化石が見る夢

執筆
任那伽耶
分類
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雨が降っていた。

空気は潤んでいて。

土はぬかるんでいて。

全てを覆い尽くすように。

全てを洗い流すように。

終わりを彩るように。

雨が、降っていた。

走り続ける。駈けていく雫を、ひたすらに。

そうしなければ全てが〝本当に〟終わってしまう――そんな確信があった。

もう、迷う必要はない。それは分かっている。

だが、その後、私は何と言えばよいのか。今更親子としてやっていこうなどとはとても言えない。だが、何事もなかったように、恋人としての関係を続けていくことも出来まい。

その解答はまだ出ずにいて。

ぐるぐる、ぐるぐる、と。

思考が螺旋を描いている。

それはどこか太古の海洋生物を思わせた。

小さい頃に博物館で見た、大きな大きなうずまき。

雨粒が私の顔を濡らし、視界の中に思考の断片を映し出す。それが幻覚なのか現実なのか、私には酷く曖昧だった。

ただ、私は追いかける。

さめざめと降る雨の中を走る。

私は答えを出さなければならない。

彼女に会って、言わなければならない。

夢と世界の終わりで待っている、彼女に。

-Amonite's Dream-

辿り着いたのは、あの森の奥だった。

雨に煙る木々の合間にぽっかりと空いた空白の、その真ん中。銘すら与えられなかった墓碑の前に、彼女は立っていた。

雫は、絶え間なく雨を降らせ続ける暗い天を見つめている。

その瞳の向こうにあるのは鈍い雲。いや、天にいるであろう自分の産みの親――上月雨音を見ているのか。その姿はまるで故郷の月を見つめるかぐや姫のようで、私の胸を締めつける。

彼女との距離はわずかに数歩。

だがその間には大きな隔たりがあるように感じられた。

「雫さん――」

私はゆっくりと、彼女の名を呼ぶ。

雫は視線をこちらに向けた。美しい灰色の髪は雨に濡れ、その先からいくつもの水滴が滴っている。白い上着が霧の中の幻のように透けていた。

「――もう、いいの」

雫はそういって悲しそうに微笑んだ。

「ずっと……気付いていたんですか」

そう、知っていたのだろう。考えても見ればそれは当然のことだ。〝天狗の隠れ蓑〟の力が失われた以上、雨音に関する情報は全て彼女に届いていたのだろう。

――それが彼女の能力なのだから。

全てを知ったにも関わらず彼女はそれでも、あの日からずっと同じように暮らしてきた。

それが許されるものではないことも知っていながら――。

どうしようもなく胸が痛んだ。

私は。

私は何をしていたのだ。

叫びだしたい気分になる。

だが、続いて聞こえたのは。

「初めから……分かってたから」

何を言っているのか分からなかった。

――はじめから、だと?

「あの庭で初めて先生と逢った時に、分かったの。『ああ、この人はわたしのお父さんなんだ』って」

「ああ――」

そうか。そういうことなのか。

雫が初めから私になついていたのは、何もかもわかっていたからなのだ。そう考えれば、雫の見せていた不可解な行動が納得できる。

だとすれば。

「――全て知っていた上で、それでもこの道を選んだんですね」

雫は小さく、しかしはっきりと肯いた。

「ダメだってことは分かってた。でもわたしは悪い子だから、どんどん先生のことが好きになっていった」

肩を震わせ、 しぼ り出すように言葉を紡ぐ。声は震えていて、ところどころかすれていて。

それでも、彼女は続ける。

全てを終わらせようと。

「だから思ってた。誰も本当のことに気がつかないまま、ずっとずっとこうしていたい、って」

――でも、終わりが来てしまった。

そう言って、雫は顔を上げた。

「もう、終わっ……ちゃったの」

雨に塗れた笑顔を、涙がさらに濡らしていく。

――アンモナイト。

不意に先ほどの幻視が再び脳裏をよぎる。

ああ。

これは化石の見る夢なのだ。

執心にとり憑かれ、欲望を夢見て結界に閉じ込められた女がいた。

過去を、邪魔な一切を閉じ込めて、淡い夢を護ろうとした女がいた。

あらゆる過去を忘れ、いつまでも夢を見ようとした男――私がいた。

そして、あそこに。

本当ならば決して叶わぬ禁忌の願いをかなえるために、他人には見えない真実を閉じ込め夢の中で苦悩していた少女がいる。

ぐるぐる、ぐるぐると。終わりなくぐるぐると。

無限に続く螺旋の中を。 何度も何度もくぐり続けて。

抜け出せないままに終わってしまう、そんな悲しい物語。

だが私は、そんな物語を破壊する方法があるのを知っている。

夢を現実に変える方法を知っている。

それは昔。出来たはずなのに出来なかったこと。

当たり前のはずなのに、忘れていたこと。

今なら、それが出来る。

そして。

「雫さん」

私は数歩の距離を一気に埋める。

突然の出来事に雫は反応もできず、ただ目を見開いた。

「せん――せい――」

「……本当に、悪い子ですよ、貴方は」

聴こえるか聞こえないか程度の声でそう呟くと、彼女の身体を固く抱きしめる。雨に濡れた身体は冷たくて、細くて――それでも、そう、だからこそ。私は彼女を強く抱きしめて離さなかった。

「補習を、はじめます」

雨粒が二人の隙間を流れ落ちる。熱をもっているのは互いの吐息だけ。雨の音は二人の鼓動に掻き消されていく。

「前に、近親婚のタヴーについての話をしましたよね。あの時は言いませんでしたが、理由とされるものがもう一つあるんです」

さぁ、物語を終わらせよう。

彼女と約束したではないか。

それが――私の為すべきことだ。

「ヒトは理屈で生きる生物です。理由・因果――そういうものを私たちの先祖は進化させて来た。そんな人類にとって一番怖いのは説明のつかないもの――そして理屈を混乱させるものだ」

私は悩んでいた。

どうして人を好きになるのか。

この感情の理由が分からず、恐れていた。

「家族とは家族愛で結ばれるもの――血や、営みを共にするという中で培われるものです。そして恋人は、それとは違う形の愛で結ばれるもの――異質なものが混ざり合うこと」

自分で理由をこねくり回し考えて。

出した答えに、また不安をかきたてられる。

そんな螺旋が全ての始まりで、全ての終わりを生んだ。

「だから家族と恋人という二つの関係は相居ることができない。人と人との繋がりかたとしては混乱を生じさせるものなんです。例えば、父と娘の間から生まれた少女は父親にとって子供なのか、孫なのか。娘にとってその少女は子供なのか、妹なのか。どちらでもあり、どちらでもない。関係の矛盾は確実に彼等以外にも広がり――社会の論理が破綻する。だから、近親婚は避けられるものとなった」

夢の中の娘を追っていたのではないか。

上月雨音の影を追っていたのではないか。

矛盾――論理の破綻――前後の脈絡の齟齬。

そう、そんなことは机上の空論に過ぎないのだ。

だから最初から答えにも何にもなりはしなかった。

「ははは……何を言おうとしているのかわからなくなってきました」

私は空を仰ぎ、笑った。

頭の中がショートしたように真っ白な像を描いている。知覚できるのは、ただ雫の感触だけ。

「ああ……そうだ。それでも、人間が矛盾を恐れる生物だとしても。そういうことは〝起こる〟。それは、人間が論理だけで動いているわけではないからです」

答えは簡単なことだ。

理由など考える必要はなかった。

それは初めから、すぐそこにあったのだ。

「そう……何にせよ、間違いないことが一つだけある」

どんな理由があろうとも、この事実だけには変わりがない。

「貴方が僕の子であっても、何であっても――それがどんな結果をもたらすのだとしても」

それは、たった一つの確実なこと。

そして、物語を終わらせるたった一つの言葉。

「雫さん、僕は――」

――貴方を愛している。

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