ステキチ 20KB

形無き足跡

おやすみは またあした
さよならは また会う日まで


<過去の日記"三次元漂流記"より抜粋 / 一切の転載を禁じます>
1997 4/15 - 1998 1/15
解き放たれる魂〜ピヨ
1/18 - 6/1
ステキチは今日も行く
6/12 - 1999 9/14
いのちのコラージュ
11/27 - 2000 5/10
さよならニャンニャン

1998年 1月18日   死因

  ピヨの死に様についてはまだ書けない。いずれ書かなくてはいけないあの光景は、文字となって記されるまで何度も何度も、繰り返し頭の中に呼び出され、焼き付けられていくようだ。記憶の中の同じ映像、同じ苦しみ、同じ悔やみ。儀式のようにいつもいつも同じ。変える術の無いのが過去だから。

  ピヨの直接の死因は老衰では無かったかも知れない。それはあの死の瞬間から、或いはもっと前から私の理性が勘ぐっていたことである。どちらにしろ、私に何かが出来たとは思わない・・・ 一人になった台所でぼんやり考えていたのは、そんな毎夜のことであった。だが不意にあるキーワードが疑念を確信へと変えた。生き物は最後まで弱みを見せないという鉄則──老衰で死ぬ犬が三日も苦しむ筈がない、と。

  寒くなると年老いた四肢は痛みを増し、動きも自由にならないようだった。そんな様子を見る度にあと何日か、と覚悟を決めた。去年も、急に冷え込んだ夜にピヨは下痢をし、時間を選ばず台所を汚し始めた。毎年のことである。ただ違っていたのは、好き嫌いなく何でも喜んで食べるあの子が、主食である老犬用ドライフードを食べなくなったこと。ここで非力な飼い主に出来ることは、食べたがるものだけを食べさせてやること、それ位しか無い。初めは缶詰の餌をドライフードに混ぜたが、食べる量が著しく減ってきたので、すぐに缶詰だけ与えるようになった。しかしそれも間もなく口にしなくなった。大好物のチーズなどは二口位なら食いついたが、その内顔を背け、何も食べたがらなくなった。食欲そのものが無くなったみたいだった。それからは流動食。体に触れるものがあれば何でも振り返って食べようとしていたあの食いしん坊が、何も食べられず、こじ開けられた口に押し込まれたものを流し込むだけ、そんな食生活に三日も耐えた──いや、耐えられなかったのかも知れない。


2月4日 キレた振りをしたい若者達

  破壊は簡単。生まれたての子供でも出来る。「生かす」ことの難しさを知った時、人は初めて「強さ」の意味を知り、己の無力さを悟る。刃物を持つのは弱さを自覚している証。己を顧みずに命を投げ出す母親の強ささえ、我が子を救うに必ずしも充分である訳ではない。動物達が知っている当たり前の厳しさを人だけが知らない。


3月10日 人は何故ウンコを踏むか

  まだ隣家の工事は始まらない。夕方ニャンを連れて横を通ると、祝詞の後にまかれた塩が残っていた。ここは長いこと放ったらかしだった。草はぼーぼー。雨の後は地面が黒っぽいのでよく犬の糞を踏んだ。この土地を所有している人がどこかにいるのだろうが、犬の世界ではやはりどこかに主がいるのだ(多分ステキチ君)。虫の世界では・・・ 縄張り争いの起こる程の場所でも無さそうだ。とにかくこの近所はウンコが多い。豊かな土地だ。

  この前ウンコを踏んだ時、人は何故ウンコを踏んでしまうのかとふと考えた。「そこにウンコがあるから」と言えば尤もらしいのだが、「そこに」あったって犬や猫は普通は踏まないと思う。踏むとすれば自分の意志で踏んでるスカトロな生き物に違いない。スカトロでもない人が何故踏むかと言えば答えは他にない。どん臭いのである。人は他の生き物に比べると驚異的にどん臭い。立てば転ぶし、走れば遅いし、歩けばウンコを踏む。何故だ──?それは立っちゃったからである。(つづく)


3月18日 人は何故ウンコを踏むか−完結編

  眠れないのだ。今日は珍しく怖くない夜だ。まだ狂わない。ニャンは玄関で寝ている。私がいなければここにはいなかった筈の犬。そしてこの子がいなければ私もまた存在しない儘であったかも知れない。もう十一年になるのだろうか。私の言葉などに真面目に耳を傾けて貰えるとは思っていなかったから、驚きもしたし、戸惑いも覚えた。これで保健所行きを免れたと思っていたら、その後、私の留守にこっそり棄てに行っていたらしい。必死でついて来たので連れて帰ったという。時は失われた命を返してはくれない。死んでしまった生き物の苦しみを和らげてやることは誰にもできない。薄れていくのは、のうのうと生き長らえている人間の記憶だけ。

  ああ、そして人は何故・・・ (強制終了)


3月30日 のら

  ステキチはこの辺を仕切っているらしい。顔が・・・ というより口が大きく、体もしまっていて強そうではある。うちのニャンがお気に入りの雄犬だが、それ程若くないのか、或いは飼われている時に去勢されたのか、雌犬のニャンには大した興味は示さない。いい奴だ。人なつっこく大人しいこの犬と私はすぐに仲良しになった。ニャンと散歩中の私を見付けては嬉しそうな顔をして走ってきてくれる。ピヨが死んだ日の夕方も、ニャンを裏から散歩に連れ出そうとしているところにやって来た。いつもなら表で待っているのに、この日は何故か家の横に回ってこちらを見ていた。私を見舞いに来てくれたかのような優しい顔をしていた。我々はいつものように一緒に散歩に出掛けた。この2週間ぶり位の再会にどれ程救われたことか。

  この犬は別に餌目当てで来る訳ではない。よそでも貰っている様子だし、私が餌をやりだしたのは、仲良くなって一緒に散歩をしたりするようになってからである。人に慣れているからといって、飼い犬のようにいつまでもベタベタはしない。自分で自分の身を守る強い生き物だ。自然の中ならば生き抜いていける。が、ここは違う。そもそも人の作り出した犬という種族の、自然な野生の姿など存在しない。そしてこの善良な生き物に対して我々がしてやれる事も殆ど無い。・・・無い筈はないのだが、その知恵がない。そして勇気がないのだ。


3月31日 あやまち

  隣のクッキーと遊ぶのは命がけに近い。シェパードとハスキーのハーフだから、5ヶ月の子犬とは言ってもでかい。子犬だから咬むのが大好き・・・ どうやら私は動く巨大ジャーキーらしい。喜んでくれるのは嬉しいが、どうも目つきが他の人を見る時と違うのだ。今日は1時間近く暴れた。裏ではニャンが鳴いていた。ニャンは、雄でしかも子犬なのにクッキーが嫌い。

  遊び疲れて家に帰ると、裏ではニャンが浮気亭主を玄関で迎えるような様子でこちらを見ている。やばい。下半身はクッキーに跳びつかれまくってニオイがついているだろうと、寝転んで手を伸ばして頭を撫でた。・・・すると、手が触れるや否や「ふん!」てな感じで逃げてしまった。お気に入りの場所に寝そべったままこっちを睨んでいる。いくら猫撫で声で呼んでも顔を上げようとしない。コワイ。目が三角だ。前にゴールデンリトリーバーのデロりん(本当はケンちゃんという名前らしい)のニオイをさせて帰ってきた時もこうだった。取り敢えず好物のチクワでご機嫌を取ってみた。晩飯後、いつものように家の中へ入れてやる頃にはもう許してくれている。いい子やなー、よしよし、と手を伸ばしたらすっと逃げられた。う・・・


4月17日 魂の限界

  魂なんて無い。心は脳の生きている証。生ける肉体にこそ宿るもの。仮に思考や知覚を魂と呼ぶならば、死とはそれらが消滅すること。決して肉体が滅びることではない。

  肉体に精神は宿らない。だからこそ永遠なのだ。たとえ形は失われても、消滅することは決してない。土中の養分と化したかつての生命は、あるものは植物の根に吸い上げられ、葉の一部となり、花の一部となり、虫達の体内へと取り込まれ、またその虫達を食らう鳥達の体を巡り、一部は排出されてまた植物を茂らせる。永久に終わることのない循環の中である一時期、偶然寄り添い、支配者を共にする、かつてはそれぞれ異なる物質を形成していた無数の最小単位の集合── それが生命なのだ。死とはそれらが解き放たれること。新たなる形を求めて自由に動き出すこと。霊魂の不在を認めてこそ永遠の意味を知ることができるのである。


4月19日 飼い犬に手を・・・

  今日ニャンに咬まれたし。


4月20日 ・・・挟まれた

  ニャンは昨日、ひどく怯えていた。自分の住処である庭がいきなり人で一杯になり、あまり馴染みのないその人達はべちゃべちゃ喋りながら行き来し、花の写真を撮りまくっていたのだから。家の者すら恐い。顔を下に向けたまま、誰かが通る度に私の陰へ陰へと体を隠そうとしていた。前からあまり好きでない"煙草臭いおっちゃん"が名前を呼びながら近付こうとしてプランターに蹴つまづくと、もう恐怖は限界を超えた。キャン!と言って伏せてしまったニャンを呼び寄せ、大丈夫よ〜と手を出すと、明らかにパニックを起こしている表情で再び「キャン」と言いながら跳び上がり、私の親指に咬みついた ──正確に言えば、親指を上下の前歯で軽く挟んですぐに放した。そしてまた伏せた。抱き上げると少しは安心したが、誰を見ても体ごと背けていた。犬は激痛や恐怖に耐えられないときは取り敢えず何かを咬む。飼い主を咬むとは、などと言う勿れ。飼い主だから許されることもある。


6月1日 GIFT

  隣のクッキーはもう6ヶ月を越えた。子供とは言えでかい。アゴの力は半端じゃない。気に入った人には立ち上がって抱きつく。そして腰を振る。興奮しているので爪がズボンに食い込んだりする。発情しているかに見えるこの動作は、雄犬が喜びを表すものでもあるらしい。だから私は平気。しかし飼い主である奥さんが嫌がった。で、クッキーは早々に獣医に連れて行かれ、ちょん切られてしまった。

  その翌日、元気になったクッキーと遊んだ。以前のように抱き付きはするが、何だか咬み方が優しい。やたらともたれ掛かったり、膝に乗ったりしてデレデレしている。やはり去勢は攻撃性を抑えるのか・・・?! しかしどうも変だ。残った麻酔のせいに思えて仕方がない。ぼんやりして何となく不安だから甘えているのかも知れない。奥さんは大人しくなった「我が子」を複雑な笑顔で見守る。

  数日後、外で寝そべっているクッキーを見付けて近付いた。歓迎の抱擁、そして咬み・・・いででででで!! 以前の儘の俊敏な動き、好奇に満ちた目。咬んだ手首を振り回そうとする癖も同じ。やっぱり何も変わっちゃいない。大好きな骨型ガムをポイとくれる気前のいいとこも──


6月14日 コンニャクよ永遠なれ

  校庭の塀に沿って川が流れていた。モグラが顔を出しては、人に遭遇した驚きと恐怖でまた泥の中へと潜って行く。この場所のことは黙っていよう。モグラ達の生活が脅かされる。ウミガメも流されて行く。その内、私は友人達と共に川を下っていた。三叉となった下水道の入口の、水が腰ギリギリまで浸かる辺りで、短冊切りのコンニャクを放してやった。一切れでも無事に海に帰り着け・・・ 引き返そうとすると、半分位途中で拾われてお供えにされているではないか。何と厚かましい、とんでもない参拝者達── かき集めて堰の穴から向こう側へ押し込み、神主の怪訝な視線を感じて柏手を打つ。パンパン・・・ どうやら怪しまれなかったようだ。

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