法輪寺雑学帖

【人】 【文献資料】 【参考図書】

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【人】
会津八一(秋艸道人)
明治14年〜昭和31年(1881〜1956)新潟県出身。
明治39年早稲田大学卒業後、教職のかたわら俳句を文芸活動の主軸とする。俳論や一茶の研究などに業績を残すが、大正10年頃から短歌に転じる。歌壇とは終生没交渉を貫き、蒼古清澄な歌の調べは斎藤茂吉も高く評価するものとなった。
東洋美術史のほか英文学、俳諧史、民族学などを専門とし、学位請求論文『法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究』は、当時の学界に新風を吹き込むものとなった。
また、少年時代には習字を苦手としたが、その後自らの工夫によって独特の書の世界を創りあげた。各地に歌碑が作られているが、当寺にも十一面観音菩薩を詠んだ句(くわんのんの〜)の碑がある。

『鹿鳴集』より
 法輪寺にて
くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ

※「帝室博物館にて」とも「法輪寺にて」ともされたが、当寺で詠まれたのが正しいようである。
※瓔珞(ようらく)については、「本来は、珠玉など七宝を綴り合せて造れる頸飾をいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾をいへるなり」とある。(『自註鹿鳴集』)

 法輪寺にて
みとらし の はちす に のこる あせいろの
みどり な ふき そ こがらし の かぜ

※「みとらしのはちす」は十一面観音がお持ちになっている蓮華のこと。「あせいろのみどり」は緑色が褪せかかった意。

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石田茂作
明治27年〜昭和52年(1894〜1977)愛知県出身。
仏教考古学者で、学徳兼備の人といわれ、瓦礫洞人と号した。仏教考古学を開拓し、東京帝室博物館を研究拠点に、その体系化に貢献。1939年には若草伽藍趾を発掘、法隆寺の再建説を実証し、その再建非再建論争に終止符を打った。また、1957年に奈良国立博物館長に就任し、その館風を確立したといわれる。
昭和25年に当寺の発掘調査を行い、現金堂および講堂(収蔵庫)が旧位置に建っていること、当寺が法隆寺式伽藍配置であったことなどを明らかにされた。また、当寺の基礎資料『法輪寺大鏡』の編者でもある。

百済開法師・圓明法師・下氷新物
この3人については、明らかなことは伝わっていない。
『聖徳太子伝私記』で、顕真は、法輪寺創建に関するふたつの説から、下氷新物と山背大兄王は同一人物なのではないかと記しているが、これは二種類の創立説を無理にあわせた考え方で、当時、すでに法輪寺創建の由来が明らかではなかったことをあらわしていると考えられる。

幸田 文
明治37年〜平成2年(1904〜1990)東京都出身。
父は『五重塔』の作者・幸田露伴。昭和22年、露伴の死後執筆をはじめる。同40年、当寺住職・井ノ上慶覺に会う。再建資金集めのため各地で講演活動を行うなど、当寺三重塔再建のためにご尽力いただいた。再建工事中の昭和48年6月〜49年7月の期間は斑鳩町に下宿し、工事の進展を見守られた。
『おとうと』『流れる』などの著書のほか、「法輪寺の塔」「胸の中の古い種」等、当寺三重塔とその再建への思いを綴った随筆が数編ある。

竹島卓一
昭和2年、東京帝大卒業。東方文化学院東京研究所(現在の東京大学東洋文化研究所)研究員を経て名古屋工業大学に着任した。昭和25年、法隆寺国宝保存工事事務所長となり、五重塔と金堂の修理工事に中心的な役割を果たす。
昭和45年から47年にかけて出版した『営造法式の研究』は、北宋の建築技術の体系を明らかにしたもので、この業績に対し第36回日本学士院恩賜賞が授与された。
当寺三重塔再建では、飛鳥様式を再現する塔の設計を御担当いただいた。

西岡常一
明治41年、奈良県に生まれる。法隆寺の修復工事で多年にわたり宮大工を修行した後、法輪寺三重塔の再建、薬師寺金堂、同西塔の復興などで棟梁をつとめる。木を活かすことのできる最後の宮大工ともいわれた。なお、法輪寺三重塔再建工事では、常一氏の父楢光氏、弟楢二郎氏、また弟子の小川三夫氏(現鵤工舎代表)にもご尽力をいただいている。

寳祐上人
当寺中興開祖。
正保2年(1645)、大風(台風)によって甚大な被害を受けた法輪寺は、その後数十年間、寺院としての構えを失うこととなったが、寳祐上人は享保年間にその復興を発願された。
当寺の妙見様を信仰する大坂の商人を檀主に迎え、妙見菩薩像の修復をかわきりに、まず仏像、仏画、鐘楼などが再興された。また妙見堂を境内に移築し、観音様、聖徳太子様とともに信仰の中心を整え、伽藍復興の礎を整備された。しかし、延享元年(1744)、三重塔修復にかかろうという時に上人は志なかばに逝去され、上人の遺志は、大圓上人はじめ弟子の方々に受け継がれた。
宝暦10年(1760)に三重塔の修理が終わり、翌11年には金堂が再建され、被災後約百年にして、法輪寺は再び寺観を整え現在に至っている。

山背大兄王
推古天皇の時代(7世紀前半)、聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女とのあいだに生まれる。誕生の地は岡本宮(のちの法起寺)で、三井の井戸の水で産湯をつかったと伝えられる。異母妹の舂米女王(上宮大娘姫王)と結婚して7人の子をもうけ、聖徳太子没後は斑鳩宮(法隆寺夢殿の辺り)に居住した。
太子および推古天皇薨去後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、蘇我氏より迫害をうけたのち、皇極2年(643年)に、蘇我入鹿らの軍によって生駒山に追い込まれた。しかし大兄王は、聖徳太子の遺訓「諸悪莫作、諸善奉行(すべての悪いことをするな、善いことをなせ)」を守り、蘇我の軍に戦を挑んで万民に苦を強いることをいさぎよしとせず、斑鳩寺で一族とともに自害した。
法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。

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【文献史料】
『古今目録抄』
鎌倉時代の、法隆寺の僧顕真による法隆寺の記録や聖徳太子伝の秘伝の集大成。『聖徳太子伝私記』『太子伝暦』ともいう。法隆寺の寺誌として、また中世の太子信仰の展開を見るうえでも重要な意味を持つ史料とされる。

『寺家縁起』
『御井寺勘録寺家資財雑物等事』の異称。

『上宮聖徳太子伝補闕記』
平安時代前期に編纂された著者不明の聖徳太子伝。太子誕生の奇瑞をはじめその生涯の伝承や説話を伝記としてまとめたもの。『日本書紀』等で十分に採録されていなかった聖徳太子の行状が、調使や膳臣の家記などから採録された。

『聖徳太子伝私記』
『古今目録抄』の異称。

『聖徳太子伝暦』
平安時代中期に作られた作者不明の聖徳太子の伝記。内容は史実と伝説を取り混ぜたもので、十世紀末以降は仏教説話や太子伝の基本資料として広く流布し、太子信仰にも大きな影響を与えた。

『仏舎利縁起』
寛保元年(1741)3月5日、寳祐上人によって記された縁起。仏舎利の由来、大風によって荒廃した当寺伽藍の状態や再興発願の次第、三重塔修復の際に宝塔の心柱の下から舎利容器が発見された事情等を記し、ともに出土した品々が図示されている。

『御井寺勘録寺家資財雑物等事』
延長6年(928)に成立。御物巻子本『聖徳太子伝私記』下巻に引用されており、聖徳太子の御病気平癒を願って、山背大兄王や由義王等が法輪寺を建立されたことなどが記されているが、創作されたものである可能性もあり、学問的にはその内容に疑問が残るとされる。法隆寺の鎌倉末の古文書の中に同書を書写したものが残っているともいう。
いくつかの文書に同内容が引用されており、それぞれに「法林寺流記」「三井寺流記」「縁起」「流記」とも書かれているため、正式名称は不詳。研究者の間では「御井寺縁起」「寺家縁起」と呼ばれる。

『大和国夜麻郷三井寺妙見山法輪寺縁起』
室町時代末頃に成立したとされる当寺の縁起。「法輪寺縁起」ともいう。当寺草創の由来、堂塔伽藍、仏像や四至、百済開法師・円明法師などについて記述されている。

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【参考図書】
■石田茂作編『法輪寺大鏡』 大塚巧芸社
当寺の発掘も手掛けられた石田茂作先生の労作。再建前の三重塔をはじめ図版も充実した、当寺の基礎資料。

■町田甲一編
 『大和古寺大觀 第一巻 法起寺・法輪寺・中宮寺』 岩波書店
大判の写真を多用し、解説も詳細にわたっている。

■町田甲一企画、大橋一章著『日本古美術15 斑鳩の寺』 保育社
中宮寺、法起寺とともに法輪寺を紹介した図書。当寺の沿革に関する諸説が検討されており、仏像等も詳しく解説がなされている。入手しやすく値段も手頃な参考文献。

■石田尚豊編集代表『聖徳太子事典』 柏書房
事典編と論考編の二部で構成された事典。関係の文献目録も充実している。

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