白壁の向こうに
<中編>
目を開いたのはいつも通りの朝だった。カーテンの隙間から薄明るい日差しが射してきていて、暗い場所に慣れた目には少し眩しかった。
快斗は隣で眠る新一を起こさないようにそっとベッドから抜け出して、手早く着替えて、朝食を作ろうと部屋を出た。
鼻歌混じりに二人分の軽めの朝食を作って、テーブルに運んで並べて再度二階へ上がり、ノックは無しで新一の部屋へ入り込んだ。
「しーんいちv朝だよ〜♪」
如何にも楽しそうに未だにベッドに眠ったままの新一に声を掛け、いつもの如く全く反応しない彼に近づいて軽く揺すってみる。・・・それでも反応はない。寝息は息をしていないんじゃないかと思うほど静かで、そんな新一の姿は――まるで人形のようだと思えた。
「新一・・・?」
ちょっとだけ体を揺すってみるが、反応はない。軽く頬を叩いてみても、だ。普段から気配には敏感な彼の事、いくら寝起きが極悪だからといって、ここまでされて起きない筈が無い。
流石の快斗も慌ててきた。軽く頬を叩いてみても無反応な新一の寝姿に、とてつもなく嫌な予感がして、起こそうとして剥がしたシーツをもう一度掛け直して、隣家に直行した。
――ごめんなさい。
暗い・・・暗い場所だった。重く圧力をもった空気が絡み付いてくるような、どこか慣れてしまった感覚に、ここが今まで悩まされていた夢の中なのだと知る。
しかし、何かが違う。今までの事から考えると、目が覚めれば忘れてしまう夢も、ある一定の状況に立つと叩き起こされてしまうらしいのに、今回はそれがない。そもそも、こうして思考している時間がある事すらおかしいのだ。それに、身体を絡めている鎖は鬱陶しいという気はするが、もどかしいといえるまで動かすのに不自由しない程度に拘束が緩まっている。
(これは・・・あの子の夢か?)
周りを見回して、ずっと続いている暗い空間に嘆息しながら、手首に絡まっている鎖を爪で弾く。鎖は驚くほど脆く、簡単に壊れてボロボロと落ちていった。軽く身動ぎすると、灰の如く崩れて消えた。
体を鎖に吊り下げられていたらしく、水のように波紋を作る足元に降りる。そして、じっくり周囲を見聞しながら当ても無く歩き出した。
身がやけに軽い。ここは「彼女」の中で、自分は完全に異質な存在であるというのに、「彼女」が自分を受け入れてくれているように、闇は新一を守るかのように彼自身を包んでいた。
注意深く足を進めた。呼吸と共に、思考がどんどん鮮明に穏やかに冴えていくのが分かった。
「・・・・・・おいで。・・・出ておいで、俺と話をしないか?」
視覚的には何も無いように見える暗闇に、手を伸ばした――途端、
――ごめんなさいッ!!
周囲の気配が、変わった。
隣の喧しい犬に早朝から叩き起こされて、何事かと隣に赴いてみれば、新一は極々静かな様子で眠りについていた。どんなに慌ただしく、且つ騒々しく部屋に入っていっても全く目を醒まさない程、異常に深い眠りに。
これは、叩き起こされる理由になるわね、と取り敢えず快斗を次の薬の実験台にする計画を頭から打ち消して、眠ったままの新一の体温を測り、脈を取って身体には異常が無いことを確かめると、快斗に「傍にいなさい」とだけ言って、自分はコーヒーを煎れに一階に降りた。
考えることは、新一の容体ではなく、彼の体を包んでいた薄い靄だった。特に嫌な感じはしなかったから大丈夫だろうが、問題は、この事態をどうやって快斗に説明するか・・・だ。
初めて会った頃。特に驚いた項目の一つに、新一の余りの霊感の強さがあった。哀も昔から何かと見ているタイプの人間だったが、新一はそれは勿論のこと、更に彼自身が発する光が霊達を引き寄せてしまう。それほどに強い霊感の持ち主だったのだ。
彼は生まれつきそうだったらしく、時折ついている傷も事件現場から拾ってきてしまう霊も、上手く対処できるのだと、もう慣れてしまったことだと教えてもらった記憶がある。
事情を知っている、同じ物が見れる自分はいい。あんな半ば昏睡ともいえる状態の新一を見ても、そこそこは平静で要られる。しかし・・・何も見えていないらしい快斗にはどう説明すればいいのだろうか?
「・・・工藤君は、幽霊にとり憑かれてしまったの・・・なんて」
言っても、到底信じて貰えることではない。知り合い程度の人間に同じ事を言えば、まず間違いなく精神科へ行くよう勧められるだろう。・・・失礼なことだ。
だが。相手は誰でもない工藤新一の恋人として選ばれたあの快斗だ。怪盗キッドなんてフザケタことまでしている、あの黒羽快斗なのだ。
これも、新一の一面なのだから、受け入れなくてどうする。そんな受け入れられないような器の小さい人間を、彼の傍に置いておくつもりはないのだ。
「・・・返答次第では、実験体行き・・・ね」
くすっと楽しそうに笑って、哀はしっかりと濃厚に作られたコーヒーをカップに注いだ。
新一は、突然表れた気配と脳にダイレクトに響いた悲鳴じみた叫びに顔を上げ、一瞬にして様相を変えた闇は、ただの闇ではなくどこかの狭い場所――クローゼットなのだと衣類などで解るが――なのだと悟り、その隙間から声がした方へ視線を向けた。
――ごめんなさい、ごめんなさいっ!!
そう叫びながらすすり泣く少女は、遠目にも女性とわかる誰か――恐らく彼女の母親だろう――に殴られていた。何度も、何度も。
新一は、突如表れたその光景にギリギリと拳を握り締め、一歩一歩足元を確認しながら近づいていた。駆け寄ることはできない。少女を刺激してしまうから。
一歩近づく度に、少女を殴っている女性の姿が曖昧になってくる。新一が静かにすぐ近くまで歩み寄ると、今の今まで暴力を振っていた女性は水に溶けるように消えて、――後には、少女だけが残った。
――ごめんなさい、おかあさん、ごめんなさい・・・ッ
すすり泣きの合間に聞える言葉。許して欲しいとも言えず、ただただ謝罪ばかりを繰り返す、慟哭にも似た叫びだ。
殴られて、傷つけられているのは彼女の方だと言うのに、それでも自らを卑下し、自らを罪と思って涙する彼女の姿は、余りにも痛々しすぎた。・・・まだ、7歳だというのに。
新一は、少女の傍らに片膝をついてそっと柔かい髪を撫でた。驚いたように、少女は顔を上げ、大きな黒い目に涙を一杯に溜めて見上げてくる。
――お、にいちゃん・・・・・・
ヒック、ヒックと高く続く鳴咽を何とか鎮めようと、少女は胸の辺りを掻き毟ろうとしたが、それを新一は止め、無言のままにそっと触れば折れそうな体を抱き締めてやった。
「・・・大丈夫だよ、「彩乃」ちゃん。ここには今度傷つける君のお母さんはいないし、傷つけるものも無いから・・・」
落ち着いて?彼は囁いて、「彩乃」と呼んだ少女が落ち着くのを、抱き締めながら待った。
ごめんなさい」。そんな台詞を唱えながら、新一の腕の中で呼吸を整え、小さく、安心したように寝息を立て始めた。
どうやって説明しようかしら、と悩む。幽霊云々のことより、一応は今彼がとり憑かれている間のことや、昏睡状態の理由を言った方がいいだろうか。必要最低限のことをすれば、後は新一が説明するのだから。
いっそのこと、全て話してしまおうか。口止めはされていないのだし、構うまい。
「主治医としても、彼の負担を少しでも減らすことが最優先・・・よね」
と楽しそうに微笑んで、哀は静かに新一の自室のドアを開けた。新一が眠っている筈のベッドに目を向けると、その傍には当然のように快斗がいて、じっと彼の顔を心配そうに覗き込みながら手を握っている。
自分の気配に気づいたのか、こちらを見て、
「・・・・・・哀ちゃん・・・」
と情けない顔で呼ばれた。新一に何度か聞いた分量の砂糖とミルクが入ったコーヒー―もうコーヒーとは言えない代物だが―を手渡して、彼の作業用の椅子に腰掛けた。何も言わずに机上のパソコンのスイッチを入れる。
「・・・ねえ、工藤君が眠ってしまった訳、知りたい?」
例え、それがとても信じられないようなことであっても。
・・・・・・・・・知りたい?
「・・・・・・教えてくれる?」
少しの脅しを含めて訊ねてみると、真っ直ぐに目を見返される。・・・この二人はきっと大丈夫なんだろうな、と不思議と確信できた。
「これから言うことに、嘘は全く無いわよ?」
「うん、わかってる」
即答されて苦笑しながら、哀は静かに語り出す。
時計は昼過ぎの時刻を指していた・・・。
新一は、自分の腕の中で安らかに眠る少女を見下ろし、静かに息を吐いた。できる限り優しく髪を梳き、あやす様に背中を叩いてやる。
先程自分が呼んだ「彩乃」という名前は、この少女の本名だ。彩乃が見せる夢を自覚するようになってから、新一はまず彼女のことを調べた。そこに在った水のイメージと、彼女の「ごめんなさい」という言葉。それから「少女」であることをキーワードに、最近あった事件をファイルから徹底的に掘り起こしたのだ。
見つけるのは簡単だった。・・・そして、その結果に思わず新一は眉を顰めた。
『幼児虐待の末、借金苦に無理心中』しようとした母親。「心中」だと殺された子供はまだ7歳で、物心ついた頃から、存在自体を否定する罵倒雑言を浴びせられながら、暴行されていたのだと言う。
金を貸していた男に逃げられ、業者の男達に追い回される日々に疲れて、心中しようとしたらしい。・・・結果、子供は風呂で窒息死させられ、自分は恐くなって逃亡。その数日後に幼児殺害の犯人として逮捕されている。
「ごめんなさい」。その言葉に胸が痛くなった。彼女が謝るべきではなのに、幼い頃から「自分が悪いのだ」という先入観を植え付けられて、母親を否定しようともせずに暴力を振われながらも謝り続けた少女。
「痛かったろうに・・・な」
同情してはいけない。ここは彼女の中とも言える場所なのだ。彼女の思念に捕まると、自分はここから外へ、現実へ帰れなくなってしまう。・・・しかし、ほんの少しの安らぎを護ってやろうと思っても、それは無駄じゃない筈だと思いたかった。例えそれが自分のエゴだとしても。
――おにい、ちゃん?
心地良さそうに微睡みから覚めた彩乃は、痣が消えた顔を上げ、新一を見上げた。ニッコリと可愛らしい笑顔を向けて、ありがとう、と言って静かに離れる。
「彩乃ちゃんはどうしたいんだ?話したいことがあって、俺を呼んだんだろう?」
新一は微笑みを向けながら、安らかな目覚めを乱さない程度の声量で正面にちょこんと座った少女に話しかけた。
ポカン、と口が開く。信じ難いと哀には事前に言われていたが、これはかなり強烈で、自分にとっては限りなく未知の領域に達してしまっている。IQ
400の頭脳は、こういう事には役に立たない。潜在能力の問題なのだ。
たった今聞いたばかりの話を何度も反芻し、噛み砕いて理解して・・・快斗はつい眠る新一に目を向けた。
「・・・ってことは、新一って霊能力者ってやつ?」
「本人は違うって言ってるわ。唯単に霊を見れるだけの人を指して言うなら私もそうだけど。・・・そうね、昔から頻繁に霊に遭遇することが多すぎて、自然と対処法を見つけたって言ってたけど」
それは、本人から直に聞いた話らしい。俺に話してくれても良かったのに・・・と半分拗ねた調子で呟いてみると、哀に「無理よ」と当然のことのように切り捨てられた。
「・・・・・・なんで?」
「だって、あなたには霊が見えないんでしょう?見えない人にそこに霊がいるんですって言っても信じて貰えると思う?」
「・・・俺は信じるけどなぁ〜」
新一の言うことには、時々優しすぎて泣きたくなるような嘘まで混じっているが、彼は滅多に嘘を吐くことがないと知っているから。
快斗が新一の手を両手で握りながら言うのに対し、哀は息を吐き、半ば呆れた視線を快斗に送った。
実のところ、信じる信じないは全く問題ではないのだ。きっと・・・ではなく確実に、新一は快斗に言っても信じて貰えると思っているから。それでも言わないのは、その事を知った所為で実際は見えない快斗にまで、霊達が起こすことの被害が飛び火しない様にするためなのだ。
それを知っていて、哀が敢えて言わなかった理由は、単なる嫌がらせなのだが。
「・・・・・・ともかく、新一はちゃんと帰ってくるんだよね?」
「モチロンよ。工藤君を包んでいる気配からは嫌な感じはしないし、本人が慣れてるって言ってたから」
その言葉に一先ず安堵して、快斗はゆっくりと穏やかに眠る新一の髪を丁寧に梳き出し、哀は空気を乱さぬ様に静かにノートパソコンを持って部屋を出た。
闇は闇でも、暖かい気配のする至って静かな空間に、沈黙したまま二人は座っていた。
新一は急かすことも無く彩乃を抱いたまま髪を梳き、彩乃は新一に抱き着くようにじっと心地良い手の感触に身を委ねて、少しずつ呼吸を整えてぽつりぽつりと話し出した。
――いたかったの。つらかったの。・・・でもね、あやのはおかあさんが好きだったんだよ。ほんとうに、大好きだったの。
些か舌足らずに話す彼女の言葉に聞き入りながら、新一は休めることなく、少しのことでも気を高ぶらせてしまう少女を安らげようと、髪を梳き続ける。
――おかあさんはね、あやのが嫌いだったけど、でもあやのはやっぱりおかあさんが好きで、ほんとうは大事にしてほしかったけど、ワガママ言わないようにって、泣かないように・・・って・・・
「・・・うん、頑張ったんだよな。すごいな、彩乃ちゃんは」
じっと闇の奥を見詰めながら、鳴咽し出した少女の頭を撫でる。すぅっと下がった気温に身震いしそうになりながら、新一は次の言葉を待った。
――あやのがいなくなっちゃった日にね、おかあさん、はじめて「好きだよ」って言ってくれたの。すごくうれしかったあ・・・
良い夢でも見ているような少女の目は輝いていて、思い出した唯一の嬉しいことに、気持ちを馳せているのが解って・・・痛む胸に新一はほんの少しだけ顔を顰めた。
――その後ね、お風呂につれて行かれて、支えてくれてたうでをはなされて・・・くるしくなって、からだが動かなくなって・・・おかあさんの顔が見れなくなっちゃったの。あやの、それからもういなくなっちゃった。
死んでしまったと、母親に殺されてしまったと、彼女は知っているのだ。それでも微笑みを浮かべるのは、彼女の心が未だに無垢な所為か、それとも、まだ母親を慕っているのか・・・
「お母さんを嫌いだって思ったことはない?今も・・・好き?」
――うんっ!おかあさん、大好きだよ!だって、あやののおかあさんだから。
ニッコリと笑って嬉しそうに言う彩乃に微笑み、どこからか絡み付いてきた闇の鎖を、気づかれないように爪で弾きながら問う。
「・・・じゃあ、彩乃ちゃんは何を望んでるの?何がしたいの?」
――あのね、あやの、もう一度だけおかあさんに会いたいの。それから・・・ここから出たいの。・・・ここにいると、またおかあさんにたたかれて、いたいの・・・くらくて、こわ、いのぉ・・・。
涙を流して、抱き着いてくる彩乃を抱き締めてやりながら、大丈夫だよ、と囁く。鳴咽する声が脳に響いて、哀しみや恐怖の感情が直接心に伝わってくる。
「大丈夫。叶えてあげるよ。ちゃんと、ここから解放してあげるから」
――ほん・・・と?
「本当。だから、さ」
目元を濡らしたままこちらを見上げてくる少女の目を覗き込みながら、新一は彩乃の額に自分の額をつけて、囁いた。
「まずは、ここから起きよう?」
・・・急激な浮遊感が、新一を襲った――。
パカっと目を醒ますと、そこには見慣れた天井が在った。視線を巡らせると、自分の腕には何故か点滴が施されていて、ベッドの端には快斗がベッドに突っ伏して眠っている。
「・・・・・・今日・・・何月何日だ?」
点滴、という予想外のことに首を傾げながら、自分は一体何日眠っていたのだろう、と疑問に思う。
もぞもぞと起きようとすると、突然快斗が飛び起きて、自分を見て硬直し、ガバァっと抱き着いてくる。そして、
「新一ぃ!!よかったぁ〜よかっよ〜〜起きてくれてッ!!もう新一が寝ちゃってから一週間も眠りっぱなしだったんだからね!!」
と勢いよく捲し立てられて、意外に時間が経っていたことに驚き、いつもならば蹴り落すところを、まぁいいか、と半泣き状態の快斗の頭を撫でてやる。
「悪かったな。でももう大丈夫だから。ちょっと警察に行かなきゃなんないんだけどさ」
彼女の母親のところに行かなければならない。・・・でないと、あの少女は成仏できないだろうから。
「ああ、彩乃ちゃんのお母さんとこ?」
「・・・・・・・なんでそれ知ってんだ?」
快斗には自分の霊感体質を教えていなかった筈なのに。それを疑問に思っていると、目の前の男はあっけらかんと笑って「哀ちゃんに聞いた〜♪」と笑顔で言う。
「・・・ナルホドな」
まあ、口止めしてなかったんだし、当然といえば当然か。と納得し、溜め息を吐く。巻き込むつもりはなかったのに・・・と。
「善は急げ、だし。お腹減ってない?なんか胃に優しいもの作るから、それ食べて行こっか」
もう手続きしてあるからさ♪と出来の良すぎる恋人は言って、哀ちゃんにも報告してくるね〜!と部屋を出ていった。
それを見送って、新一はもう一度ベッドに体を沈ませた。自分が起きた、ということで嬉しそうに笑っていたが、目の下には薄く隈が出来ていた。ずっと傍についてくれて心配させてしまったという事実に、悪かったな・・・と思う。
部屋の隅に視線を向ける。靄ではなく、今は人の形を取っている少女に手を差し伸べて、寄ってきた彼女を静かに抱き締めてやった。
「・・・大丈夫。ちゃんと、そこから出してやるから」
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