形無き足跡ちょうちょになって なめくじになって戻っておいで 何度も 何度も <過去の日記"三次元漂流記"より抜粋 / 一切の転載を禁じます>
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四日前、東京へ出掛ける前、いつになくニャンにお見送りをして貰った。着いた時、タオルが臭った。翌日洗っていたら、隅に"犬"と書いてあった。間違えてニャンのタオルを持って来ていた。次の日になってもまだ少し臭いが残っていた。今朝の帰り支度の時間迄部屋の隅にかけておいた。ニャンは昨日死んでいた。昼間はお菓子ばっかり追いかけているくせに、夜はくっついて離れなかった。ニオイになって出先にまでついて来たのに、気付いてあげられなかった。見送ってあげられなかった。まどろんでいるような穏やかな表情。苦しんだなんてウソのようだ。
ニャンは変な形のお菓子だった。山積みにされて処分されようとしていた。ぎりぎりで助け出したところで目が覚めた。思わずニャンを見上げた。
ニャンを送る曲がようやく仕上がった。10日以上も経過していたのには驚きだ。早く送ってやらなければと急いでいるつもりであったが、決していい加減なものであってはならなかった。
絶滅の危機にある動物を救うことに興味は全く無い。その精神は、生命を慈しむ心とは無縁のところにあるからだ。標本の数を減らしたくないという動機が崇高なものとはとても思えない。地上の生命エネルギーは常に一定に保たれる。生き物達が本当に個体レベルで"共存"するのは不可能だ。地球が自身を保とうとするプログラムには、全ての生命を育むという設定はされていない。何でもかんでも生かすという行為は、地球を保つためのバランスを崩しかねない。だが私にはそういう観点での正しさに対する関心すらない。一つ一つの生命を大きな歯車の一つとして捉える理性は私には無い。人助けは本能としてしてしまうものだろうが、一人人間を生かすという行為が、他の生き物や環境へのダメージに繋がるのは確かだ。
今日はだらだらと過ごした。2000年問題に備えて魚達の酸素供給にO2ストーンを買い足しておこうと思ったのだが、水が攪拌される携帯ポンプを探してみる事にした。停電が起こったら地獄だ。暗闇での初めての水温維持作業がどんなものになるか.....
怯えて飛び出されたりしたらもうパニックだ。何故携帯ヒーターって無いのだろうか。とても不思議だ。インスタントみたいなのがあっても良さそうなのに。魚の命はそんなに安いか?
魚が100円単位なら、忘れちゃいけないが人間はタダだ。
新年の停電に備えるべく、乾電池や懐中電灯のスペア電球等を買いにホームセンターへ行った。端のほんの小さな一角に、何と言うのか忘れたが工事現場のくるくる回る赤いライトと黄色いライトがあった。そのライトは"2000年問題対策コーナー"の目印で、まず通路側の目の高さに"つっぱりくん"、その上の棚には家具転倒防止用固定くさり、5リットルも入らないポリバケツ、ガムテープ、避難用荷物袋.....くるっと回って横には"バンドエイド"、エネルギー供給ストップの最中にバーベキューでもするのか"木炭"、いや〜いやはや、どうしようかと裏側へ回ると、やっとあった、ちょっとまともなのが!
懐中電灯少しと、それには合わない乾電池の束.....以上。2000年問題って何だか判ってんのかね、ここの人達は。何ちゅうか、余りの危機感の薄さにほのぼのとしてしまい、水草と、新しいスリッパを買って帰った。好奇心旺盛なうちの魚達は新しい草に大喜びし、スリッパは私の足の裏のカーブにぴったりフィット。
FATEが受けている。Web Site から1000人近くのPCにあの曲がダウンロードされたことになる。あれは人嫌いがエスカレートしていく中、ピヨを看取って己にさえ失望し、絶望の縁で数ヶ月何も書けなくなり、このまま私は立ち上がれないのだと思っていたある日にふと湧いて出たメロディーと言葉から始まる。跳ね起きて取り憑かれたように書いた。この曲に全てを封印してしまおう、そうすれば扉の外へ出られるかも知れない、そんな気持ちでひたすら書いた。書きたい、ではなくて書かねばならないのだった。今回のニャンの曲と同じだ。都合良く解釈をすれば、あれもピヨが書かせたのかも知れない。使命を残したまま廃人になろうとしている私の目をもう一度こじ開ける為に.....
そのような曲を選ぶかのように光が当てられていくのは、私が己の力を過信して暴走しないようにとの戒めだろうか。 生命には始まりも終わりも無い。宇宙には果てなんて無い。一つの個体がそのものとして存在することを静かに終える時、全ての憎しみや苦しみ、不安から開放される。怖れることなど何もない。ピヨとニャンがそう教えてくれた。私は何も怖れない。怖れるべきでない。 グローライトテトラが又産卵した。他の魚がいようがお構い無し、周りも触発されて発情したり、産み落とされた卵を拾い食いしたりで大忙し。生命の循環周期の短い魚を観察していると、生と死の仕組みがよく見える。薬にできるのは病の原因となるものを取り除くところ迄。そこから先は魚体の持つ治癒力が全てだ。菌があっても健康体は発病しない。生き別れになっていた子供に出会ったおかげで不治の病から甦るなんて話は、最先端医学による蘇生話よりもリアルだ。
毛様体筋は意志ではコントロールできないとテレビでつい最近言っていたが、本当は訓練すれば誰だってできる。3Dの絵なんかすぐに見えてしまう。
亡骸でいいから抱きしめたい。去り際に抱きしめてやれなかったからだろうか、ニャンを地球に返した後、そんな逃れようのない苦しさに連日襲われた。死んでミイラになった子を手放さない母猿や、可愛がっていた生き物を剥製にして傍に置く人の気持ちがよく分かる。たとえ間違っているとしても。 ニャンニャン。うちの一階の窓はあんたの見えない足跡で一杯。私が外に住んでる間に覚えたんだよね。コツ...コツ...てそーっとノックするの。網戸をガリガリやって穴開けて怒られたから? 近頃、ステキチがあんたにちょっと似てきたよ。片手を上げて遠慮がちに門を押す仕草はあのノックそっくり。甘える時の目つきもね。あんたの大好きだったステキチ。ちょっと大きくなったよ。毎日ご飯食べてるから。でも私だけじゃ、滅多に散歩には付き合ってくれない。仲良くして貰ったし、いつも守って貰ったんだから、今度は守ってあげてね。それから隣のチェリー。あんたがケンカした最初で最後の犬。あの時もステキチがおさめてくれたよね。よしよししてあげても怒らないでね。判るでしょ。年老いた雌犬の気持ち。一度棄てられた犬の傷。あんただと思って可愛がってる。ピヨがうちに来た時、私を半分取られたみたいな気分になったかも知れない。ご免ね。でもね、愛情の分け前は減らないんだよ。対象の数だけ、それどころかそれ以上に増えるの。地震の時はいつも、あんたら両方に手の届く窓際に走ったよね。私も近い内か、もっと遠い先にか、一緒になって地球を巡る。必ず出会えるから。元は一つだったんだから。甘えん坊のあんたが独りで耐えた苦しみ、孤独、恐怖、私も逃げずに通り抜けなくちゃと思ってる。あんた達の首輪、毎日見ながら。青い首輪だったけど、ほんとは赤いのが似合うだろうなって思ってた。 今日、玄関先の植木鉢で不思議な蝶を見た。黄蝶と白蝶が混じり、まだらになったような絶妙な色合い。初めて見る模様だった。美しい蝶。名前はそれで充分だ。 - お わ り - 今年のニャンの化身たち 2000 May | |
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