部屋に行くついでに、私は美千代に屋敷の案内を頼んだ。
「この屋敷は大正五年に先々代の眞籠家当主である眞籠とよ様が建てられたもので、設計は建築家のエドワード・ライエン氏の手によるものです」
美千代はこういうのが好きなのか妙に楽しそうに解説した。さすがにここで働いているだけあって屋敷の歴史に関しても詳しい説明がスラスラと出てくる。何でも元々大学の考古学科で建築史を学んでいたらしい。
簡単な屋敷の沿革説明が終わると美千代は一つ一つ部屋を案内し始めた。
一階の案内も終盤に近づいた頃、
「あら美千代。そちらの方は?」
大階段から下りてきた妙齢の女性にそう声をかけられた。
静江と年齢はそう変わらないと思う。ただ静江よりは動的な気配が強いせいかやや若く見える。
その横には、利発そうな少年がつき従っていた。見たところ、まだ中学生くらい――年齢から見れば彼女の息子、といったところだろう。
美千代は丁寧に頭を下げると、
「今度から雫お嬢様の家庭教師をされる竹宮有馬牧師です」
と私に代わって紹介してくれた。
女性はそう、と言って
「はじめまして、雫の叔母の眞籠幸江ですわ」
名乗ると、傍らの少年を肘で促がす。少年は怯えたように前に出る。
「ま、眞籠
そんな彼の様子に幸江はやや不満げだったがすぐに私の方に向き直って、
「雫はそれはとても変わった子なのでご迷惑をおかけすると思いますが、がんばってくださいな」
どことなく〝がんばって〟の前に〝せいぜい〟とかいう言葉が入りそうな語調で簡単に挨拶を済ませるとスタスタと幸江は去っていった。
そんな幸江の振る舞いをその横でビクビクしながら見ていた少年は小動物のように私に駆け寄る。
「あ、あの、その、ごめんなさい」
そう言ってぺこりと頭を下げると、慌てて幸江の後を追った。
「――僕、嫌われてるんでしょうかね?」
私がそう言うと美千代は、そんなことはないと思いますが、と曖昧に口を濁した。どうやら名家というところはゴタゴタやお家騒動というのがつきものらしい。
「と、とにかく。屋敷の案内を続けますっ」
美千代はそういって小さく気合を入れるようにガッツポーズをすると、再び案内を開始した。
*
「――こちらが庭園です」
美千代が扉を開けると、先ほどからチラチラと窓の外に見えていた鮮やかな景色が大きく広がった。
丁寧に剪定された木々といい、ちょうど庭の中心に据えられた大理石の噴水といい、美術館に飾ってある名画のようだ。噴水のおかげかこの景観のおかげか、この年最高を記録しそうな炎天下だというのにどことなく涼しさすら感じさせる。
「すばらしい庭ですね」
「ええ。この庭は雫お嬢様がお気に召しておられるので特に手入れをしっかりしているんです」
そう言って美千代は何かを探すようにぐるっとあたりを見回した。
「いつもなら大体あちらのほうにいらっしゃるのですが……あ、お嬢様、やはりこちらにおられたんですか」
美千代は噴水の向こうの小さな人影に手を振って呼びかけた。
こちらに気がついたのか噴水の影から、すうっと彼女は姿を現す。
――さて、ご対面だ。
これから相手をすることになるのはどのような子なのかと興味津々で視線を向けたところで、私は硬直した。
「――――――――――」
淡墨で描いたような短い灰色の髪に、透けるように白い肌。
人形めいた華奢な身体の上の、薄地の黒い衣服が風になびく。
無彩色で区切られた彼女の領域の中で、深紅な瞳だけが鮮やかだ。
「そんな――――」
どこか別の世界の存在であるかのような空気を纏って。
無表情に、少女はゆっくりとこちらに歩いてくる。
彼女の柔らかな髪を揺らしていた風が凪ぐ。
そんな、バカな。
それは私の記憶の断片、いや。
それは、私の夢の中にいた少女だ。
冷たい汗が背中から吹き出る。
「お嬢様、こちらが新しい家庭教師の竹宮有馬牧師です」
私の混乱に気付かない美千代はそう言って彼女に私を紹介する。私は必死で動揺を隠しながら、何とかはじめまして、とぎこちなく挨拶をする。
少女は不思議そうにじっと私の顔を見つめた後。
「眞籠、雫です」
と言ってわずかに微笑む。
「――――――ッ」
強烈な眩暈に私は地面にかがみこんだ。庭園の中が涼しげだとはいえ、この日差しの中で、私は身体中の血が抜けてしまったかのような寒さを感じる。
「先生ッ!?」
異変に気付いた美千代が振り返り、慌てて駆け寄ると私の身体を支える。
「しっかりしてください、先生!」
そんな美千代の声が海の彼方のもののように聞こえた。額に意識を集中させ、拡散しそうになる意識を何とか縛りつける。
「く――――ッ」
安定を確認し息を吐くと、少し気分が楽になった。
私のほうが何とか踏みとどまったのもあって、二人とも幸い転倒には至らなかった。
「大丈夫ですか? 先生」
心配そうに言う美千代に私は何とか笑みを作って見せると、大丈夫です、と答えた。
「軽く眩暈がしただけです。その――あまり身体は丈夫ではないので」
本当は記憶を失っていること以外、身体の方は健康そのものなのだが、とりあえずはこうでも言わないと心配させるだけだろう。
「そうですか――。もし必要な薬がありましたらすぐに手配いたしますので、何なりとおっしゃってください」
「ええ、ありがとうございます」
まだ軽く痛むこめかみを押さえながら視線をふと前に戻すと、そこにはあの少女は忽然と姿を消していた。
「お嬢様が――」
私の声に美千代も視線を元の位置に戻す。そしてあらあら、とでも言いたげな口調で、呟いた。
「また、消えちゃいましたねぇ」
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