十数日が過ぎた。
いつもどおりに、授業は進む。
「さて、今日から新しい本になるわけですが……何にします?」
この前まで読んでいた竹取物語を読み終わってしまったので、再び書庫に来ることとなった。相変わらず威圧感を感じるほどの蔵書を誇る本棚の前に立つ。
「決めて、ないの?」
私が言うと、雫は首をかしげた。
「ええ、できれば雫さんの読みたいものにしようかと思いましてね。どれでも好きな本を選んで下さい」
雫は頷くと、トトトッと可愛らしい足音を立てて本棚へと向かっていく。高い高い本棚の前に立ち、しばらく推敲するように眺め回したあと、背伸びしてひょいと一冊を選び取り元あった場所に栞札を挟むと、私の元に戻ってきた。
「――――これにする」
どれどれ、と本の題名を覗き込み、私は一瞬絶句した。
「こ、
またえらく渋いものを選んだものである。
「どうしてこれを?」
私が尋ねると雫は少し考えて、
「開いてみたら、面白そうだったから」
と答えた。
確かに面白いのは面白いと思うが――。
やはり、雫は少し〝変わった子〟かもしれない。
――そこが良いのだけれど。
*
ガラガラ、と書庫の戸を閉め天を仰ぐと、雲ひとつないくらいに清清しく晴れ渡っていた。最近快晴が続いていて渇水などが起きないかと心配なところだが、それでもこの爽やかさは嬉しいものがある。
「さて、戻りましょうか」
と言って屋敷に戻ろうとすると、ぐいと後ろに引っ張られる。振り向くと雫が私のシャツの裾を掴んだまま、じっと私の顔を見ていた。
「どうか、しましたか?」
私が尋ねると雫は申しわけなさそうに目を伏せると、
「――行きたいところが、あるの」
と言ってうつむいた。どこか切羽詰まっているようなその表情に、保護欲をかきたてられるというか何というか、逆らってはいけないような気分にさせられる。
「それは構いませんが、どこですか?」
反射的に私が答えると、雫はあっち、と書庫の裏を指差した。
そこはこの屋敷では珍しくあまり手入れの行き届いていないのか、蔦などが生い茂る
「あの森ですか?」
念のため尋ねると雫はこくり、と頷く。
「うん、あの中」
そう言って雫が指差す方向はやはり、あの薄暗い森の向こうだった。
目が真剣だし何より雫は冗談など言うタイプではない。何かそれなりに事情があるのだろう。私は雫に言われるまま、奥へと足を進めた。
雫は時々、あっちとかそっちとか指示を出すので、その通りに歩く。
彼女の手はずっと私の服の裾を掴んだままで、しかも何故だか少し落ち着かない様子だ。まるで悪さをした子供が親の目から逃れようとしているような、そんな感じを受ける。
「ところで……どうして僕の服を掴んでるんですか?」
しばらく歩いたところでそう尋ねると、雫は更に俯いた。
「――――――から」
ぼそぼそ、と呟く。
「ん?」
私は雫の顔に耳を近づける。
「ここは、怖いから」
なるほど、確かにここは不気味な雰囲気がイヤというほど出ている。雫が怖がるのも何となく分かる気がした。
それにしても。
「なるほど、そういうことですか」
私がそう言うと雫は拗ねたように口を尖らせると、
「先生、いじわる」
そう言ってじっと睨んできた。――無意識に顔が笑っていたらしい。
「すみません。でも、」
その先の言葉はすこし言いにくいものがある。私がつい言いそうになった恥ずかしい台詞を飲み込むと、雫は不思議そうに首をかしげた。
「でも、何?」
「――雫さんの様子があんまりにも可愛らしかったもので、つい」
つい口からポロリと本音が出る。
「かわいい……。わたし?」
雫はきょとんとした顔でしばらく硬直した後、
「先生、あっち」
今までの話をなかったことにするように私の服の裾を引っ張る。
すこし赤らんだ彼女の顔に笑みを浮かべながら、私は雫の案内に従った。
林の中を延々と歩き続けた先に、その場所はあった。
森の真ん中の、切り取られたようにぽっかりと開いた小さな空き地。
わずかに野花が咲いているだけのそのスペースの真ん中には、ポツン、と小さな石碑が立っていた。周囲の雰囲気のせいか、それがどことなく墓石のように見える。
「ここは――」
私が辺りを見回していると、雫はとととっ、と石碑に近寄り、その場にひざまずいた。おもむろに手を合わせ、何事かを祈るように呟く。
私は雫の後ろに立つと、石碑を観察した。
――何も、ない。
普通このような石碑には由来なり何なりが刻んであるものだと思うが、不思議なことに何も書かれていない。それどころか、装飾らしい装飾もなくただ石を切り出して据えた、それだけのものである。
祈りと思しき言葉を呟き終えた雫が立ち上がるのを待って、私は声をかけた。
「これはどういう石碑なんですか?」
私の問いに、雫は視線を逸らして答えた。
「わからない」
「――わからない?」
私が尋ね返すと、雫は頷いた。
「誰に尋いても知らないの。ただ母様が、一ヶ月に一度はお祈りしてくるようにっていうから、」
「怖いけど我慢して毎月ここに来ている、というわけですか」
「――先生、やっぱりいじわる」
「おっと、すみませんすみません」
拗ねるようにそっぽを向く(手はすでに私の服の裾を掴んでいるが)雫の頭を撫でた。しまったやりすぎたか――と思ったが、意外にも雫は恥ずかしそうに軽く身をすくめただけで、心地良さそうに目を閉じてされるがままにされている。
何ともどう対応してよいものか困ってしまう反応だ。幸い周囲に誰もいないのが救いといえば救いである。
とりあえず手はそのままに目を逸らすと、石碑が視界に飛び込んできた。
誰も由来を知らない石碑。
ただ一つの銘のない石碑。
良くは分からないが、この石碑らしきものは眞籠家の歴史と関係が深いものなのかもしれない。元々何かの理由があっておこなわれていた儀式が、その由来を失ってただの習慣になってしまうのは割合に良くあることだ。
今度詳しく調べてみても面白いかもしれないなとも思う。
「しかし、〝誰も知らない〟、か」
そう呟いた瞬間、空気が悲鳴をあげたような気がした。猛烈な不安感が背中から襲いかかる。身体が動かせない。声を出そうにも喉が締めつけられているように痛む。
「どうか、した?」
頭を撫でていた手が止まったせいか雫が不安そうに尋ねる。
彼女を心配させてはならない。
そう思い
「……いや、何でもありません」
何とか声を上げると、ふっと不可解な感覚は消滅した。
「何だったんだ? 今のは……」
あまりにも唐突すぎて首を傾げてしまう。
「――先生」
「な、何ですか?」
雫は不安そうにこちらを見ていた。
「早く屋敷に帰ろう?」
怯えたように早く行こうと急かす雫に引きずられるように、私は森を出た。
*
「あら? どうしたんですお二人とも」
森から帰って来たところで、私たちは美千代に遭遇した。どうやら洗濯物を干そうとしていたらしく、彼女の足元には洗濯物が山と詰め込まれた籠が置かれている。
「いや、ちょっと雫さんと散歩していたんです。天気も良いですしね」
これならば大意として間違ってはいないだろう。
私がそう言うと美千代は
「ふふふっ、もしかしてデートですか?」
などと私を茶化してきた。
「いや、そういうのでは……」
否定しようとしたが、端から見ればそう思われても仕方がないようなことが多かったのは事実だ、とさっきまでの行動を振り返ってしまい私は赤面してしまう。
それを敏感に察したのか美千代はクスっと微笑む。
「隠さなくてもいいんですよ、もうっ」
嬉しそうに私の肩を叩きながら笑う美千代に、私は苦笑いを返すしかなかった。
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