白壁の向こうに














<前編>

ダイニングには、ぼんやりとフォークで皿に盛られたスクランブルエッグを気のなさそうに突付く新一がいる。



「・・・新一、食べたくないの?」



じ〜〜っとそんな新一の様子を見て、どことなく快斗が不安そうに見つめてくるのに苦笑する。



「そういうわけじゃないさ。ただ、ちょっと食欲がないんだ」



どうにも食欲が湧きそうにない体に、小さく溜め息を吐いてフォークを置く。ついでに言うと寒気がする。嫌な予感も微かにする。

風邪とも発作とも違う症状に、うんざりとまた溜め息を吐いて、新一は快斗に微笑み掛けて「ごめんな?」と癖っ毛の頭を柔かく撫でた。



「いいよ、そういうこともあるんだし。それより、具合悪いんだったら哀ちゃんに診てもらったら?」

「灰原に来てもらうほどのことじゃないさ。すぐ収まるから」



そう言って新一は席を立ち、心配そうについて来ようとする快斗を「上で寝てるから、大丈夫だよ」と留め、自分は二階に行くためにダイニングから一度廊下に出て歩き出し―数歩進んだ所でふと足を止めて、振り返った。



「・・・・・・・・・」



先程までは自分が位置した場所にそっと目を遣り、自然に見えるような動作でふいと視線を外し、また足を踏み出して・・・今度は振り返らずに、階段を上って自室へ入って行った。

どさっ、とベッドに横になる。体が酷くだるくて、頭痛がする。風邪の感じとはまた違う悪感も。

とにかく寝れば治ると思って、一瞬だけ天井を睨み付け、そして、静かに目を閉じた。

・・・真っ暗だ。体が巧く動かなくて、周りの闇全体が、自分の体に絡み付いて雁字搦めにしてその場に繋いでしまっているようだった。

誰もいない。誰も。声を出そうと思っても、首を締め付けられているようで、喉から洩れた空気は音にならずに消えた。

小さな光が見えた。それはゆっくりと音を立てずに近づいてきて、やがて一人の人を象る。揺れて曖昧な輪郭の光は女性の形を作り・・・



―――た・・・・・・、て・・・



何事かを必死に叫んでいた。一体何を叫んでいるのか。一体何を言いたいのか聞き取ろうとしても、それは彼女の姿の輪郭と同じ様に、曖昧なただの音となって自分の耳をすり抜けて呆気なく消える。

もどかしくなって、彼は彼女に少しでも近づこうとして、体を捩らせた。

・・・・・・途端。



「っ・・・・・・・・・!?」



何か、鈍器で殴られたような衝撃が後頭部に走って、彼――新一は急速に意識を飛ばした。



――助けて・・・っ!



高い、少女の悲痛な声を、どこか遠くで聞きながら。



















バチッと何らかの衝撃を受けたように、新一は唐突に目を醒ました。


――苦しい夢を、見た気がする。


否。哀しい、だろうか。どちらにしても、何故かたった今見た夢について、新一は何一つ覚えていなかった。



「・・・・・・・・・っ」



ガシガシと頭を掻き、軽く振って思考を変えた。窓の外を見てみると、もう空が赤い。随分と眠ってしまったようだった。

ベッドの上で起き上がる。珍しく、寝起きなのに思考がハッキリとしていた。何故かは知らない。ただ、先程まで見ていた夢の中に、例えその淵でもいたくなかった気がする。

コンコン、とドアがノックされた。「入れよ」と声をかけると、ひょっこりと快斗が開けたドアの隙間から顔を覗かせる。しっかり目を開けてベッドに座っている新一を見て、にぱっと笑って部屋に入って来た。

ベッドの端に腰掛けて、にこにこ笑ってこちらを見てくる。



「具合大丈夫?さっきより顔色はいいけど・・・」

「平気だよ。悪いな、こんな時間まで寝ちまって」



言って、新一は快斗に静かに微笑んだ。

・・・考えない方がいい。真実を見据える探偵にあるまじき事を考えながら、新一は「もうちょっとで夕飯だからね♪」と言って出て行く快斗を見送った。

































数日が経った。体のだるさは一向に解消されず、頭痛の頻度は増すばかりで、新一は気分がいいとは言い難い毎日を送っている。

先日から見始めた夢。毎夜のように、深すぎる眠りから突然現実に引き戻されることは休息とは言えず、ストレスにしかならない。しかし、悪夢であったのかと言うと、実際に夢の内容は覚えていないのだから何とも言えない。

ただ、言いようのない不快感が残るだけだ。



「・・・・・・新一、本当に大丈夫?疲れてるみたいだよ」



苛々が募って、日毎に機嫌が悪くなっていく新一に快斗は声をかけるが、それに対して微笑んでやる余裕はなく。



「・・・大丈夫だ」



と告げるだけ。その声は掠れていて、「大丈夫」でないことを如実に表しているが、新一が醸し出す怒気・・・半ば人を拒絶している雰囲気に、中々快斗は一線を踏み越えていけない。

隣人の小さな科学者に相談に行きたいが、生憎例によって例の如くキャンプ中。最近新一はちゃんと寝ていないらしく、夜中に飛び起きる気配が隣の部屋まで伝わってきたがすぐに寝てしまうので見に行き難いのだ。

――否・・・本当は今すぐ聞き出したい。彼をこんな風にしてしまったのは何なのかと。疲れている?顔色が悪い?そんなものではない。彼は日々確実に・・・少しずつ窶れていっているのだ。

でも、こうやって何を聞いても平気なように見せる新一は、どんなことをしても滅多な事がないと教えてくれないから。・・・仕方ない、と溜め息を吐くしかなかった。


















視線を感じる。それは誰とも知れないもので、しかも明瞭とした存在感を持ってはいなかった。ぼんやりとした、輪郭のない影のようなその存在。

続く睡眠不足とじっと見詰められることに、ストレスは二乗になって彼に押しかかった。

「早くこの状況をどうにかしたい」それが今の彼の望みだ。これは体質だから仕方ないものの、このままストレスを溜め続けていると体に良くない。良くないどころか、下手をすれば冗談抜きで胃炎になる。

ふうっと息を吐き出す。か細く、誰にも聞えないように。

隣には快斗が眠っていた。なんとなく楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに安眠を保っている。人がいる部屋で珍しい事だったが、新一がいるからこそのこと。彼はふっと息をついてベッドに仰向けに寝転がった。猫っ毛で癖の強い髪の毛を梳く。その感触がさらさらと心地よかった。

緩む快斗の寝顔に、久しぶりの「心の安らぎ」とやらを見出した。ほっ・・・と、気が緩んだ気がした。





だが。



――助けてっ!








それが、命取りだった。



「っ・・・・・・・・・!!?」



ガツンときた強烈な衝撃に、何とか意識を失わずに保って、霞み行く目でじっとこちらを見て叫ぶ姿を見た。

油断していた。‘いる’ことはとっくに解っていたのだ。気を緩めて良い訳がないのに。

隣に眠る快斗を、目だけ動かして見やる。寝息は静かで、魘されている様子もない。先ずそのことにほっとして、快斗を呼ぼうとしたが・・・止めた。今、新一の体には硬い鎖が巻き付けられているのだ。



(金縛りなんて、この前なったの何時だったっけ?)



なんて、呑気に考えている場合ではない。昔からこういう類の事にはよく遭ってきたが、ここまでキツイのも久しぶりだ。

金縛り。信じない訳にはいかなかった。そんな怪奇めいたもの、と笑って済ませられたら、自分の人生の苦労の三分の一は無くなっていただろうな、と新一は内心溜め息を吐く。

頭は動かせなくても呼吸は出来る状態なので、新一はゆっくりと深呼吸して、何とか指が届く鎖を指で弾いた。

ピシッ、と新一を拘束する鎖に亀裂が走った。目の前の悲しみに沈んだ表情をした少女が、驚きと哀しさに悲鳴を上げる。



(・・・大丈夫だよ)



心の中だけで、脳に直接思念を送ってくる彼女に囁く。少女は目を瞬かせて、じっと自分の体に巻き付いた鎖を外していく新一を、今度は静かに静観していた。

漸く、何とか両腕が自由になった新一は、ただの靄から輪郭を形成しつつある彼女に向かって、手を伸ばした。



(良かった・・・声は聞えるんだな)



ふわり、と微笑み掛ける。苦笑混じりのそれには、快斗に迷惑かける事になるかもしれないな、という自分の滅多に外れない予感に送ったもの。

・・・・・・本当は、こういうコトに専門の人間がいるはずなのだが。

少女がそっと近づいてくる。白い靄が薄く快斗も覆い、彼の睡眠を僅かな時間だけ強制させたのが分かった。敵意や悪意はないらしい。

体に巻き付けられている鎖はそのままに、新一は少女に手を伸ばした。

・・・そして、静かに、温もりが分かる声をかける。



(・・・話してくれないか?それで君の心が晴れるなら・・・)



滅多な事では人にその存在を見出されぬ少女は、その場から姿を消した。

そして、それと同時に新一も再び眠りについた・・・




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