンは何を目指したのか 19 善の普遍化可能性と善の平等な扱い 28 普遍化可能性に対する示唆
8 ダーウィンの仮想心理学 20 還元主義倫理学の問題点 29 善の普遍化と重みづけ
9 ダニ取り鳥の行動戦略 文献 30 善の重みづけと社会的知性
10 社会性と知性を仮定すれば   31 善の重みづけについての規約主義
11 行動生態学からの支持   32 進化倫理学と還元主義のプログラム
12 進化心理学   文献
文献    

第一部 // 第二部 // 第二部(続)// 還元ノ−ト // FINE lecture 


第二部 規範倫理学における還元主義

English Abstract


13 規範倫理学と還元主義

第一部では、ダーウィニズムが道徳起源論において還元主義を貫くための一つの本質的な要素となり得たことを示した。一定の非道徳的な能力や傾向性がないと道徳は不可能であるだけでなく、道徳とはそれらの能力や傾向性が束になって作用する一群の現象に対する呼び名である。これがダーウィンが伝えたかったメッセージであり、わたしはそれを「還元主義」と名づけて支持したのである。

そこで、われわれの次の問題は、道徳能力の本性についての以上のような見方から、規範倫理に関してどのような示唆が得られるかということである。わたしは、日常生活で実践されている規範倫理の細部においてまで道徳起源論の影響が直ちに現れる、という主張をしようとしているのではない。しかし、われわれの道徳性が現にどうあるかという(科学的)認識が、あるべき倫理を考える倫理学(これを規範倫理学と呼ぶことにする)にはまったく関わりをもたないと見なすのは、一見して支持しがたい見解である。われわれのおかれた具体的状況で何を為すべきか考える際に事実を無視するのが不合理であるのと同様、あるべき倫理を考える際に、人間の能力や道徳という営みに関わる科学的な知見を無視することも不合理である(内井1998aも参照)。わたしの直観的な見通しは、第一部での議論が大筋で正しければ、規範倫理学において支持できるアプローチも基本的に還元主義の路線だということである。つまり、あるべき倫理を考える際のわれわれの基盤も、道徳起源論が明らかにしたような素材でしかありえず、この枠内である程度の洗練を加えていくことでしか規範倫理は構築できない、と見なす路線である。この路線を擁護することが第二部の課題であるが、「規範倫理学における還元主義」という表現に対して直ちにわきあがりそうな誤解に対してあらかじめ注意を述べておきたい。

まず、わたしの言う「規範倫理学における還元主義」とは、道徳的価値(規範)あるいは倫理的価値(規範)の本性にのみかかわる主張である。これは、道徳的価値が非道徳的価値とその他の条件(例えば合理性、その他の条件)に還元されると主張する、価値あるいは規範の領域内での還元主義にすぎない。

第二に、わたしの言う還元主義は、道徳的価値や規範が事実に関する命題に還元できるという主張ではない。ムアが名づけた倫理学における自然主義は還元主義の一つの形態でありうるが、逆は真ではない。わたしが支持する還元主義は、価値を事実に還元しようとするものではない。

第三に、わたしが支持したい還元主義では、「何が何に還元されるか」という還元の基盤を明示するだけでなく、「どのように還元されるか」という還元の方法も明示できるものでなければならない。これは、実際には判断がきわめてむずかしい場合も生じるであろうが、この制限をつけておかなければ、言葉の上だけでの還元主義に陥る危がある。「原理的に還元できる」という主張だけでなく、「しかじかの原理に基づいて、これこれこのように還元できる」という還元の手続きあるいはプログラムまで含むというのが、わたしの考える「健全な還元主義」の条件である。したがって、ある還元主義の主張について、これら二つの点について克服できない難点が指摘されたなら、その還元主義は破綻することになる。

そして最後に、ここでの還元主義が何に対立する立場であるのか、二三の例をあげておくことが理解の助けになるであろう。規範倫理学における非還元主義の典型は、カントの倫理学である。彼は、人間が幸福を求めるための指令と道徳律とを峻別し、前者が条件つきの命令であるのに対し後者は無条件の命令(定言命法)であると言う。通常の快・不快、あるいは幸福などの価値は人間の感性(傾向性)に依存するのに対し、倫理的価値は理性が立てる無条件命令に起源をもち、前者とは異質である。つまり、倫理的価値はそうでない価値には還元できない。このような見解が還元主義の反対である。また、第一部で見たように、道徳性は非道徳的な素材の組み合わせからは導かれないというシュルマンのような主張は、当然、規範倫理に持ち越された場合には非還元主義の規範倫理を主張することになる。要するに、価値や規範のうちでも道徳的なそれには独特の特徴があり、それは他の非道徳的な特徴に分析できないという立場が非還元主義である。非還元主義の立場では、しばしば、人間の生物学的な本性とは隔絶したところに倫理の基盤が想定される。例えば、カントの強調する理性の自律(自由)はその典型であるし、「神が人間には特別な使命を与えた」ことを一つの出発点と見なすキリスト教倫理ももう一つの典型的な例である。


14 なぜ還元主義か

では、規範倫理学において還元主義をとることにはどういうメリットがあるのだろうか。これをある程度明らかにしておかないと、以下の議論の意義が読者にわかっていただけないおそれがある。

還元主義のまず第一の利点は、道徳的価値の基盤をわれわれが経験的に知りうる、また多くの場合直接経験しうる事柄のうちに置くことができるというところにある。すでに触れたカントのような非還元主義の倫理学では、道徳の独自性を強調するあまり、道徳的価値の基盤が経験的な知識を超えた領域(理性の自己立法、自由、あるいは自律)におかれ、経験的あるいは科学的に知りうる人間の本性や性向とは無関係なところにおかれる。これは、第一部で見た道徳の起源に関する科学的な知見と相容れない。

第二の利点は、われわれの実際の行為選択や意志決定で現れる要因にできるだけ即した簡明な規範的理論の構成ができるという点にある。経験主義の倫理学説が一貫して主張してきたように、現にわれわれの間で見られる倫理には、欲求、感情、選好などの要因が不可欠にかかわっている。そして、道徳起源論が示唆するのは、通常これらに対立し、ある種の規制を加えると見なされる道徳感情も、前者の「自然的性向」と同様の生物学的起源をもつということである。したがって、後者の道徳感情も普通の感情や選好と同じカテゴリーに含めて考えてよいことになる。経験主義の倫理学で重要な役割を与えられてきた共感能力についても同じようなことが言える。共感能力も人間に特有というわけではなく、人間が他の種と共有する諸能力のうちの一つにすぎない。共感を介して生じる感情や選好についても、還元主義倫理学ではとくにカテゴリーを分ける必要はない。倫理と自然(ハクスリー)、あるいは理性と自然的傾向性(カント)というような対立図式に固執する根拠がなければ、還元主義倫理学の方がはるかに簡明な道具立てですむという利点がある。

第三に、すでに述べたことからも示唆されるように、わたしが目指す還元主義倫理学で一つの中心的な役割を担うのは選好の概念であるが、これを軸とすることによって、規範倫理学の目的とその道具立ての間に緊密な関係を維持することが可能である。倫理学の目的は、人間の行為を規制するための基本的な規範や価値基準を明らかにすることである。他方、個人の意志決定や行為選択はその人のもつ選好に大きく依存することも明らかである。ここで言う選好とは、単純な欲求や嫌悪だけでなく、感情の絡む傾向性、あるいはみずからの理想を立てそれを追求しようとする性向なども含めて理解されたい。あるべき倫理とは、実際に人びとの行為を規制するはたらきをもたなければ意味がない。そこで、人びとを納得させ、行為へと動かすためには彼らの選好とのつながりを確保する必要がある。還元主義では、この点がほぼ自動的に満たされる仕掛けになっているのが利点である。

もちろん、これらの利点は、現段階では見込みにすぎない。しかし、還元主義にこだわることのポイントだけは、ある程度示されたことと思う。


15 道徳的とは

わたしが目指す還元主義の特徴をこの程度に見当をつけた上で、第一部の成果をもう一度振り返り、進化論的道徳起源論が示唆する道徳性の特徴と、最近の倫理学で言われる道徳性の特徴とを突き合わせてみよう。ただし、「倫理学で言われる道徳性」と言うとき、これが必ずしも純粋に記述的であるとは限らないことにあらかじめ注意しておく必要がある。なぜなら、倫理学者による分析に限らず、道徳性の分析には「あるべき道徳性」という側面が現れることが多いからである。

さて、進化論的道徳起源論によれば、われわれが現にもつ道徳という営みには生物学的基盤があり、「道徳的に考え行為する」というわれわれの性向は主として自然淘汰の産物である。しかし、もちろん、この生物学的基盤の上に、民族や国や社会によって異なる歴史的、文化的な伝統が加わり、さらには個人による改変や革新の加わったものがわれわれが現にもつ道徳性である。このような現行の道徳性には当然諸種のヴァリエーションがあり、時代と場所によって違いがあることは言うまでもない。例えば、諸種の「身内びいき」が是認されるか非難されるか、復讐が是認されるか非難されるか、あるいは見知らぬ者に対する接し方の違い、性道徳の違いなど、文化や育ちによる差異は否定すべくもない。

これに対し、倫理学で言われる道徳性は相当普遍的な特徴づけがなされ、しかも異なる論者の間でもかなりの共通性がある。例えば、「道徳的観点をとる」とはどういうことかについて、倫理学者の間で多くの支持者を集めるバイアー(1958、ch.8; Frankena 1963, 96)の特徴づけによれば、人が(1)利己的でなく、(2)原則に従って行為し、(3)みずからの原則を普遍化する用意があり、しかも(4)すべての人の善を同等に考慮するとき、その人は道徳的観点をとっていることになる。そこで、この見解に従えば、道徳性とはこのような道徳的観点から考えて行為を行なうこととなろう。また、道徳的価値とは、このような観点から是認される価値となろう。

しかし、このような道徳的観点の特徴づけは、すでにかなりの規範的判断(あるいは道徳的規範)を前提しており、「あるべき道徳性」の規定としての性格が強い。これを明確に認識するためには、進化論的道徳起源論の観点がきわめて有効である。

まず、(1)の利己主義の排除は当然のように見えるものの、「利己主義はとるべきでない」という価値判断を「道徳性」の規定に組み込むことになることが明らかである。しかし、倫理学の一つの方法として利己主義も含めたシジウィックがいたことを忘れてはならない。シジウィックの考察の意義は、利己主義を道徳性から排除すれば、その分道徳性の正当化あるいは擁護という課題が重くなるということである。また、道徳起源論の視点からも、利己主義と道徳性とはおそらく同根であることが示唆される。つまり、条件つき利他性の一形態としての道徳性は、確かにいきすぎた利己的行動を押さえるが、利他行動を通じて行為者自身の(生物学的)利益も概して増進するという特徴がある。したがって、もちろん厳密には「利己主義」の規定にも依存するのではあるが、道徳起源論が提示する道徳性は、道徳性を通じた自己利益の実現を排除するわけではないので、利己主義を「定義により」排除するわけではない。現に、「身内びいき」等、利己主義と親近性の強い傾向性をある程度是認する「道徳性」も存在し、ダーウィン自身が強調したように、道徳起源論の一つの強みはこの点を説明できる点にある。いずれにせよ、大多数の倫理学者による道徳性の規定と、道徳起源論による道徳性の規定の間の、一つの可能なズレは利己主義の扱いに認められる。


16 行為原則の必要性

次に、(2)の原則の必要性については、道徳起源論の視点はきわめて啓発的な議論を提供しうる。この条件はおそらく規範的判断を持ち込む嫌疑が最も少なく、事実条件と認めてよいものであろう。しかし、そのように認められるのは、ここで言われる原則が「功利原理」とか「定言命法」のような抽象性の高いものでなく、具体的で比較的単純な内容の原則であるかぎりにおいてである。その理由を考えてみることが有益である。

社会において人が自分の行動を決めようとする大多数の場合、手に入る情報は限られており、不確実であり、しかも人間の熟慮の能力もきわめて限られている。人間の合理性をとくに経営行動という文脈で考察したハーバート・サイモン(1987、1989。Simon 1955)は、「限定された合理性」というモデルが人間の現実的な合理性を考察する場合には最も適切であると考えた。しかし、経済学の理論においては目新しかったこのアイデアも、倫理学の分野では、この名称で言及されたわけではないが、昔から多くの人びとが気づいていたことである。

例えば、アリストテレスが倫理的徳は行為を習慣化することから生じる(『ニコマコス倫理学』第2巻)と言ったとき、その背景には行為選択における人間の知性の大きな制限が認識されていたはずである。「行為を習慣化する」とは、別の言葉でいえば「比較的単純な原則に従って行為する」ということにほかならない。そうすることによって、限定された合理性しかもたない人間が複雑で不確実な状況においても概してうまくやっていけるというのは、おそらく進化と歴史を通じて人類が獲得した有益な知恵なのである。カントのように理性の役割を強調した哲学者においてさえ、原則(カントの言葉では格率)が倫理における不可欠のキーワードであることは、「定言命法」の内容を想起すれば一目瞭然である。さらに、ふつう倫理学ではカントの対極に位置すると見なされる功利主義のミルが、第一原理たる功利原理の要求を満たす具体的な行為を生み出すためには、多くの二次原則が不可欠であると見なしたのも、ほとんど同じ理由による。功利計算を行なって個々の場合の最善の行為決定を行なおうとすることは、限定された合理性しかもたない人間にとっては大多数の場合実行不可能で有害ですらありうる。人間の能力と性向に見合った方策として、原則に従った行為決定の必要性は、カント主義、功利主義を問わず是認されている。そして、これは進化倫理学の見地からも同意できる。ある種の行動パターン(第一部では行動戦略と呼ばれた)が集団に大勢として定着し、道徳感情に裏づけられて人びとの行為を規制するというのは、まさに自然淘汰によって人類が獲得した「条件つき利他性」の一形態であり、それがふつう「道徳性」と呼ばれるものにほかならない。


17 道徳性と普遍化可能性

第三の条件(3)普遍化可能性は、道徳起源論の観点からは明らかに強すぎる。道徳判断あるいは行為原則の普遍化可能性とは、「ある人がしかじかの条件のもとでこうすべきであるなら、その人と同様な条件を満たすいかなる人もこうすべきである」という条件である。ただし、「しかじかの条件」および「こうすべし」という部分に、個人や特定の場所や時点などの個体に対する言及が含まれてはならず、普遍的な表現のみによって条件が記述できなければならない。カントに由来する普遍化可能性の条件を道徳性の必要条件として近年もっとも強力に主張したのはヘアである。ヘアは、道徳判断や「べし」判断だけでなくすべての価値判断が普遍化可能であると主張し、しかもこの性質は価値判断の論理的性質として擁護できると見なしたのである。この主張は、還元主義の倫理学にとってきわめて好都合であることに注意されたい。というのは、普遍化可能性が論理によって説明できるなら、道徳性の一つの必要条件は論理に還元されたことになるからである。しかし、わたしの提唱する還元主義にとっていかに好都合でも、誤った主張を論拠にして還元主義を擁護することはできない。ヘアの主張に対して、わたしはこれまで二度まとまった反論を展開した(内井1974、Uchii 1998a)ので、ここではその要旨だけを述べる。

ヘアが普遍化可能性を論理的テーゼと見なす根拠は三種類述べられている。まず、価値判断には適用基準がなければならず、そのことから普遍化可能性が言える。第二に、価値判断には必ず理由が与えられなければならず、そのことからも普遍化可能性が成り立つ。そして第三に、以上の点をもっと抽象的、論理的に掘り下げると、結局普遍化可能性は価値判断が記述的意味をもつことに帰着し、価値判断の普遍化可能性は、価値判断が記述判断と共通する点、すなわち記述的意味をもつことの論理的帰結にすぎない、とヘアは言うのである。

しかし、基準や理由が要求されることは認めても、その基準や理由が常に普遍的な用語だけで述べられるとはかぎらない。また、記述的意味の規定からは個体に対する言及が削除できるという主張に対しては、ある種の規約によって「1メートル」という長さを(パリにある)メートル原器という個体に言及して定義するという反例をあげることができる。かくして、普遍化可能性は論理的テーゼというよりは、抽象的ではあれ実質的価値判断を含むと言わざるをえない。この点、「べし」の普遍化可能性を正義の原理と名づけて実質的内容をもつと見なしたシジウィックの洞察は正しかった。また、ヘアの見解について言うなら、ヘアが道徳的議論において普遍化可能性に担わせた役割(ヘアは、すべての人の善を同等に考慮するというバイアーの(4)まで普遍化可能性に含めようとする傾向がある)には、シジウィックが自明だが実質的内容をもつと見なした三つの原理(正義、自愛、博愛)に相当する内容が含まれているのである(Uchii 1998a)。

ところが、道徳起源論から示唆される道徳性は、このような普遍性を含意しない。もちろん、道徳性が条件つきの相互的利他性の一形態であるかぎり、類似した状況にある二人の人間について一方がなすべきことは他方にも要求されるであろう。しかし、そのような道徳性が進化した条件は、それほど大きくはない集団のなかでの社会生活であったはずである。同じ群れのなかでは相互性が要求されても、異なる群れの成員に対してはまったく異なる対処がなされたはずである。ダーウィンが指摘した、共感の行使における「身びいき」の傾向はまさにこの点にかかわる。したがって、進化論の網にかかるかぎりでの道徳性は、大部分集団内での「普遍化」しか要求しないものであったとしても不思議ではない。このレベルでの「普遍化」(実は特定の集団内に限定されるので厳密な普遍化ではない)と、倫理学者がいう普遍化との間には相当大きな開きがあることは明白であろう。

この大きな開きはどこから来たのであろうか。一つの明白な答えは、「倫理学者による道徳性の規定はすでに一定の価値判断を含んでいる」というものであろう。わたしもこれに同意するが、「その価値判断はどこから来たのか、そしてどのように正当化されるのか」という問題が残っている。正当化の問題はしばらく先に延ばすとして、その価値判断の由来は、一般的にいえば、歴史的、文化的な起源をもつと言えよう。普遍化可能性に含まれるある種の公平性あるいは合理性は、生物学的な起源にさらに文化的な洗練が加えられた価値判断である。歴史的な、あるいは現代の倫理学者の一般的な同意があるからといって、この価値判断を「論理」という名のもとにおいて、正当化を不要と見なすことはできない。


18 すべての人の善の考慮

最後の、(4)すべての人の善を同等に考慮するという条件についても、普遍化可能性について述べたのとほぼ同じことが指摘できる。この条件は、先に触れたシジウィックが「博愛の原理」と名づけたものの一部であり、間違いなく実質的内容をもった価値判断である。シジウィックが未解決問題として残したのは、利己主義者にこの博愛の原理を受け入れさせるための説得的な議論を示すことができないということだったことからも明らかなとおり、道徳性の規定自体のうちに「すべての人の善を同等に考慮する」という条件を組み込むことは、規範的主張として相当強い内容の価値判断を道徳性に読み込むことになり、結局、倫理的価値判断の正当化の問題がかなりの程度道徳性の正当化(「なぜ道徳的であるべきか」)の問題に持ち越されることになる。したがって、わたしのように還元主義を目指す者にとっては、この路線は有望には見えない。

この第四の条件を取り上げたついでに、この条件に絡むいくつかの難問をここで指摘しておきたい。一つは、前節で触れた普遍化可能性とこの条件との関係にかかわる。「正しい行為」あるいは「なすべき行為」の概念と「善」の概念とを厳密に区別して論じたシジウィックは、「べし」の普遍化可能性を正義の原理と名づけ、自他の善を同等に扱うという条件を博愛の原理の一部として別に採用した。これに対し、ヘアは、価値判断の述語となる言葉一般の論理的特性として普遍化可能性を規定し、「べし」判断だけでなく善悪の判断や推奨あるいは各種の評価(「勇敢な」「怠惰な」「無礼な」「節度ある」「勤勉な」など)の判断も普遍化可能であると主張した。ここでは善の判断のみに論点を絞ろう。

一見したところ、善の判断も普遍化可能であることは明らかで、「わたしにとってしかじかのことは善である」という判断から「わたしと同じ状況(同様な選好をもつことも含む)におかれた誰にとってもしかじかのことは善である」という判断も導かれそうである。しかし、仮にこれを認めるにしても、「べし」判断の普遍化可能性について指摘したのと同じ問題、つまり厳密な意味での普遍化可能性が論理のみによって成り立つわけではないことをまず指摘しておかなければならない。

第二に、いま述べたことから、「すべての人」あるいは「誰にとっても」という条件に潜在する多義性の問題が浮び上がる。道徳起源論から示唆される相互性には明らかな限界がある。この限界が文化的その他の要因によって拡張可能であることは認められるにせよ、それが文字どおり「人類一般」とか「感覚のあるすべての存在」にまで、「論理」どころか「道徳性」の名によってさえ拡張できるとは、全然自明ではない。「普遍化」の範囲を決めるには、ここでも別の価値判断が必要である。

第三に、「べし」あるいは「正しい行為」と「善」との間には、重要な概念的相違があることを見落としてはならない。すべての価値判断が仮に普遍化可能性という共通項でくくれるにしても、「善」の特性がその共通項で十分に解明できると見なすことはできないのである。「べし」や「正しさ」の判断が基本的には二値の区別であるのに対し、「善」の判断は比較判断を前提し、しばしば量的な基準まで前提する。例えば、「あなたはうそをつくべきでない」という「べし」判断は、「すべきである」「すべきでない(しないべきである)」とそれぞれの否定からなる単純な二値的区別のうちの一つにすぎず、これらの判断を理解するにはそれ以上の構造は必要がない。これに対し、「この車はよい」という判断は、多数の車を比較して序列づけた段階的評価(grading)のなかでのこの車の評点を省略的に述べた判断である。もちろん、われわれの日常の生活では、マニアでもないかぎり、何十種類もの車のランキングを作ってから車の「よさ」を判定するなどといったことはめったに行なわない。しかし、ここでのポイントは、「よさ」には程度の大小があり、この点で「べし」とか「正しさ」の判断とは基本的に異なるということである。そのため、「善」の概念には「べし」に較べてはるかに複雑な構造が前提されていることになる。「善」の適用基準には、比較、ランキング、あるいは善の程度の計量といった問題が含まれてしかるべきなのである。

そこで、最後の第四のポイントとして、善の普遍化可能性から「すべての人の善の同等な考慮」という条件が導かれるかどうかという問題にたどり着く。この問題に、比較的容易に「イエス」と答える論者はかなり多い。ヘアはこの問題に安直に「イエス」と答えるのではなく、かなりの工夫を凝らした議論の末「イエス」と答えるのであるが、わたしは「ノー」と答えるほうがよいと考える。なぜなら、後者の条件には、それが道徳的議論でしかるべき役割を果たすためには、かなり豊かな実質的内容が含まれているからである。

わたしは、長年ヘアの分析倫理学の路線上で倫理学の問題を考え、条件つきで彼の普遍化可能性の主張を受け入れてきたのであるが、とくに善の普遍化可能性の扱いについては、最近彼とははっきり袂を分かつことになった。その理由は、シジウィックによって善の概念の前述の構造に改めて気づかされたことにある。この点はきわめて重要なので、そしてヘアやかつてのわたしの誤りは他の人びとの議論でも頻繁に見られるので、次節でこの点に関するシジウィックの洞察を解説しておきたい。


19 善の普遍化可能性と善の平等な扱い

シジウィックの功利主義が三つの自明な原理と快楽説価値論とから構成されることはよく知られている。三つの原理とは、すでに触れた

正義の原理(「人がある行為をなすべきであるなら、その人と同様な状況におかれた同様な人も同じ行為をなすべきである」)、

自愛の原理(「将来の善は、量と確実さが等しければ、現在の善と同等に扱うべきである」)、

および博愛の原理(「ある個人の善は、量が等しければ、別の個人の善と同等に扱われるべきである。そして、人は善を特定の一部ではなく一般的に追求すべきである」)

であり、シジウィックは、いずれも自明であるが実質的な内容をもつ道徳原理だと見なした。ところが、価値判断は一般に普遍化可能であるというヘアの見解を念頭においてこれらを解釈しようとすると、次の塩野谷氏(1984)のような解釈がでてくる。彼のシジウィック研究は日本ではきわめて高く評価されているので、その誤りを指摘しておくのも意義のあることであろう(同じ趣旨の塩野谷批判はすでに奥野1998、90でなされているが、彼女が注で断っているとおり、これはわたしの見解に起源をもつ)。

塩野谷氏は、シジウィックの正義の原理(公理)を述べたあと、次のように言う。

われわれは、この公理が「論理的全体または類(a Logical Whole or Genus)を構成する個体の類似性」を考慮することによって得られるというシジウィックの考え方に注目したい。この考えは、同質的な部分がいわば「数学的あるいは数量的全体(a Mathematical or Quantitative Whole)」を構成しているとき、各部分は同じものであるから、それらに対しては偏りのない、公平な配慮が払われなければならないというものであって、ここに自明性のよってきたる根拠が見出される。重要なことは、彼がこの「数学的全体論」の考えを次に善(Good)の概念に適用し、善はそのような数学的全体であるとみなしたことである。・・・

「正義」の公理をこのようにとらえられた善に適用することによって、「慎慮」の公理と「仁愛」の公理が導かれるのである。(塩野谷1984、156。)

塩野谷氏は、ヘアにも言及し、正義の原理をヘアの普遍化可能性と同一視できるとして、「形式的、論理的条件」であると見る(同所)。そして、この条件が善に「適用」されて自愛と博愛(塩野谷氏の訳では慎慮と仁愛)が導かれると理解するのである。しかし、この解釈はテキストの誤読に基づくもので、シジウィックの深い洞察を完全に捉え損なっている。まず第一に、シジウィックにおいて「論理的全体」と「数学的全体」は区別され、異なるものを表している。正義の原理は前者の考察から得られ、自愛と博愛の原理は後者の考察から得られるというのがシジウィックの真意である。これは、テキストをきちんと読みさえすればわかる(Sidgwick 1907, 380-1)。そして、すぐ後に解説するように、一見わかりにくいこの区別のうちに、シジウィックの鋭い洞察が示されているのである。

第二に、これら二種の全体が異なる以上、自愛と博愛の原理は正義の原理の「適用」から得られたものではありえない。三つはそれぞれ独立の原理である。正義の原理で前提されている「論理的全体」とは、「同様な条件」を満たすすべての人からなる全体であり、そのうちの一人について成り立つ「べし」は他の人についても成り立つことをいう。「論理的」という形容詞がつくのは、わたしの言葉に直せば、「べし」や「正しさ」が二値の区別で程度の差を許容しないからである。これに対して、自愛の原理で前提されている「数学的あるいは量的全体」とは、一個人の生涯にわたる善の総体を指す。個人は経過する時間のいろいろな時点で善を得ることができるのだが、その個人の全体としての善を考えるときには異なる時点での善を比較し、全体に統合するための原理が必要である。そこで、シジウィックは、異なる時点の善を同等に扱うという原理が自明で合理的だと言うのである。最後に、博愛の原理で前提されている「数学的全体」は、(考察の対象とされている)すべての異なる人びとの善を集めた全体である(それぞれの個人の善は、もちろん、時間軸をもった個別の全体を形成する)。これついても部分間の関係を定め、全体を一つに統合する原理が必要である。しかし、博愛の原理における善の同等な扱いは、時間軸にわたって命じられるのではなく、異なる個人間にわたって命じられる。かくして、三つの原理は独立である。

しかも、第三に、自愛と博愛については、善の総量を計るという条件も考慮されていることに注意しなければならない。シジウィックにおいては、善は量的な概念であることが前提されており、これが有意味であるためには「計量」できなければならない。それゆえ「数学的あるいは量的全体」という言葉がわざわざ区別されて用いられているのである。シジウィックが自愛と博愛で善の同等な扱いを主張したとき、この主張のうちには善の総量を同等に扱われた部分の算術的総和として扱うという、善の計量についての原理も暗黙のうちに含めていたと思われる。そうでなければ、功利主義の最大化原理(善の総和を最大化する)は出てこない(この点の分析は、奥野1998、8.1.2を見よ)。

以上の三点を明瞭に認識しなければ、シジウィックの洞察の深さはわからないであろう。自愛と博愛を「善の普遍化可能性」と名づけることは可能だが、それはかえってシジウィックの真意と洞察とをわかりにくくする恐れがある。塩野谷解釈だけでなく、シジウィックの三原理をある種の「公平性」として理解しようとする試みは、部分的には正しいと言ってもよいのだが、善の概念の量的側面を見えなくしてしまうという重大な欠点がある。わたしが前節末で述べた、善の概念の「豊かな実質的内容」とはこれを指す。普遍化可能性が仮に論理的条件だとしても、これだけの豊かな内容(それゆえ実質的原理を要する)を論理的条件だけから導き出すことはとうてい不可能である。

そこで、道徳性の条件として示された「すべての人の善を同等に考慮するという条件」についても、注意深い取り扱いが必要であることがわかったであろう。この条件は、このままでは多義的で種々の解釈を許容しうる。仮に、シジウィックなみの厳密な解釈をとるならば、これの正当化にはシジウィックの博愛の原理の正当化に相当する難関が控えているのである。別に進化倫理学の視点をとらなくても、これほどの実質的内容を道徳性の規定に読み込むことには、たいていの倫理学者は強いためらいを感じるはずである。また、この条件をそれより弱い意味に理解するにしても、結局「すべての人の善を同等に考慮すべし」という規範的判断の正当化の問題が避けられるとは思えない。かくして、ヘアのとるような、普遍化可能性の「拡張路線」は、もし成立しうるなら還元主義倫理学にとってはこの上なく好都合なのであるが、わたしはこの路線はとらない。


20 還元主義倫理学の問題点

以上見てきたように、価値判断一般のなかで道徳的価値判断を際立たせようとして「道徳性」を規定する試みは、結局何らかの形で一定の価値判断に踏み込まざるを得ないように見える。しかし、このことが規範倫理学における還元主義を不可能にするわけではない。還元主義は価値判断を使えないわけではなく、それ以上ほかのものに還元できない道徳的価値判断を前提しなければならない場合に破綻するからである。また、価値判断の正当化についても、それ自体は正当化できずに仮定されなければならない価値判断が残るというだけでは還元主義の破綻には必ずしもならない。その価値判断が還元不可能な「道徳性」を仮定しなければならない場合にのみ還元主義の破綻となるのである。そこで、大まかにいえば、還元主義倫理学の課題は、(1)「現にある」道徳性と「あるべき」道徳性との間のギャップを確認し、(2)後者を形成する基本的な価値判断を分析してその構成要素を明らかにし、(3)それらの価値判断を正当化する議論を示し、最後に(4)それらの構成要素も正当化の素材もともに非道徳的な要素に還元されることを示すこととなる。

合わせて、進化倫理学を構成しようという視点から浮び上がってきた論点もいくつか補足しておきたい。この視点からも、普遍化可能性、普遍的な公平性、個体の善の同等な重みづけなどを道徳性の不可欠な条件と見なすことはできない。これらは結局「あるべき」道徳性の規定の一部である。むしろ、こういった条件の素材、あるいは萌芽的な形態として成り立つ(事実)条件を組み合わせ、段階的な類似性でつながる系列を「道徳性」の必要条件としてひろいあげていく方針が差し当って示唆されるのみである。道徳性の規定に価値判断が含まれる場合は、その価値判断の正当化を可能にするような条件が、進化あるいは文化的変容のどの段階で獲得されたのかを考察する必要があろう。

われわれは、第一部で結論したとおり、ダーウィンの道徳起源論の基本路線を踏襲するので、道徳性を他の動物にも見られる諸能力と隔絶したものと見なす視点をとらないことは当然であるが、道徳性には(人間がとくに発達させた)文化的側面もあることまで否定するわけではない。そして、第一近似として示唆されるのは、そういった文化的側面のうちに道徳性の規範的条件の大半が含まれるであろうということである。(第二部、未完)


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