6.そして再発・・・・


専門用語などは出来るだけ説明してあります(アンダーラインのある言葉は用語解説のページへ飛べます)が、分かりにくい言葉などあったら教えて下さいね。付け足しますので・・・・。

 1999年3月3日  再発を宣告されてしまった。何てことだ。世間はお雛様だというのに・・・・。いつもの月に1度の血液検査。「今日も異常なしです」と言われて帰るはずだったのにドクターの口から出た言葉は「あのなぁ、あんまりいい話やないんや」だった。
 あんまりどころか!今日の血小板は4万(正常値は15万から40万。普通、2万を切ったら輸血しなければなりません)を切っていた。先週は5万。その前が10万台だったからいきなりの下がりように少し心配していたがまさか再発を言われるとは思ってもみなかった。
 再発なら貧血がくるはずだと思っていた。
 毎日眼の下の皮膚をひっばって、その場所の色をチェックしていた。移植前はそこが真っ白だったからだ。その日もそこは赤かったので「大丈夫!」そう自分に言い聞かせて病院に向かったのに。  信じられなかった。午後からマルクをする。

「まだやれることはたくさんあるから心配することない」
ドナーリンパ球輸注って知ってるか?」

という先生の言葉をぼんやり聞きながら知らない間にぼろぼろ涙がこぼれていた。
 やれることって何なんだろう?移植した後再発して生きてる人なんて聞いたことがない。
 家に帰ると「再発」という言葉がもっと重くのしかかってきた。「誰か助けて」と叫びたかったけど誰も助けてくれるわけがない。誰にもどうすることもできないことが起こってしまったんだ・・・そう思うと怖くて怖くて涙が止まらなかった。もういっそのことこのまま死にたい、明日眼が覚めたら死んでないかな、そしたら苦しまなくて楽でいいなぁ・・そんなことを思ったりした。
1999年3月4日  母と病院に行き、今後のことを先生と相談する。ドナーリンパ球輸注(DLI)という治療をできるかどうか調べなければならないとのこと。妹と私の血液を採って調べるのに3週間ぐらいかかるそうだ。それができない場合は再移植ということになるらしい。
 3週間・・・・・、その間に病気はどんどん進行していくのではないんだろうか?とても不安に思う。
 先生は「君はMDS(骨髄異型成症候群)なんだからあわてる必要はない」というがどういう意味なのか分からない。
 あわてなくても良いと言うがつい2週間前ぐらいまでは10万ぐらいあった血小板が今は半分以下なのだ。
 輸血しなければならなくなるのは時間の問題ではないか。

 そうなったらどうしたらいいんだろう!?

 私にとってはそれこそ生きるか死ぬかの問題なのに先生は何だか落ち着いているので必死になってるのは結局自分だけかと思ってしまう。
 昨日は泣きまくったけど今日は少し冷静になっている。
 しっかりしなくちゃ。
 インターネットで移植後再発した人の情報がないか探し回るがなかなか見当たらない。
 あっても亡くなった方のものばかり。
 やっぱり移植までしたのに再発してしまったらもう生きてる人なんていないんじゃないか?
 絶望的な気分になる。
 KENさんのホームページにたどり着く。ルークトークを見つけ、すぐに参加登録する。
1999年3月5日  午前11時からテニスの予定だったがもちろんキャンセルする。まだ貧血はきてないようなので気分転換に行こうかとも思ったがやっぱりやめる。
 フェニックスクラブのリンダさんからメールが届く。
 同じくフェニックスクラブの大谷さんに連絡をつけてくださった。
 びっくりしたがとても嬉しくすぐに電話する。
 大谷さんとは2ヶ月前の講演会を聞きに行ったときに一度お会いしただけ。
 ほとんど知らないも同じ私なのに大谷さんはとても親身に相談に乗ってくださった。
 大谷さんの主治医の先生ともお話しさせてもらった。夜中だったのに、見知らぬ患者の電話での質問に応えてくださる先生がいらっしゃるんだ。有り難くて涙が出てしまう。とても嬉しい。

 私の質問にいろいろ答えてくださったが、やはりこの先の治療は難しくて厳しいものになるように感じる。
 大谷さんに成人病センターの平岡先生の患者懇談会があることを教えてもらったので是非参加しようと思う。とにかく情報が欲しい。ルークトークのウェルカムメッセージが届く。早速そこでも質問開始する。
1999年3月6日  おばあちゃんの誕生日。電話したけど再発のことは言い出せなかった。
1999年3月7日  骨髄バンクのオフ会に参加する。入院中のゆかちゃんに初対面。病院の情報などいろいろ教えてもらう。インターネットってやっぱりすごい。世界が一気に広がったように感じる。
1999年3月8日  主治医に電話して「平岡先生の患者懇談会に行きたいので私の今までのデータを奈良医大に書いてもらって欲しい」と言うと、「懇談会に参加するという理由では書くことができない」と言われた。 理由は「失礼だから」だそうだ。???何で失礼になるのか全然理解できなかった。「転院するという目的なら紹介状と共に書けるけど」とも言われた。
 今診てもらっている病院は奈良医大の系列病院N病院。移植設備は整っていないので再移植という可能性もある私はいずれもう一度奈良医大に送られることになりそうだった。
 それが私には不安の一つでもあった。
 奈良医大での移植症例数はまだ少ない。そして主治医M先生の言うDLI(ドナーリンパ球輸注)は奈良医大ではまだやったことがないという。骨髄移植も私で確か6例目だったと思う。
 私は最初このN病院から奈良医大へM先生によって送られ、移植後戻ってきてまたM先生に経過観察してもらっていたのだが、その最初のときに、私に「奈良医大でももう10例ぐらい(骨髄移植を)やっている」と言っていたがだった。
 10例も5例もそんなに変わりはないと思っていたのかもしれない。私は全然違うんじゃないか、と思うけれど・・・。
 私を安心させるためかM先生はいつも調子の良いことばかり言う人だったが、再発を言われてからはそれが全て裏目に出た感じだった。
 移植を決めるときも私はM先生から、私の場合は若いし移植の成功率は80%ぐらいあると言われていたのだ。それも大違いで、私の病気の場合はもっと低く、5年生存率が40%、再発や合併症による関連死が60%と決して良いものではなかったのだ。
 そんなことを今更言ってみてもしょうがないが、このM先生への不信感が募り始めてしまっていた。私は不安だから少しでも多くの情報を集めたいだけなのに・・・。M先生は私の行動をもしかして不快に思っているんだろうか。
 事実、そうだったのだがこの時はまだ私はそのことに気付いていなかった。
 私にとって本当に生きるか死ぬかの問題なのだ。必死になって助かる道を探すことは当たり前で、先生もそれに協力してくれるものだと信じていたからだ。
 それにしてもまだはっきり転院したいとは考えてもいなかったのに、転院すると言わなければデータを書いてもらえないなんて驚きだった。
 カルテ開示への道が遠いだとか、日本の医療は閉鎖的だとか言われているのがやっと分かった気がした。
 私はもしかしたら世間知らずなのかもしれないが、いい治療をいい病院で受けて治したい、と思うことは誰もが考える当たり前のことではないかと思う。
 そのために情報を集めて病院を選ぶ、ということは私にとっては当然のことだったのだが、M先生の立場からすればおもしろくなかったようだ。
 
 それも今考えればそうだったんだろうな、と思えるがそのときはどうして先生がこんなにも非協力的なのかさっぱり分からなかった。
 私はM先生のことをいい先生で、私のことを考えてくれているはずだと信じていたからそんなことを言われたらどうしたらいいのか分からなくなっていた。
 迷ったが「転院の方向で書いてもらってください」と頼んで明日奈良医大まで取りに行くことにした。
 以前からチケットを取っていたカーディガンズのライブに友達と行く。楽しみにしていたものだったのに今はとてもそんな余裕はない。そこに来ていた大勢の人たちを見て人生を代って欲しいと思ってしまう。
1999年3月9日  奈良医大へデータを取りに行く。昨日M先生よりY先生という人が11時に出しておいてくれるはずだからと聞いていたのでたずねて行ったのだが、まだ用意できてないと言われ、3時か4時ごろまで待っていてもらわないと出来ないと言われた。
 どうしてなんだろう?11時と言われたから2時間もかけて来たというのに1日ここで待たないといけないなんて。
 Y先生はその日外来の診察日のようだった。11時といえば診察で一番忙しい時間帯だろうから時間が空くのが3時ぐらいなのだろうということは分かったが、それならどうして最初からそのぐらいの時間と言っておいてくれなかったんだろう。
 その上「本当にいいんですか?」と聞かれた。「本当にいいんですか?」ってどういう意味なんだろう?本当に転院してもいいのか?ということなんだろうということは分かったが、何でそんな脅しみたいなことを言われるのか分からずショックだった。
 私は行きたい病院に行けるはずと単純に考えていたのだが、そうじゃないんだろうか?私がしようとしていることは非常識で取り返しのつかないことなんだろうか。
 いろんな考えがぐるぐる頭をめぐってまたぼろぼろと涙がこぼれてしまっていた。
 Y先生は優しそうな先生で、「M先生から相談に乗ってあげてほしいと言われてる」とおっしゃってくれたが、もう何も聞く気もなくなって帰ってきてしまった
1999年3月10日  ここのところ毎晩インターネットで情報を探し回っているので寝るのも午前の2時3時になってしまっている。
 ルークトークからはいろんな情報が得られてとても助かっている。質問には必ずどなたかからのレス(返事)があり、とても勇気づけられる。どんなレスでもあるだけで嬉しい。がんばろうという気になれる。
1999年3月11日  あっちゃん(ドナー)と一緒に病院へ。ドナーリンパ球輸注ができるかどうかを調べるキメリズム解析のための血液検査のためだ。 M先生がY先生からのデータをもらってきてくれていた。
 最初から不思議に思っていたのだが、M先生は医大へ行く用事があるのだからはじめから受けとってきてくれれば良かったのだ。 こちらからは言い出せないことだから2時間かけて取りに行ったのに、すぐに渡してくれず私と話をしようとしたY先生の行動などを思うと、他病院への受診を思いとどまらせるように話をしてくれとM先生がY先生に頼んだんじゃないかと思えた。
 そして渡されたぺらぺらの一枚の封筒を見てびっくり。
 私はカルテのコピーをもらえるものとばっかり思っていたからだ。「もしも転院するならそのときはカルテ全部持って行けるんでしょう?」という私の問いに対してM先生の答えは「そんなことできるわけないやろう」だった。

「こんなにあんねんでこんなに!」
と言って手で百科事典ぐらいの幅を作って見せられたが、私にしてみれば「それが何よ?」という感じだった。
 大げさかもしれないが、私の命がかかっているというのにちょっとぐらいの紙のコピーの手間が何だっていうんだろうか?

 この日、妹と一緒に私も採血。ヘモグロビンは11.9でまだ貧血はきていなかったが血小板は1.8万になっていた。輸血してもらわなければならなくなってしまった。M先生の言う「あせらなくてもまだ時間はある」というのは今日、明日にでも死ぬわけではない、という意味だったようだ。
 私にしてみれば輸血治療が始まった、ということは「死」へのカウントダウンが始まってしまったようなものだった。あせらないわけがない。 
 M先生と私との間には確実に溝ができてしまっていたように思う。どうしても懇談会に行きたい、という私にM先生は「部長先生だからって良い先生とは限らないんやで。だいたい上の先生は恐いからしゃべりにくいと思うけどなぁ」と言った。
 それは確かにそうかもしれないけど、これからどうなるのか不安に思っていて会ったこともない先生に相談に行く私にそんな先入観を与えるようなこと言わなくてもいいのではないだろうか?
 私はこの先生の薦める病院に行くのは不安だ、自分で選んだ病院へ行こう、と心に決めた。でも行けるところがあるんだろうか?この先どうなるのか不安でしょうがなく、その思いをルークトークに投稿する。
1999年3月12日 血小板輸血。10E。

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7.病院変わりたい!!・・・・・

1999年3月13日  成人病センターの平岡先生の患者懇談会に出席。次に私がした方が良いと思われる治療のことで質問するためだ。
 そして転院を決意した私は病院選びの相談にも乗っていただきたかった。
 N病院のM先生は次にやるべきことはドナーリンパ球輸注だと言っていた。それを試してみて、もし効果がないようなら再移植になる、ということだった。
 しかしルークトークで得た情報によれば私の病気、MDSでドナーリンパ球輸注を行ったデータでは再寛解率が80%と高いものの、全例が再再発を起こされていた。
 またドナーリンパ球輸注は始まったばかりの治療で症例もほとんどなく、MDSで行われたのはまだ全国でも11例ほどだということだったのでデータの信頼性も何もないかもしれないが、それでもやはりそのデータで全例が再再発されているということを知るとDLI(ドナーリンパ球輸注)で希望を持つということは難しいように思えた。

 M先生はこのデータのことは全く知らなかった。

 それなのに安易に「DLIを試してだめだったら・・・」などと言う先生を恨めしく思った。
 DLIもやはり合併症が伴う治療であり、簡単に試す、ということができるものではないらしいのに。
 自分で調べれば調べるほどM先生に対しての不信感は膨らんでいくばかりだった。
 ルークトークで私はある先生から末梢血幹細胞移植を紹介されていた。私はこの先生の説明からDLIよりもその先生の言うとおり同種末梢血幹細胞移植(allo PBSCT)をした方がいいのでは?と思っていたのでそのことも聞きたかった。
 平岡先生はとても親切で優しい先生だった。誰かがうえつけた先入観は吹き飛んでしまった。
 その日は土曜日だったのに先生は無報酬で私たちのような患者のためにセカンドオピニオンを開いてくださっているのだ。考えてみればそんな先生が恐いはずがない。
 私は治療の選択肢として1.DLI 2.alloPBSCT(同種末梢血幹細胞移植) 3.別のドナーからのBMT(骨髄移植)の3つで迷っていたのでそのことを聞いてみた。
 私の相談に乗ってくださった平岡先生は血液検査とマルクの結果を見て「できるだけ急いで治療した方が良いですね」とおっしゃった。
 月曜日の先生の診察を受けることにする。
1999年3月15日  大阪府立成人病センター受診。マルクと血液検査。移植前は見られなかった染色体異常が見られるといわれたが、それがどういう意味を持つのかよくわからない。
 でも良いことではなさそうだ。
 平岡先生がおっしゃるには、私の病気(慢性骨髄単球性白血病)は慢性だが、そう呼ぶには進行が早いようなが気がするとのことで、そのため治療はできるだけ急いだ方が良いらしい。

 進行が早いんじゃないか、というのは自分でも感じていたことだった。M先生が検査やその他いろんなことを全然急いでくれないので、私一人があせっているのはおかしいのかな、と思っていたのだがそうじゃなかったんだ。

 しかし、あまり時間がない、ということからこれで別のドナーからのBMT(骨髄移植)は治療選択肢から外さなければならなくなった。
 別のドナーを今から探す、ということは骨髄バンクに登録して私とHLAの型が一致するドナーを見つけてもらわなければならない。  今から登録してドナーが見つかるまでに6ヶ月から1年はかかるからだ。またそれは幸運にも私と型が一致するドナーがたくさんおられ、スムーズに最終同意までコーディネートが進めば、の話だったからもしかしたらもっとかかるかもしれない。
 実際に慢性(CML)の白血病の患者さんたちで、なかなかドナーが見つからず何年も待っている方はたくさんいらっしゃるのだ。

 わたしにはドナーを待つ、という時間はなかった。

DLIか妹からの末梢血幹細胞移植かどちらかに決めなければならない。

 私は「移植します」と言った。平岡先生も賛成してくださった。さて、問題は私を受け入れてくれて、同種末梢血幹細胞移植ができる病院である。
 と言うのも同種末梢血幹細胞移植はまだ保険適用されていない。そのためできる施設が限られているんだそうだ。
 平岡先生がいろいろ当たってくださったが、なかなかできるところでベッドが空いているところはなかった。
 移植となると無菌室も必要だし、スタッフの人手もとても多く必要とする大変な治療なのでだいたい予め予定が組み込まれているのだ。急にすぐ移植ができるところ、と言われてもむずかしい・・ということはよく分かっていた。
 そんな中で平岡先生は阪大第2内科への道をとりつけてくださった。4月の中ごろに移植ができる、ということで同種末梢血幹細胞移植も今までに4例やっているということだった。
1999年3月16日  とりあえず病院が決まってほっとしていた。あと心配なことは阪大第2内科にいらっしゃる先生がどんな先生たちか分からない、ということだ。
 ルークトークやフェニックスの人たちとのEメールのやりとりのおかげでもうだめかもしれない、という絶望感からは脱出することができ、もしかしたら助かるかもしれない、という希望が持て始めていた。
 しかしもしかしたら治療が無駄に終わり死ぬかもしれないという可能性があることを考えると、温かみのある病院で死にたいなぁ、という思いがあった。 
 私のことを一生懸命助けようと努力してくださる先生たちのもとで治療したい、それでだめだったら諦められる・・・そんなふうに考えていたのでどんな先生たちか分からないというのはとても不安だった。
 阪大の病院内の様子は入院中の患者さんから聞いていた。システムが非人間的という意見も聞いていたので余計不安に思っていた。
 インターネットで得た情報や元患者さんたちから教えていただいた情報などから、私なりにいい病院でいい先生がいらっしゃるんじゃないか、と思われる病院をピックアップしていた。
 ルークトークでも病院に関していろんな方から情報をいただいていた。中にはご自分が白血病になったら行くことに決めているという病院を知らせてくださった医師の方もおられた。
 いろいろ自分でも当たってみたが、時間のないこと、家族の協力がどうしても必要となる移植治療のことを考えれば出来れば自宅から通える範囲内の病院であること(自宅から通えない病院に行くとなると入院が長期となってしまう移植となれば家族も住む場所が必要となる。そうなるとお金の問題もあった)。そして何より同種末梢血幹細胞移植ができる施設、というのが限られていてなかなかない、ということがネックとなって本当に受け入れてもらえるところがなかった。
 また、人からいいと聞いていても本当に自分もいいと思えるかどうか、行ってみなければ分からないとも思うし、本当に病院探しというのは難しいと思う。

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8.やっぱり転院って難しい・・・・・

1999年3月17日  今日はN病院の診察日だった。12日に輸血してもらっていたが、血小板は入れても3日しかもたないということは前回の入院のときでよく分かっていた。もうすでに5日が経過しているので今日は輸血があるだろうな、と思っていた。
 M先生には阪大へ行くことに決めたことを報告しようと思っていた。輸血してもらうには血液検査をして一応型が合うか見てもらわなければならない。
 診察券を出してから採血室に行こうとすると先に話が聞きたいので診察へどうぞと言われ部屋に入った。
 M先生に阪大に行くことに決めました、と言うと「そう。それで今日は輸血はどうする?」と言われた。
 一瞬何を言われたのか分からずぽかんとしていた。

「輸血って・・・あの・・・??」
「だから!今日輸血するのかどうかだよ!」
「それって・・私が決めるんですか?採血してみないと分からないけど血小板て3日しかもたないんじゃないんですか?もう5日経ってるから・・・あの・・」
「血小板なんて今日言ってすぐあるもんじゃないんや。前から予約して確保しておかないとあるかどうかわからへん。君が要るって言ってないから僕は用意なんかしてないよ」
「そんな・・・私、輸血がいるかどうかの判断なんてできません!」
「それやったら最初から僕に全てお任せしますって言うべきやろう?!君がそれをしないで自分で好きなようにしたいんだったら輸血のことも君が考えて君が決めるべきじゃないか?」


 びっくりしてしまった。そばにいた看護婦さんもビックリされていたようだった。すごい大声で怒鳴られたからだ。
 それと同時にやっとM先生が私の今までの行動にずっと腹を立てていたんだ、ということに気がついた。 
 先生のプライドを傷つけてしまったらしい、ということは分かったが、それにしてもこんな幼稚な意地悪をされるとは思ってもみなかった。
 
 私は自分の命のことだから必死になってしまっただけなのに。

 でも今日輸血してもらわなければどうしたらいいんだろう?血小板てなくなったらどうなるんだろう? 
 先生にそんなことを言われてショックで泣き出してしまった私に代って隣にいた母が代りに先生に質問した。

血小板は今日入れておかないとだめなんですよね?」
「今の彼女の状態ならそうですね」
「今日このまま輸血してもらえなかったらどうなりますか?」
「それは夜中に突然鼻血でも出るかもしれませんね」
「このあたりで今日、この病院の他に輸血してもらえるところはありますか?」
「ないでしょうね」
「じゃあここでお願いするほかないわけですよね?」
「そうですね」


 そこまで分かっているのに輸血の用意をしておいてくれていなかった先生に腹が立ってしょうがなかった。
 だけど私が何か言わなければ動いてくれそうにもなかった。
 口惜しかったがここで先生とケンカしてもしょうがなかった。
 私が、「すみませんでした。輸血お願いできますか?」と言ったらやっと「なかったら明日になるかもしれへんけど」と言いながら電話で血小板があるかどうかの確認をしてくれた。
 とっても悲しく口惜しかった。よっぽど「あほとちゃうか」と言ってやりたかった。自分が病気だということを今日ほど口惜しく思ったことはなかった。 
 幸いすぐに血小板はあったので輸血してもらって帰ることができたが嫌な気分でいっぱいで落ち込んでいた。
 家に帰ってから看護婦をしている友達に大学病院から大学病院へ転院するということは非常識なことなのかどうか聞いてみた。
 その友達はM先生の対応にはものすごく腹を立ててくれたが、転院については「まぁ普通はあまりないことで快くは思われない」ことと言っていた。
 他の医療関係の友達に聞いても同じ答えだった。
 そうだったのか。私はそういう事情は何も知らなかった。

 M先生自身も「確かに君の言うとおり、奈良医大は症例は少ないし不安やと言う気持ちもわかる。僕の嫁さんや娘やったら他の病院に行かせるかもしれへん」とも言っていたので私の行動を理解してもらっている、と勝手に思っていた。
 でも患者は行きたい病院に自由に行けるのが当たり前なのではないか、と私は思う。
 大学病院内の常識などと言われても、患者側は何も分からないし、またいい治療をいい先生のもとで受けたいだけなのだから。
 でももうこれでもし阪大の先生が嫌でも奈良医大へも戻れそうになかった。大学病院から大学病院へ転院するって本当にむずかしいことなんだと実感する。
 阪大の先生が嫌な先生たちだったらどうしよう?歯茎や首のリンパが腫れてきているのが怖かった。もしかしたら急性に移行したんじゃないか??最近は食欲もなく、夜もあまり眠れていない。                                                    
1999年3月18日  阪大に入院するために必要な、MRSAという検査を受けるため受診する。院内感染を防ぐためのものだそうだ。
1999年3月19日  第2内科のN先生に今後の入院後に行う同種末梢血幹細胞移植の説明をしてもらいに阪大へ。
 N先生はとても分かりやすい説明をしてくださって、がんばろうと励ましてくださったのでとても嬉しかった。
 人間味のある、優しくていい先生のようだったので本当にホッとした。入院日は23日、移植は4月16日〜18日と3日間かけてやることに決まった。
 首のリンパも慢性でも腫れるので、急性になったからではないと言われ本当にほっとした。入院初日にマルクをしてどのぐらい病気が進行しているか、その結果でもしかしたら治療方法も変わってくるかもしれない、と言われた。
1999年3月20日  フェニックスの末吉さんに会う。
 いろいろアドバイスをしてもらう。
 偶然にも私の一度目の移植のときの主治医と末吉さんの移植のときの主治医が同じだった。
 その先生がまだ奈良医大におられたら私ももしかしたら転院なんてしなかったかも・・・と思うがもうしょうがないことだった。
 末吉さんの言うには「先生も人間だから・・・」とのこと。
 私も先生のプライドを傷つけないように気をつけるべきだったのかもしれないが、それも今更もうどうしようもなかった。
1999年3月21日 あっちゃんと奈良に講演にきていたよしもと新喜劇を観に行く。
1999年3月22日 入院に必要なものを買いに買い物へ。

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9.移植2回目(末梢血幹細胞移植)

1999年3月23日  大阪大学医学部附属病院4階東病棟へ入院。採血、マルク、血小板輸血、IVHを入れる、というとても忙しい一日だった。主治医の先生は3人のチーム。

「僕らは3人であなたの治療に当たらせてもらいますが、主役はあなたで本当は4人のチームだと思っています。病気を治すのはあなたで僕らはそのお手伝いをさせてもらっているだけですから」

と言ってくださる素晴らしい先生たちだった!
  IVHの痛みも耐え、抗がん剤のつらい吐き気も耐えてがんばろうと思える言葉だった。
 そして治りたい、と心から思った。 
本当にここに来られて良かった。それまでよく眠れず食欲もなく、まだケモ(抗がん剤治療)も始まっていないのに吐き気があることを先生に言うと、安定剤を出してくれた。
1999年3月24日  採血、心エコー、お腹のエコー、ソリターT3号の点滴、ヘモグロビン輸血。歯科受診。もう明日からケモが始まることを知らされる。マルクの結果、すごい勢いで白血球が増えているらしい。
しかもそのほとんどがどうしようもない悪い細胞ばかりだそうだ。
 MDSにはケモが効かないかもしれないことも知らされる。移植前に少しでも悪い細胞を減らしておきたいとのこと。
1999年3月25日  採血。この日個室へ移動。化学療法(ARA−C 朝晩)始まる。硫酸ポリミキシンB錠1日3回。もう2度と見たくない、と思っていたファンギゾンも始まった。飲み薬とうがい両方。吸入朝夕2回。
1999年3月26日 歯科受診。ルンバ−ル(腰椎穿刺)。輸血(血小板、赤血球) あっちゃん検診。
1999年3月30日 夜、熱40℃まであがる。
1999年3月31日  胸のレントゲン。ファンギゾンが錠剤に変わる(液体だと吐いてしまうため)。輸血(血小板、赤血球)
1999年4月1日  熱まだ続く。肝臓ビリルビン数値少し高め。様子をみていくとのこと。
1999年4月3日  マルク。結果は先生たちが考えていたより良かったようだ。薬の効目がわりと良かったらしい。良かった。ビリルビンも下がる。お腹のエコーも異常なし。胃薬が増える。
1999年4月5日 熱さがる。体調良い。下痢はあるが・・・。1日手紙を書く。

お薬 リーゼ、ウルソ、ファンギゾン、ケルナック、ポリミキシン
1999年4月9日  マルク。移植への最終確認と説明。母と叔父さんが同席してくれる。これからする治療とその内容、理由などをプリントした説明書をいただく。 
 すごく分かりやすくていいと思う。
 心配なことは先にした化学療法でVOD(肝中心静脈閉塞症)の疑いがあったことだった。
 そのため移植の前処置はかなり弱めでいくことになった。
1999年4月12日  いよいよ前処置が始まった。抗がん剤はエトポシド(ETP)という薬1種類のみ。1日700mgを3日間。
 この薬はお酒の成分が入っているらしい。お酒が飲めなかったらすぐに赤くなると脅かされていたのに全然平気なので驚いてしまう。先生からは「本当は酒飲みやな」と言われるが本当に飲めないのになぁ・・・。すごく不思議。 
 吐き気も少しあるがひどくはなく、スープぐらいなら飲める。この日からあっちゃん(ドナー)が入院。すごく心強い。二人で私の部屋(個室)で1日過ごす。

お薬 ETP700mg、CYA1mg/kg ウルソ へパリン LVFX AHPH・B
1999年4月15日  クリーンルーム入室。まさかまたこの部屋に入ることになるとは・・・・。部屋とはとても呼べないこのガラス部屋の空間は本当に落ち着かない。眠れないので眠剤を強めてもらう。
1999年4月16日  末梢血幹細胞移植一日目。先生が持ってきた血液袋を見ておどろく。たったそれっぽっち?というほどの量だったから。でも大切な命の元。
1999年4月17日  末梢血幹細胞移植二日目。そして今日は私の誕生日でもある。あっちゃん、命のプレゼント、本当にありがとう!!感謝してます。2回も助けてもらって・・・・。この日の血小板はあっちゃんよりも多く、まさに兄弟愛やねぇと言われる。
1999年4月18日 末梢血幹細胞移植三日目。
1999年4月21日 白血球(WBC)700。G−CSF投与始まる。↓
1999年4月24日 夜、腰が痛くなる。
1999年4月25日 WBC800。腰痛ひどい。
1999年4月26日 WBC1000。
1999年4月27日 WBC3000。腰の痛みで眠れないほどになり、ついに痛み止め(ロキソニン)もらう。
1999年4月28日 WBC9000。 G−CSF止める。

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