「雫――私は」
静江はゆっくりと身体を起こした。
「もうすぐ警察も到着するでしょう。そうしたら……」
私が言うと、静江は小さく肯いた。
「ええ……そうですね」
穏やかな空気が流れた。
まるでそれは映画のラストシーン。
全てが穏やかに収束する、平和な終幕だ。
そう、私はこのような終わりを望んでいた。いや、ここにいる誰もが望んでいたものであろう。
だからこそ、ここまで辿り着けた。
だが。
「母さん――」
その空気を突然の声が乱す。
振り向くと部屋の入口で、芳明が呆然と立ち尽くしていた。
「かあさん」
口を震わせて、油の切れた人形のように一歩、二歩。
その視線がゆっくりと、部屋の一番奥にいた静江に向けられた。
「お前が、母さんを」
芳明がゆっくりと戸をくぐる。その目にはカンテラの赤い炎が反射していた。まずい――と私が思った瞬間、
「お前が母さんをッ!」
咆哮と同時に芳明は静江目掛けて飛び出した。
「やめてください芳明さん!」
そう言って抑えにかかるが、華奢な割に芳明の身体は意外に強靭で、なかなか言うことを聞かない。
――そういえばこれでも体育会系だったか。
普段体力を使うことの少ない私では抑えるのには酷く苦労したが、体格の差だけはさすがにカバーできないのか、組み合ううちに徐々に私が優勢となる。
何とか芳明を羽交い絞めにし、そのまま組み伏せる。
「落ち着いて下さいっ!」
私がそう言った瞬間だった。
「邪魔するなっ!」
どん、と腹に丸く太い衝撃が走る。思いがけない反撃に私は芳明の身体を離してしまう。
――何だ、今のは。
「下がってろ!」
芳明の手の中に何かが集まるのがわかった。
手を振り落ろす。
目に見えない力が私の身体を壁まで吹き飛ばした。身体がジンジンとしびれる。骨が
グラグラと揺れる頭の中で状況を整理する。
そこで、大事なことを忘れていたのに気がついた。
眞籠家の男が持つ力だ。
確か、それは〝天狗の
以前食堂で投げられたのは布巾ではなく、これだったのだろう。雫の〝力〟があの事件を生み出していたのならば、私は最後の最後で重大なヒントを見逃していたということになる。
悔しさで胸がいっぱいになる。だが動こうにも衝撃の強さに身体が言うことを聞かず、私はただ歯噛みするしかない。
「……やめるんです芳明さん」
潰れてしまったかと思う肺と喉に鞭打って声を張り上げると、まるで血でも吐きそうな声になった。
いや、血を吐くくらいならどうということではない。
何としても、芳明を止めなければならない。
そうでないと、このままでは。
――全てが、終わってしまう。
「その力はそんなことのために使うものじゃない――」
「うるさいッ! 僕は、僕は!」
私からはいまや芳明の背しか見えない。だが、それだけでも異常に膨れ上がった怒りを感じる。
「殺してやる」
芳明が低く呟いた。隠し持っていた獣性を剥き出しにして、威嚇するように息を吐く。
相対する静江は、ただ立っているだけだ。おそらく、彼女はすでに力を使う体力も残ってはいない。だがそのシルエットには眞籠の長を背負うだけの威圧があった。
頬を伝っていた涙はもうどこにもない。
その目にはただ、優しい光だけが湛えられている。
「竹宮先生」
静江が穏やかな口調で、私の名を呼んだ。その声はまるで全てを悟ったかのような落ち着いた、そして決然とした音色をしている。
私は、その声に何かを感じ取った。
「雫を、頼みます」
瞬間、弾け飛ぶように芳明が静江目掛けて駆け出した。
「うわあああああああああああああッ!」
静江は一度こちらに向けて微笑むと、芳明に視線を戻す。彼女の目に強靭な意志を持った〝力〟が満ちた。
「まずい!」
全てを察した私は、自分の状況も忘れて雫を抱え部屋の外に飛び出した。足がもつれ、ごろごろと転がり壁にぶつかる。
芳明の手が静江に振り下ろされるのが見えた。
静江が手にしていたカンテラを振り上げる。
二人が接触した瞬間、バタム、と扉がひとりでに閉じた。
――静江の結界が、再び展開されたのだ。
そして同時に。
爆音ともいえる轟音が屋敷中を震わせるように響いた。
天狗の飛礫がランタンのオイルや炎と反応し、爆発を起こしたに違いない。細かい理屈は良く分からないが、爆発したという事実だけは変わらない。
「静江さん! 芳明さん!」
「かあさま――」
轟音は低い余韻を残して退いていく。
扉の向こうでは何かがパチパチ、と焼けていく音が聴こえていた。
それは物語の終幕を告げる鐘の音だ。
ゆらゆらと揺れる赤い光が扉の隙間から漏れていた。
それは物語の結末を示す血の涙だ。
私と雫は呆然と、遠く遠くで聞こえる消防車とパトカーのサイレンに耳を傾けながら、ただ扉を見つめ続けていた。
結局。
――終わりは来てしまったのだ。
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