白壁の向こうに









<後編>


「彩乃」の母親は、未だに警察庁の監房の中に入っていた。穴を空けられた強化ガラスで隔てた向こう側に、簡素な支給された服を着て、魂が抜けてしまったように座っている。まだまだ若く、美人の部類に入るであろうその面からは生気がすっかりと抜け落ちていた。

昔・・・監獄に入る前は結構美人だったんだろうな、と快斗は新一を視界から外さずに、彼女を見て思う。勿論、新一の方が何十倍も綺麗だけど♪と内心で惚気るのも忘れない。ニヤケなかったのは一応場の雰囲気を考えてのことだ。

新一は快斗を背後に立たせたまま、用意されていたパイプ椅子に腰掛けてじっと虚ろな目をこちらに向けている母親に声を掛けず、相手の第一声を待っている。

そして、その間・・・「彩乃」は初め新一の前に現れた時よりもずっと鮮明な姿で、彼の裾にしがみ付くような形で掴んで、じっと母親を見ていた。

「・・・ねえ、あなた、誰?」

細い声で切り出された言葉。彼女――冴木容子は、つくづく不思議そうな目で新一を見ている。その眼差しはまるで子供の様で、にっこりと嬉しそうな、無邪気な笑顔を彼に向けた。

「・・・・・・僕は、ある人の依頼を受けて来た探偵ですよ。冴木さん」

新一は小さな部屋に良く響く声で、静かに彼女に告げる。そして柔らかな微笑みを向けて、少しだけ不思議そうに首を傾げ、



「娘さんは、どうなさったんですか?」



ギクッと顔を強張らせる。まさか一番始めの質問がこれだとは思っていなかった。新一の仕草に見惚れながら、驚いてガラス向こうの容子を見ると、彼女の表情には不自然なほど、変わりはなかった。



「なあに?あなたは知ってるの?」

「・・・・・・・」



「彩乃がどこに行っちゃったのか、知ってるの?」



無邪気な微笑みが、突き刺さるようだった。あんたが殺したんだろ!?と叫びたい衝動を必死で堪えて、快斗は拳を握り締めた。





















こうなっているであろう事は、想像の範疇だった。

容子は元々、精神のバランスが難しいところがあり、夫に逃げられたことで更に不安定になり、それと同時に借金取りに追われることとなって苛々が募り、暴力に走ったのだという。

日を追う毎に暴力は酷くなり、まだ小さかった彩乃に逃げる術はなく、生活苦もあって彩乃は病院に行くこともできなかった。

追われているという事への緊張とストレスに虐待は激化し、借金取りの追及も度を過ぎるまでになって、唐突に、容子は彼女に話し掛ける彩乃に殺意を抱き・・・殺してしまったのだ。

その頃は特に家計が危ない状態にあり、精神安定剤を常用していた容子に薬を買う金がある筈も無く・・・沸き上がる衝動に任せてしまったのだろう。

彩乃が風呂場で殺されたのは、今年の夏の初め。発見されたのは殺されてすぐで、発見者が彼女を発見した時、容子は浴槽の脇に座り込んで・・・微笑んでいたのだと言う。



「ねえ、知ってるの?」



彼女は、自分で殺した自分の娘の死によって、最後のバランスを自ら崩してしまったのだ。

幼女のように微笑む彼女は限りになく無邪気で、殺人犯のはずなのに、どうしようもなく痛々しい。

現実から目を背け、自分で心を逃亡させた、母親。

新一は、容子からそっと視線を外し、自分の隣に静かに佇み、己の母親をひたすらに見詰めている少女に視線を向けた。



――おかあさんには、あやのが見えてないんだね・・・



少し、悲しそうに「彩乃」は笑う。

何かを言いたくても、伝わらない。聞いてもらえない。自分を・・・見てもらえない。それが、どんなに辛いことなんだろうかと考える。自分が――に全く認識されなくなったら?



「っ・・・・・・」



一瞬、胸の奥を走った痛みに息を詰める。想像しただけで襲われた切なさに、背後に立つ快斗に気づかれぬように拳を握り、感情を押し殺して、静かに微笑んだ。



「大丈夫ですよ」

「・・・え?」



突然言い出した新一に、俯いていた容子は驚いたように顔を上げた。背後の快斗の息を詰める気配が伝わってきた。



「・・・彩乃ちゃんに会いたいですか?」



あくまでも静かに問う新一に、容子は訝しみながらも頷く。隣に立っていた彩乃は、やはり驚いたように彼を見上げて首を傾げた。



――おにいちゃん?



不思議そうにしている彼女に、新一は優しく・・・慈愛に満ちた微笑みを向け、おいでと手を差し伸べる。



「新一?なにする・・・」



と背後から慌てて駆け寄ろうとした快斗を振り向き、新一は不敵に笑い、片手だけでその動きを制した。



「心配すんな。大丈夫だから」

「新一の大丈夫ほど信用できないものはないんだって・・・」



はぁ〜〜っと深い溜め息を吐く快斗。そんなに信用無いのかよ、と苦笑する新一。その仲睦まじい二人を眺めている容子。彩乃は、ごく自然な態度の新一に困惑し、中々彼に近づけずにいる。



「彩乃ちゃん」



そんな彼女を、新一はわざと実声に出して呼んだ。



――おにいちゃん。あやの、おかあさんとおはなししていいの?

(そうだよ)



嬉しくて、それでいて心細そうに流れてきた言葉に、こちらも言葉に出さずに返すと、彩乃は眩しい笑顔を見せた。



(だからさ、おいで?)



・・・俺の体を、貸してやるから。

彼女に微笑み返し、おずおずと近づいて来た彩乃と手を重ねる。幽霊である彼女の手はひんやりと冷たく、感触は当然ながら無かった。触れる、といっても触れているような感覚になるだけなのだ。

自分の中に、もう一人違うものがいる感じだ。半身だとか、欠けているものが戻っていたような感覚とは違って、外から入り込んでくる、何か。

新一は目の前にいた彩乃が視覚的にいなくなるのを見届けて、こちらを心配そうに見詰める快斗に微笑み、意識を彼女に譲った。



「・・・おかあ、さん・・・」



紡がれた声。先程とはまるで違う、たどたどしい言葉遣いに・・・空気が、一変した。



















会った途端に、なんて不思議な子なんだろうと思った。

ぱっと見、の外見は穏やかで儚気なのに、完璧な配置にある顔のパーツの中で一際美しく見える蒼い目にその雰囲気は一掃され、寧ろ、静かでも鋭く、冷たくも熱い・・・蒼い炎を思わせた。

どうして、こんなにきれいな人が、私の面会に来るんだろう。そう感じて仕方ない。




記憶が無かった。


今年の夏の初めの記憶。それ以前のものも薄くぼやけてしまっているが、この夏の初めの数日間の記憶は、容子の中からすっぽりと抜けていた。その前には、自分の娘がいた気がするのに、今は、いない。

なぜ?そう考えても、記憶を探ってみても、娘がいない理由が分からなかった。何日間も自分の正面に座って、根気良く質問を続けた刑事にもそればかり聞かれたが、答えられる訳が無かった。



「娘さんは、どうなさったんですか?」



しかし、穏やかに聞いてくる彼は、明らかに様子が違った。探偵なのだと名乗っていたのだから、彼なら何か知っているかもしれないと思って、期待に嬉しくなって、笑う。



「なあに?あなたは知ってるの?」



沈黙が返って来て、重ねて、聞く。



「彩乃がどこに行っちゃったのか、知ってるの?」



聞いた途端、「探偵」の後ろの壁に凭れる様にして立っていた少年が、一瞬息を詰めたのが見えたが、構わなかった。

あの子が、どこに行ってしまったのか、知ってる――?























新一がどこかに向けて手を差し伸べた後、彼は一瞬だけ快斗に微笑みをくれて、その纏う空気を一変させた。大丈夫だからと言い聞かせるように視線をくれて。・・・心配を払拭しようとするような、優しい微笑みだった。

その、彼の持つ特有の空気がなくなって、姿勢を正した彼は儚さだけが残り、危なっかしかった。



「おかあ、さん・・・」



彼の口から滑るように高い声が出た時は、本気でぎょっとした。普段とは全く違う声。たどたどしい言葉遣い。それはまさしく少女のもので。

「彼」がその場から消えたのが解った。



「新一・・・?」



ずっと我慢して出さなかった声で名前を呼ぶ。すると、彼の光が消えた工藤新一はくるりと自分を振り返って、幼い表情で微笑んだ。



「・・・おにいちゃんね、だいじょうぶだよ」

「新一は、どこにいったの?」



ふらふらと彼――否、彼女に近づきながら、快斗が問うと、彼女は自分の胸元を押さえて、



「ここで、守ってくれてるよ」



と言って、嬉しそうに笑う。快斗は彼女の傍に来て見慣れた綺麗な手を握る。



「・・・何が、言いたいの?」



重ねて問うと、少しだけ照れたように笑ってから彼女は快斗の手を握り返して、ゆっくりと、「彼」の突然の変貌に困惑している容子に向き直った。



「・・・おかあさん、あやのだよ。わかる?」



まだまだ舌足らずの、高い声。幼く向けられる笑み。喜びと哀しみと寂しさでごっちゃになって、小さいのに複雑に彩られた目・・・それらを見た容子は、一瞬目を見開き少しの間の後、声にならない悲鳴を上げた。























快斗にあまり戸惑いが無かったのは、それなりの予備知識を新一が眠っている間に哀から得ていた所為だった。

初めに、ほんの少し概要だけを話して部屋を出た後、哀は持ち出したパソコンで何かを調べたらしく、数時間後に良く持ってくる薬の資料よりも比較的薄い紙の束を持って、再び新一の自室へ戻ってきた。

それは、彼女が見えるという、新一の体を覆っていた靄の正体・・・彩乃の事件の資料で、哀はそれを快斗に渡した後に、淡々と説明した。



「これ、今彼に憑いてる靄の正体だと思うわ。調べた痕跡が残ってたから」

「・・・虐待死した・・・女の子?」

「そう。性質が悪いって訳じゃないみたい。・・・殴られても、母親が恋しいみたいで、母親に殺されて、でも母親の元に戻りたくて探してたら、彼の強い光に惹かれたんじゃないかしら」



死んで彷徨う現実の世界は、まるで煉獄の炎に焼き尽くされるようなものだから、と言った彼女の目は悲しそうで、昔を堪えているようでもあった。

死者を見るのは、辛いことだろう。でも、自分にとって、それは少し羨ましいことだ。・・・もしかしたら、――にも会えるかもしれないから。



「今は説得中の様よ。でも、絶対彼は戻ってくるから――大丈夫よ」



軽い調子で言えてしまうのは、そこにある絶対の信頼の所為か。認めているのか。



「・・・なんで、解るの?」

「一応、私も見えるもの。彼ほど強くはないけれど。工藤君は、人よりも何倍も力のある・・・光を持つ人なのよ」



だから、惹き付けられてしまう。語る彼女の言葉には、頷くしかなかった。自分も、彼の光に惹かれたものの一人だから。

不意に、同級の魔女が言っていた「光の魔人」という言葉を思い出す。それは確実に工藤新一を指した言葉で、彼女の予言は本当に当るのだとこんな所でも解らされる。



「それで、工藤君は自分の強い光で霊を惹き付けている代わりに、その光の所為で自分の中に入ってくるのを留めることもできるの。だから、普段、霊は彼に干渉できないわ」

「じゃあ、何で新一はこんな風に眠っちゃってるの?」



静かに、そして穏やかに眠っている彼に、快斗は哀の発言との矛盾を感じて首を傾げると、哀は軽く肩を竦めて溜め息を吐く。仕方ないわね、とでも言うように。



「・・・本人に聞いたんだけど。はっきり見える霊とか、調べもついて「救える」霊は自分の中に招きいれるようにしてるんですって。・・・危ないことなのに。工藤君は、自分のエゴなんだって言ってたけど」



この人は、優しすぎるのよ。そういう哀の言葉が聞えるような気がした。彼が、生きている人間だけじゃなく、自分の体を使ってまで救おうとしているなんて。



「・・・俺にも、見えたらいいのにな・・・」



だったら、彼を手伝えるかもしれないのに。



「あなたは、そのままで良いのよ。寧ろ、見えなくて正解かもしれないわ」

「どうして?」



聞き返すと、哀はどこか複雑そうに笑って、



「見えないからこそ、自分を預けられることもあるのよ」



と言ったのだ。





















今、彼は敢えて彼女――彩乃を自分の中に迎え入れて、体を貸したのだろうと思う。予告も何もなかったが、哀に与えられた予備知識の為に、新一の変貌にも余り戸惑わずに済んだのだ。

何も知らなかったら、それこそ恥ずかしい醜態を見せたかもしれないが。

快斗は視線を容子に向ける。新一だったと思っていた「彼」が、「娘」に変貌している様を目の当たりにした彼女は小刻みに震えて、目には恐怖を宿して顔面蒼白になっていた。



「あ、あなた・・・」



震える声で苦しそうに喘ぎながら呟く。・・・少女は、静かに笑っていた。



















「おかあさん」は、何故か酷く疲れたような顔で、分厚いガラスの向こうで座っていた。全く自分を見ず、あの人には自分は見えないのだと解って、彩乃はどんどん哀しみを身の内に増幅させていった。

自分には、「おかあさん」と話すこともできないのか。「おかあさん」は自分のことがどうして見えないのだろうか・・・。

「おかあさん」と話したい。もう一度、自分に笑顔を見せて欲しい。願いはそれだけなのに、いなくなってしまった自分には、それすらも叶うことはないんだろうか。

寂しい。胸の奥がぽっかりと空いたようで、痛かった。辛さが増して、増して・・・憎しみすら抱こうとした時――救ってくれたのは、やっぱり「おにいちゃん」だった。



「彩乃ちゃん」

(お母さんと話したいんだろう?)

――おにいちゃん。あやの、おかあさんとおはなししていいの?

(そうだよ)



見えてきた一筋の光に、沸き上がってきたどろどろした感情が払拭されて、彩乃は嬉しくなって思わず笑みを浮かべる。



(だからさ、おいで?)



救ってやるから。・・・俺の体を、貸してやるから。おにいちゃんは、そう言っているような気がして、手を伸ばす。

何度も躊躇いながら、おにいちゃんの手に触れて、一度だけ迎え入れられたことのある彼の中へと入る。・・・おにいちゃんの光は、すごく眩しかったけれど。その光に包まれのるは嬉しかった。



――満足するまで思い切り話してみな?それまで、貸してやるから。

――おにいちゃん、ありがとう。ごめんね?

――大丈夫だよ。目、開いて。



短い会話を、「おにいちゃん」の中で交わして、閉じた目を、開く。


すると、そこには――目を見開いた、彩乃が最後に見たものに似ている表情をしたおかあさんがいた。























信じられなかった。目の前の「探偵」は、どこかへと手を伸ばした後、ゆっくりと変貌したのだ。先程とは明らかに違う気配、雰囲気に容子は息を呑み、体を震わせた。

コレは、誰だ?>

向けられる表情に、目に、見覚えがあった。ずっと見続けてきて、それすらもなくなったモノだった。



「おかあ、さん・・・」



掛けられた声に、自分でも可笑しいほどに肩が震えた。目の前の少年は柔かい微笑みを自分に向け、言ったのだ。確かに聞き覚えのある声で。

たどたどしい口調。高い声。いつでもニコニコと笑う顔。全て、知っているものだ。・・・自分で、なくしたものだ。



「っ・・・・・・」



一つ認識する度に、酷く頭が痛んだ。「探偵」の背後に座っていた少年が寄ってきて、「探偵」・・・否、探偵だったものと話しているのが見えていたが、急速に取り戻してきた記憶に呆然とする余り、情報として頭に入ってはこなかった。ただ、少年が近づいて来た、ということが見えただけ。

何か、話している。何を話しているんだろう。・・・それよりも、

私の目の前にいる「コレ」は、一体何なんだろう・・・

疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。何も見えなかった。見たくなかった。聞きたくなかった。だから、蓋をしたのに・・・唐突な勢いを持って、箱の蓋が開けられたような衝撃があった。

最後に見たのはいつだった?あの時、自分はどこにいて、アレはどこにいたんだった?・・・どうして、アレは自分の前からいなくなることになった?



「・・・おかあさん、あやのだよ。わかる?」



語り掛けてくる、声。確かに探偵のもののハズなのに、自分には全く違うように聞えた。・・・そう、高くて幼い、自分の娘の声に。

そして、彼の目を見ようとして――凍りついた。同じだったのだ。微かな喜びと哀しみと寂しさでごっちゃになって、何を考えているのか解らない、最後に見た目と・・・。



「っ・・・・・・」



容子は、声にならない悲鳴を上げた。いくつもの映像が凄まじい速度で脳裏を横切る。封じていた自分の罪が、開いた。

フラッシュがたかれた様に明るく甦ってきては脳裏に焼き付け、そして消えていく映像。腕や手を浸けているお湯の温度。跳ねた水滴の感触。柔かいモノを掴んでいる手・・・。

湯に沈んでいるのは?あの服を買い与えた相手は誰だった?

自分に似た黒髪が湯の中で揺れている。小さな手は自分に向かって差し伸べられていて・・・間際まで消えることのなかった微笑み。

閉じることのなかった、自分を映していた目。

自分が産んで、自分が殺した娘。



「・・・あや、の・・・?」



彩乃。そう名付けたのは自分だ。その娘を、夫が出ていってから酷く殴っていたのも自分で。・・・使うことは当然の行為なのだと思っていた。自分の不幸ばかりが目の前にあって、彩乃にも感情があるのだ、ということを忘れていたのだ。



「・・・おかあさん」



目の前の「彼女」は静かに微笑んで自分を呼んだ。彼女は「彩乃」なのだと、本当は起こりうる筈のないことだと理性と常識が叫んでいたが、直感がそうなのだと教えていた。



「あやの・・・?彩乃・・・ッ!」



ガラス越しの向こう側にいる「娘」を呼ぶ。何度も、何度も。彩乃はそれに微笑んで、ゆっくりと口を開いた。



「おかあさん。あやのね、うれしかったの」



そういう彼女の言葉や表情は、とてもとても穏やかなもので、まだ七歳なのに本当に・・・静かで。



「あやの、おかあさんが大好きだったよ。毎日いっぱいたたかれて・・・いたかったけど、それでも大好きだったの」



本当に嬉しそうに笑う娘は、今まで自分が見たことのないような笑顔を見せていて。紡がれる言葉は、紛れもない彼女の本音なのだ、と知らされる。――同時に、自分の罪の重さを、思い知らされた。



「あやのがいなくなっちゃう前にね、おかあさん、はじめて笑ってくれたよね。すごくうれしかったんだぁ・・・あやのね、ほんとうに幸せだったの」



ゆっくりと脳に響く言葉に、自然と熱い痺れるような痛みが全身に駆け巡って、目の奥に溜った。沸き上がってくるのは、後悔。懺悔。謝罪。



「ごめん。ごめんねぇ、彩乃ぉ・・・ごめんね・・・」



溢れる涙は、止めようとしても止まらなかった。



「ねえ、おかあさん。笑って?あやの、ずっとおかあさんが笑った顔が見たかったの」



「うん。うん・・・彩乃、ごめんね・・・」



目からは涙を溢れさせ、酷くぎこちなく、笑う。それを見た娘は嬉しそうに笑い、瞼を落した。――面会終了まで、あと僅かだ。

















目の前で涙する彼女の母親を、極客観的な視線で見据えながら、新一は目の前に立つ彼女に訊ねた。



――本当に、もういいのか?

――うん。おかあさん、笑ってくれたから。もう、いけると思うの。

どこへ、とは聞けない。・・・いずれ、誰にでも訪れて・・・解ることなのだ。今から知る必要はない。

――行き場所は、解る?



光は、見える?と、そう聞いたつもりだった。彼女はずっと、たった一人きりの暗い場所で彷徨っていたのだ。



――だいじょうぶだよ。おにいちゃんが照らしてくれたから。



可愛らしく照れたように歩き出した彼女は、確かに見えているのであろう、彼女だけが見える光へと進み出し、見送っていた新一を、一度だけ振り返った。



――おにいちゃん。

――どうした?

――みつけてくれて・・・いっぱい、ありがとう。

――どういたしまして。



幸せそうに笑う彼女に、ほんの少しだけ微笑んで。新一は、彼女の存在が完璧に消えたのを感じて、現実へと意識を戻した。



















そして、面会終了時間まで、容子は泣き続け、新一にありがとう、とだけ告げて監獄へと戻っていった。

その後、帰り道に「心配したんだよ〜!」という泣き言めいた快斗の言葉に少なくとも数百回は「ハイハイ」と返し、漸く宥めるのに成功し、工藤邸に返ると哀が待ち構えていて、眠るんなら予告くらいしておけ、とか快斗から面会の概要を聞いた後には更にみっちりと説教をくらい、「憑依」という行為で無理が祟った所為か発熱し、新一はめでたくなくもベッドの住人となった。



「・・・何もここまでしなくったって・・・」



新一はフラフラになりながらもベッドに押し込まれ、当分治るまでは外出禁止という通告を哀にされ、軽い溜め息を吐いて、呟いた。















ふと、彼女がいなくなった部屋を探り、残り香を感じ取る。

彩乃は・・・あの、幼くて優しい霊は、光へ辿りついただろうか、と考えながら。

新一は、久しぶりの穏やかな眠りについた。







END


BACK

境界 top

Conan top