私はずっと夢を見ていた。
絵画の中のように綺麗な庭園で、一人の少女に出会う夢だ。
灰色の髪、赤い瞳。
人形のような容姿の、
私はずっと不思議に思っていた。
怖いのでも、驚くのでもなく――ただ純粋に不思議だった。
人にあの夢の話をしなかったのも恥ずかしいからとか、そんな理由ではなかった。ただ、心の片隅に引っかかっていただけだった。
だが。
私はずっとその少女を求めていたのかもしれない。
はじめは年上の女性に対する尊敬のように。
彼女の背を追い越してからは、愛でるように。
決して逢うことのない幻の少女を、私は探していたのかもしれない。
*
ある日のことだ。
三回のガイダンスがあってすぐのキャンパスを歩いていた私は、一人の女性と出会った。
ただ、驚いた。
どこがどのように似ていたのかは思い出せない。だがその容姿が、立ち振る舞いが、夢の中の少女と重なって見えたのだ。
悩む間もなく身体が動いていた。
どうやったのかは覚えていないが、私はいつの間にか彼女と話していた。彼女も私のことが気に入ったのか、嬉しそうにしている。
相性が良かったのか、何なのか――私たちが親しくなるのに時間はさほどかからなかった。お互い身寄りが無かったということもあろう、心の隙間を埋めるように二人の間は急速に縮まり、そして。
――いわゆる恋人という関係になったのが夏を前に控えた頃だった。
しかし甘い時間などはあっという間に通り過ぎた。秋口に入った時には二人の関係は少しずつぎこちないものになっていった。
おそらく、原因は私にあるのだろう。
――〝夢の少女〟。
その一言に全てが集約される。
私は夢のことを一度も話さなかった。話してどうとなるものでもないし、何か後ろめたいような気持ちがあったからだ。
しかし女の勘とでもいうのか、彼女は徐々に自分が何かの替わりとしか見なされていないのではないかと疑いだした。
それが全ての始まりだ。
溝は溝を深くし、何をしても埋まることはなかった。
そして運命の日。
彼女は叫んだ。辺りにあるものを手当たり次第に投げ、倒しながら泣いていた。
もう嫌だ――。
わたしを見て、と。
私には何もいうことができなかった。
そうなのかもしれない、と思う自分がいたからだ。
ひとしきり暴れた後、彼女は、背を向けた。そして俯き、ポツリと。
――もう、ダメだね。
それだけ言って、彼女は出て行った。
それから後のことは良く覚えていない。
覚えているのは私は彼女を追って住んでいた街を飛び出した、ということくらいで、あとはすっぽりと抜け落ちている。
それは彼女の故郷であるという、ある街を訪ねたところで人知を超えた何かが起こったためだ。
そう。
私は、彼女のことをすっかり忘れてしまったのだ。
何故この街に来たのか。
私は何を探していたのか。
私にはもう、思い出せなかった。
それは――今にして思えば〝天狗の隠れ蓑〟のせいである。この地に縛りつけられている理由を失い、戸惑いながらも、私はどういうわけかそこから離れることができなかった。
そうして延々と無為に暮らし続けていたある日、ふとした拍子に彼女のことを耳にした。
それは天狗の隠れ蓑に空いたわずかな隙間だ。眞籠静江が精神的な安定を失っていたのかもしれない。
今となっては全ては闇の中だ。
だが、それが私の運命を大きく動かすことになった。
何故忘れていたのか。
何故、何故。
疑問を抱きながら、急いだ。
しきりに痛む頭を押さえながら、車を走らせた。
そして眞籠の屋敷に通じる海岸沿いの道を突き進んでいた時、再びあの強烈な忘却が襲いかかったのだ。
突然の出来事に混乱した私はハンドル操作を誤り、そのまま。
海へと転落した。
私は最後に、彼女の名前を呟いた。
――雨音――。
そう、全てが繋がっていく。
私も眞籠家に起きたあの事件の歯車のひとつだったのだ。
*
目が覚めるとそこは応接間のソファだった。
「あ、ダメですよ。ちゃんと寝てないと」
美千代が制する。
「あ――私は――」
「もー、突然倒れられたんでびっくりしちゃいましたよ。あ、もうしわけありません。私より雫お嬢様の看病の方が良かったですよねー。でも今雫お嬢様は先生の部屋まで替えのシャツを取りに行ってますので、もうしばらく待ってて下さい」
美千代は明るくそう言う。
私は悪夢を振り払うように頭を振る。だが思考を曇らせる黒い霧は晴れることはなかった。そして、あることに気がつく。
「南雲先生は――」
「南雲先生なら、『毎日忙しくて疲れてたのでしょうな。雨が降らないうちに帰ります』っておっしゃって先ほど帰られましたよ」
美千代は南雲の声色を真似てそう言った。全然似ていないのだが、口調辺りは微妙に似ていないこともない。
――そんなことはどうでも良い。
問題は。
「――――――」
「どうかしましたか?」
「……いえ、何でもありません」
全てを思い出した、そう言おうとして止める。
何もかも思い出した。
だが、こんなことは思い出してはならなかったのかもしれない。
今までの生活は、もう戻っては来ない。
記憶を失っていたとはいえ、ずっと離れ離れだったとはいえ。
――実の娘を抱いてしまったということに変わりはない。
今、ここに雫がいないのが幸いだ。もしここに彼女がいたなら私は自分がどうなっていたか想像も出来ない。
頭を抱える。
どうすればいい。
私は、どうすればいい。
「……ただいま」
雫の声に、はっと私は頭を上げた。射抜くような勢いで扉に視線を飛ばす。そこには雫が、少し不安そうな表情をして立っていた。
「あ、おかえりなさいませ。ちゃんと見つかりましたか?」
「うん……」
手に抱えたシャツを見つめながら、気恥ずかしそうに雫は頷いた。
その様子が、いたたまれない。
もし彼女が真実を知ったらどう思うだろう。
雫と目があう。
私は思わず顔を伏せてしまった。横目でちらりと窺うと、雫は何が起こったのか分からないといった感じで、きょとんとしていた。
「それじゃ、わたしはあんまりお邪魔してもいけないのでちょっと洗濯を終わらせてきます。何かあったら呼んでくださいなーっ」
「あ、あの、ちょっと……」
私が呼び止める間もなく、美千代はさっさと出て行ってしまった。これで、せめて美千代がいてくれれば間が持つかもしれない――という私の願いは断たれたことになる。
「先生……大丈夫?」
雫がゆっくりと近づいてくる。
心臓が高鳴る。冷や汗が流れ落ちた。
どうしてこんなことになってしまったのか。
夢の少女と似ていたから惹かれたのではないか――?
否、雨音に似ていたから惹かれたのではないか――?
わからない。
だが、私はその言葉を否定できなかった。
雫の手が私の肩に触れた。
「――――ッ!」
身体がビクリと震えた。
その意味するところは拒絶。
「あ……」
驚いた雫は私から手を離した。私は顔を上げる。
「先生……」
おそらく私は絶望的な顔をしていたのだろう、雫は不安と驚愕に満ちた目でこちらを見下ろしている。
「やっぱり――思い……だしたんだ」
雫の口からそう言葉が漏れる。
ああ、そうか。
つまり、それは。
そして次の瞬間、雫は背を向け、走り出した。
「雫さんッ!」
全てを悟った私は、慌てて彼女の後を追う。
長い長い廊下を走り抜けた。
迷路かと錯覚する屋敷の中を雫は一直線に駈けている。目指す先は分からない。だがおそらく、そこはこの世界の終わり――この物語の結末なのだ。それが明るいものでないことは、この屋敷全体を覆う湿気た暗さで痛いほど分かる。
ばたん、と扉の閉まる音がした。
それで彼女の行き先がわかった。
私も彼女に続き扉を開く。
ざあ、ざあと。
雨が降っていた。
地面は細かな雨を十分に受けていて、ジクジクとぬかるんでいる。その上には、封筒が雨にさらされていた。おそらく南雲牧師が持ってきた資料を、雫が保管していたのだろう。
私はその場にかがみこむと、封筒を開く。
中には写真が入っていた。
たった一枚だけ。友人らとともに撮ったらしい集合写真。その中心に、彼女の姿があった。
――上月雨音。
「……ははっ」
笑いがこぼれた。
「……くくく……ははははははははははははははははははっ!」
私は、馬鹿だ。
どうしようもない馬鹿だ。
愚かで愚かで――もうどうしようもない。
何故あの時そんなことを思ったのか。
どうしてあの時迷ってしまったのか。
ああもう思い返すのはヤメにしよう。
そんなことをしても何も始まらない。
答えは――簡単なことではないか。
――夢の中の少女と雨音は、これっぽっちも似ていなかった。
それが、答えだ。
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