いつものように二人だけの授業は進む。
少し違うところがあるとすれば、それは二人の距離だろう。心なしか、最近私と雫の椅子の隙間が狭くなってきているようなのである。それが何を意味するのかは気になるが、おそらく気にしない方がいいことだろう。
「先生」
雫が久しぶりに質問をしてきた。
「何ですか?」
尋ね返すと雫は、いつになく真剣にじっとこちらを見つめて答えた。
「どうしてイザナキとイザナミは良くて、
唐突である。
――今は化学の授業中だったはずなのだが。
ともあれ、質問は質問である。答えようとするが、一体どういう意図でのものなのかがわからない。
「質問の意味が良く分かりませんが――」
そういうと雫はあごに指をあてて少し考える。
「軽皇子と衣通郎女は兄妹。イザナキとイザナミも兄妹」
そこまで言われて、ようやく言いたいことが理解できた。
木梨軽皇子と衣通郎女は、実の兄妹であるにも関わらず恋に落ち、非業の死を遂げたという古事記の登場人物だ。
同様に、出生を見れば確かにイザナキとイザナミも実の兄妹と言えないこともない。だがこちらは咎められるようなことはなく、世界の創造にあたって、性交をおこない多くの神々を産みだしたのだ。
彼女が言いたいのは、その論理の矛盾だろう。
「つまり同じ兄妹なのになぜイザナキとイザナミは問題なくて、軽皇子たちは駄目なのか? ということですか」
わたしが確認すると、雫は頷いた。
「どうしてなの?」
「そうですね。おそらくイザナキとイザナミが神様だからでしょう」
「神さまなら、いいの?」
そう言って首をかしげる。
「うーん、何と言いますかこれは一つの解釈ですけどね」
私はそう言って姿勢を変えた。
「血の繋がった者同士は結婚してはいけない――ということは知ってますね?」
雫は少し逡巡したあと、曖昧に頷いた。
「これは世界中のどの民族においても普遍的に見られるルールです。この理由はいくつも考えがあります。有名なものを挙げましょうか」
私はそういって指を立てた。
「一つは遺伝学的理由――近親という似通った遺伝子を持つ者同士による交配は産まれてくる子に良くないということですね。ただ、近親交配が遺伝的問題を発生させる確率が通常と比べてどれだけ違うかということに関してはデータが曖昧なところがあるので決定的な証拠にはなりにくい、という意見もありますがね」
更に指を一本立てる。
「もう一つは社会学的理由――つまり、家族という環境の中で婚姻が進むことでその家族が外から得る情報や文化が減り閉鎖的になるのを避ける、ということですね。民族によっては王族などが聖なる血統を保つために近親婚を繰り返すということがありますが、そういうのは、この裏返しかもしれません」
手を下ろすと軽く肩をすくめる。
「様々な理由が考えられるにせよ近親婚というのはタヴーなわけです。それを前提に話を進めましょう」
雫は小さく頷いた。
「さて……ここに円になった道路があるとしましょう。雫さんはその上を自動車に乗って走っている」
「――わたし、車運転できない」
「例えば、の話ですってば。……とにかく、この上を走っているかぎり雫さんは他の場所を走ることができないわけです。この状況でどこか別の場所に行きたくなったら、どうします?」
そう言われると雫は少し困ったような顔をした。
目を伏せて少し悩んだ後、雫は不安そうに答える。
「……道路を、無視する?」
「そういうことです。この場合、交通違反を犯さなければ外に出ることはできません」
そう、つまりはそういうことだ。
「停滞してしまった状況を変えるためには、〝普段行われないこと〟をしなければならない。混沌としている世界を活動させるには禁忌を犯さねばならない。――だからこそ神様は世界を生み出す時に本来ならタヴーである近親婚をするのかもしれません。実際、日本古代において近親婚というのは〝世界の秩序を乱す〟行為と受け取られていました。秩序を乱すというのは裏を返せば、今までとは違う秩序が生まれるという意味になりますからね」
「世界を、変える――」
雫は少しだけ深刻そうな表情を浮かべたあと、
「あ、」
突然何かを思い出したように私の顔に視線を据えた。
「……熱いもの……皿……回る」
水晶占いでもするように私の顔を見つめる。息がかかりそうなほど顔を近づけてしげしげと雫は私の顔を観察し続けた。
そして。
「先生……今日の晩ご飯は、気をつけたほうがいい」
忠告するような低い口調でそう言った。
「な、何ですか一体」
雫の言動が独特なのはいつものことだが、今回ばかりは唐突すぎでさすがにそう返してしまう。
雫はうつむくと言葉を続ける。
「来ないほうが、いいかもしれない」
「そんなこと言われましても――」
行かないわけにもいかないだろう。
現に今も空腹で胃がうなり出しそうなくらいだ。
「うん、わかってる。だから、せめて気をつけて」
顔を上げた雫の目はまっすぐに私の瞳を射抜いた。その赤い瞳によるものか、その視線には有無を言わせない気配がある。
まるで別人のようだ。
私は少し不安を覚えた。
――今までの彼女は、本当の彼女だったのか?
しかしそんな思考と裏腹に、身体は勝手に動いた。
「は、はい――分かりました。できる限り気をつけます」
私が頷くと雫はほっとしたように胸に手をあて息をついた。
上品なのか幼いのか良く分からないそんな仕草を見て。
ぬくもりと、そしてわずかな疑問が胸に広がった。
*
そして夕方。
いつものように眞籠家の三人と私は食堂で晩餐をとっている。
美千代はメインディッシュの仕上げをする、と言って先ほど厨房に戻ったところなので〝部外者〟は私だけということになるが、そんなことは全く考えさせないほどに場は和やかなものである。騒がしいとまではいかないが、それなりには会話も弾み、賑やかなものである。
しかし、私は授業中に雫が言ったあの台詞が耳に残って離れず、口数は若干少なくなっていた。
――気をつけたほうがいい。
「一体何が起こるっていうんだ……?」
「ん、どうかしましたか?」
どうやら無意識に思考が口に出ていたらしく、芳明が怪訝な表情でこちらを見ていた。
「あ、いえ何でもありません。少しぼうっとしていました」
「お疲れなのですか?」
静江が尋ねる。
「いえ、そういうわけではないと思うんですが」
しかし、と私は内心呟く。
疲れているならば、それはむしろ静江のほうではないのか。どう見ても静江の顔色は悪い。ずっと顔色が悪いせいであまり気になっていなかったが、明らかに以前より具合が悪くなっているようにしか思えない。少し不安を覚えるところである。
これではますます年齢が離れて見え――。
ふとそんなことを考えた瞬間。
またあの痛みが身体中を襲った。
「――――――――ッ」
フォークが皿に当たって甲高い音を立てる。
幸い、〝あの〟感覚が訪れるのが一瞬だったせいかそこまでで済んだが、場の注目だけはしっかり集めてしまった。
「やはり……休まれた方がよろしいのでは?」
と顔色の悪い静江に言われてしまい、少し落ち込む。
まぁ――確かに調子が悪いのかもしれない。
諦めて席を立ちあがった瞬間だった。
「わっ!」
肩に何かがぶつかった。
周りがコマ落としになったようにゆっくりと動く。
ぶつかったのは美千代だった。メインディッシュをテーブルに出しに来ていたのだ。その手からは実に熱そうな煮込みものが入った皿が放たれている。中身が身体にぶつかれば火傷は必至である。
しまった――そう思ったときには遅かった。皿はくるくると湯気を出しながら回転し、私と美千代の間に落ちてきた。
「――――っ!」
私は身を強張らせる。
その時、ヴンという鋭い音とともに一陣の風が駆け抜けた。
小さな飛沫が身体にピタピタと落ちて来て熱いと言うより痛みに近い感覚が皮膚を貫く。だが、予測していたような激しいものではなかった。
ゆっくり目を開けると、足元にも手元にも、皿や料理の姿はない。辺りを見回すと、料理と皿は私たちの背後に飛び散って絨毯の上に花のような模様を描いていた。
「はぁ……何とか間に合った……」
前に向き直ると、芳明が息を切らしながら何かを投げたあとのような体勢で立っていた。
「芳明さん、今何か投げたんですか?」
私が尋ねると、芳明ははっとしたように急いで座る。
そしてしばし考えた後、小さく肯いた。
「え、ええ……。手元にあった布巾を丸めて」
確かに、見れば皿と一緒に厚手の布巾が落ちていた。
「凄い腕ですね、それって。いくらこの距離でも普通はそんな正確には狙えないですよ」
「一応これでも野球部でピッチャーをやってますから、少し腕には自信があったんです」
なるほどそれは大した強豪ピッチャーである。見た目が細いのとはギャップを感じるところだ。
私はのんびりと感心する。
「……あれ? でもあの布巾はわたしの……」
美千代が何か言おうとする前に、静江が口を開いた。
「それより二人ともどこか怪我はありませんか?」
「え? ええと」
芳明に言われ身体を確認してみると、お互い小さな火傷が数点あっただけで特にこれといった大きな問題はなかった。
私と美千代が大丈夫だと答えると、ようやく場は安堵の空気に包まれた。
雫と、私を除いて。
*
「しかし……」
私は部屋に戻る道すがら呟いた。
熱いもの。
皿。
回る。
雫が夕方に呟いた言葉はまるで夕食時のあの事件を見通したようなものだった。
「雫さんはどうしてそんなことがわかったのか……」
呟きながら大階段を昇る。
「まるで……予知だな」
そんなことを言うと、
「また――?」
いつの間に背後にいたのか、後ろから芳明の呟きが聞こえた。
――しかしそんなことよりも。
「また、ですか」
私が振り返って尋ねると、芳明はしまったとでもいいたげに表情を強張らせた。どうやら向こうも独り言だったらしい。
「またってことは、前にも同じようなことがあったんですか?」
私がもう一度尋ねると、芳明はしばし逡巡した後、ゆっくり肯いた。
「ええ。雫姉さんが学校に行っていないのも、そのせいです」
芳明は横の壁を見つめながら静かに話しだした。
「確かに雫姉さんは普段から変わってます。でもそれくらいで問題児扱いにはならないでしょ?」
「確かに」
「雫姉さんは時々変なことをいうんです。少し聞いただけじゃ意味が分からないようなことなんですけど……後から思い出すと、それは全部未来予知みたいなんです。例えば、小学校の時には校長先生が汚職をしているっていう証拠を、偶然見つけさせてしまった」
芳明の説明によれば、雫が突然『校長室、掃除』といったのに触発されてクラスで校長室の掃除をしていたところ――汚職に関わる資料が出てきてしまった。雫はその中身を知らず、偶然学校を訪れていた県警の人に渡してしまったのだという。
これだけならばただの凄い話で終わりである。
だが、雫の力はそれだけでは済まなかった。
「一度や二度ならどうってことはなかったんです。でも、それが何度も続くとみんな不気味だと思うようになる」
「予知の内容が当たれば当たるほど雫さんは怖がられて――。そして問題児扱いされるようになった、というわけですか」
私はそう言って溜息をつく。
予知は確かに不思議だし、ハタから見れば不気味な能力だ。
おそらく静江が私にこのことを言わなかったのも、余計な先入観を抱かせないためだろう。
本来ならば何か別の反応があったのだろうが、何故だか私は肩の力が抜けるのを感じた。
少なくとも今まで知っていた雫が雫であるというのは事実である。
それはとても安心できることだった。
理屈はわからない。
だが、理由はわかった。
「安心しました」
「は?」
「こちらの話ですよ」
私はそういって軽やかに階段を昇った。
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