法輪寺の沿革

法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、土地の名によって三井寺(みいでら)ともよばれています。三井(みい)の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。

■創建について

当寺の創建には二説が伝えられています。
ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)、もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。
昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。

■奈良〜室町時代

創建から江戸時代中期まで、当寺に関する史料はまことに乏しいかぎりです。奈良時代の様子はほとんどわかりませんが、十一面観音菩薩立像・弥勒菩薩立像・地蔵菩薩立像・吉祥天立像・米俵毘沙門天立像など、平安時代の仏様を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。延長6年(928)の『寺家縁起』には、当時の檀越が高橋朝臣であり、寺域は、東は法起寺堺、南は鹿田池の堤、北は氷室池の堤、西は板垣の峰を限ると伝えています。
鎌倉時代の様子は、金堂・講堂・塔・食堂等が建っていて「建立の様は法隆寺に似たり」と『聖徳太子伝私記』に記されていますが、『大乗院日記目録』には、南北朝時代の貞治6年(1367)正月三日に法輪寺が炎上したとあります。
室町時代末頃の『大和国夜麻郷三井寺妙見山法輪寺縁起』には、金堂・講堂・塔・中門・北門・鐘楼・鼓楼・経蔵・宝蔵・四面廻廊・僧房・温室等があり、塔の四面に塑像群を置くと伝えますが、上記の火災の記述から疑問視されています。

法輪寺伽藍古図面より
法輪寺伽藍古図面

■江戸時代

法輪寺が現在のような規模になったのは、正保2年(1645)の台風によります。伝えるところでは、金堂・講堂・中門・廻廊・食堂等、諸宇ことごとく倒壊し、ただ三層目を吹き飛ばされた三重塔だけが残ったと伝えます。
17世紀後半の『愚子見記』には、唯一、三重塔の存在を記し、金堂・講堂・中門は礎石によって平面寸法を示しています。
享保年間、寳祐上人は法輪寺の復興に着手されます。上人は復興の勧進のためにも、当寺の聖徳太子感得と伝える妙見菩薩の信仰をひろめられ、熱心な信者となった大坂の町人が檀主となり、さらに多くの法縁を得て、大小の仏像三十余躯・画像二十幅・舎利塔二基・霊宝十余箱の修理が、ついで、鐘楼・妙見堂・八幡宮の修理が行われました。
元文4年(1739)には三重塔修復が緒に就き、その年の7月には心礎から仏舎利が発見されるにいたり、その顛末は、寳祐上人が感動を込めて『仏舎利縁起』に記されています。
塔修復なかばで斃れた寳祐上人のあと、遺弟大圓上人等により、宝暦10年(1760)に塔修理は完成し、宝暦11年には現金堂、続いて旧講堂、南大門が復興されました。

明治〜現在

三重塔は明治時代に入って国宝に指定され、明治36年(1903)には解体修理が行われましたが、昭和19年(1944)7月21日、雷火にて炎上・焼失の悲運に遭遇してしまいました。
井上慶覺師と康世師の住職二代にわたる三重塔再建の発願・勧進は、地元の方々、また作家の幸田文先生はじめ全国の方々のご支援をいただき、設計は竹島卓一博士、木工事は宮大工西岡常一棟梁のもと、昭和50年3月、三重塔は創建当初の様式にて竣工し、同年11月、落慶法要が勤修されました。
また、旧講堂の位置には、昭和35年、耐火・耐震にと収蔵庫が建立され、旧講堂、金堂の仏様が一堂にご安置されています。


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