形無き足跡あこがれてはうばい こわし切り取ってはなげき なつかしむ <過去の日記"三次元漂流記"より抜粋 / 一切の転載を禁じます>
|
優しさとは強さ。強さとは守れること。知恵とは生き延びること。愛とは与えること。救いとは許すこと。
雨続き・・・ 夕食後のちょっとしたやみ間にニャンを散歩に連れて行こうと戸を開けると、聞き覚えのある速くて重い足音がすぐ前で響いたかと思うと、半分開いた門から見慣れた茶色い顔が陽気に覗いた。不思議な犬だ。今日はニャンを呼ぶのに全て身振りを使い、声も出していないし、ニャンの方も待ち切れずに吠えるようなことはしなかったのに。丸で扉を開けるのをずっと窺っていたかのようなタイミングだ。いつもの半分の距離だけ一緒に散歩した後、もう満足して帰りたがっているニャンを家に放り込み、ニャンのボイコットしている餌を持ち出してステキチ君の横にしゃがみ込んだ。雨続きで餌を貰う機会がなく、お腹は空いている筈なのに、いつもながら食べ物には大して興味を示さない。会う毎に表情は豊かになっていくが、図々しいところは少しも無い。間もなく雨が再び降り出し、大粒になり始めた。早く返してやらねば。どこで寝るのかは知ららないが・・・
立ち上がらせて、はっきりと手を振ってバイバイと言い、戸を閉めた。いつもならすぐにいなくなる。
今年はまだパンダちゃんが登場しない。この季節になると、階下では夜十時頃から氷をおろす音が響く。働き者のパンダちゃんは寒い夜も休まない。それは秋の深まる頃まで続く。ある昼下がり、台所で休憩中のピンクのパンダちゃんをピヨが見付けて、恋しそうに見上げながらふんふん甘え声で、駄々っ子のように地団駄踏んでたっけ。一生懸命な姿が可愛くてまた可笑しくて、大笑いした。思い出って何故こんなに息苦しいんだろう。
暑いなもう。日本中のクーラー切ろうぜ。絶対涼しくなるから。ほんまにもう。
地上の生き物は何故食い合わなければ生きていけないのだろう... なんて食う一方である身で言うなんて厚かましい。今更菜食主義にはなれない。しかし昨日の朝は、今すぐ肉を断とう...!! と思った。だって夢の中で両親に食いつかれてんもん。これは身を守る殺し合いじゃ、そう感じた本能が、アゴにキバを突き刺していたどちらかの腹にタイガークロウをめり込ませた。私には自己犠牲の精神なんて微塵も無いことがよーく判った。こちらの攻撃が激しいほど、相手の歯にも力が入り、私はもう食われるんだな、と思った。死に方としては私が普段から望んでいる通りの、この上なく自然なものだが、痛くて怖くて無念である。夢の続きでか、或いは覚めた状態でか、サファリパークで車外に出てトラに食われた人や、目の前で猫にさらわれたセキセイインコのチーコ、その他諸々が一瞬のうちに脳裏を駆け巡り、判りきった答えを突きつけた。「やはり食われるのはコワイ」 "生きる"とは.....己をここに存在させ続けること。それ以上のものでも、又それ以下のものでも無い。 人が人を裁く権利以上にある筈のないのが、人が人を"赦す資格"である。
用事があって傘を手に郵便局に行こうとしたら、犬が近付いてくる。向こうはすぐに気付き、その憂鬱そうな足取りは上機嫌な駆け足に変わった。野良は大変だ。せっかくだが、わたしゃこれから出掛けるのじゃ。バイバイと言うと、いつもならあっさりとどこかへ行ってしまうのだが、今日は困ったような顔をしていつまでも付いて来る。困った顔に見えるのは、雨で濡れて情けなくなった皮毛のせいだったのかも知れないが、表情が冴えなかったのは確かだ。しまいには、目的地の十メートル程手前、歩道の無くなる所までやって来た。鉄のイノシシ達が行き交う危険な場所なので、下手に追い返すよりも一緒に歩くことにした。奴らが何故キケンなのかと言えば、イノシシ以上の速度を持つクセに、視力がヒト以下だからである。制御能力を超えた魔法は己を滅ぼす。だが、その前に必ず他を破壊しまくるから始末が悪いのだ。
昨夜はおびただしい数の星がきらめいていた。星座だの何だのと言う程の隙間も無くひしめいている感じだった。この辺は田舎にしては空気は汚いが、都会に比べれば夜はまだまだ暗いということらしい。
今朝もネオンテトラの食欲はスバラシかった。こういうサカナは一匹や二匹で飼うものでは無いらしい。初めての水槽では半分位は死んでしまうのは当たり前らしく、いちいち心を痛めていてはいけないみたいだ。何十匹いようと、死ぬ時の苦しみは一匹一匹、同じだろうが.....
とにかく、残った一匹を何とか生き長らえさせなくては。
ほぼ一週間ぶりに帰宅した時、元気に泳ぐ魚の隣に小さなビンがあった。何か光るものが入っている。まさか卵でも産んだかと思ったら、草の茎についたさなぎだ。下の方には金と銀の中間の、真鍮色の突起がある。表の鉢植えに幾つかぶら下がっていたのを見付け、羽化が見たいと略奪してきたという。雨続きでさえなければ、私がさっさと元の場所へ戻していた。尤も、さなぎには雨などどうということは無かったのかも知れない。どんな文句を言われようと、頃合いを見て必ず返してやるつもりでいた。外のさなぎと比べると、色が薄い。家の中では時間が判らないだろうと、ビンのまま、庭の直射日光と雨の当たらない場所へ移した。色は見る見る濃くなり、外のものと同じ焦げ茶になり、真鍮色は緑味を帯びてきた。雨は一向に止まず、昨夜もどしゃ降りだったが、ビンの中のさなぎには天候など知るすべもない。 観察していると、それまでじっとしていた蝶は急に羽を広げてひらひらと動かし始めた。何度目かに飛び立とうとし、地面に落ちていった。何度も何度も雨の中へ飛びたがったが、それは無理というもの。鳥のエサになろうにも、草むらの見えない所で死んでしまうだろう。私は慌てて買い物に走った。相当汚い格好だったと思う。そして一夜明けた今日、若干大きくなった器に蝶は尚も監禁され続けている。
超人婆上の葬儀が終わった。焼かれて尚見事な白骨が砕かれる。天理教では葬儀は祭りであるらしく、タイが欠かせない。この季節では二日間通して使える筈もなく、翌朝には新しいものと入れ替えねばならなかった。人はあらゆる生き物に迷惑をかけながら生きていくものだが、死んでもやはり迷惑をかけてしまうのだと、初日のタイをビニール袋に入れながら思った。 何かが見える暗さは闇とは言わない。真の闇の恐ろしさは、その存在すら見えない事にある。 | |
show frames |