悪罵は必然に

衝撃は唐突に

しかしそこに至る過程は

すべて裏づけされた過去に由来して



















<12>



ズン、と低重力下での着地の感触を得て、無事に“一応”捕虜扱いの機体を運んだイザークは、通信を切られ真っ暗になったモニターを眺めて一つ溜息を吐いた。

『ちゃんと報告してくれる?』

念押しのような問いに了承で答えてみれば、思わず硬直してしまうほど柔らかい笑みを見せて――そうして話されたのはやはりというか、予想以上の厄介事だった。

内容からしても、またイザークからクルーゼに個人的に直接面会を求めなければならないと判断するレベルの。
またヴェサリウスに移動か、とその手間に気鬱になりながらハッチを開けて格納庫のフロアを見ると、そこには何故か今ここにいるはずのない目当ての人物が堂々と佇んでいた。

(・・・・・・・・・これは、やはり・・・)

きっかり10秒は固まって思考を取り戻したイザークは、先程のキラの話と現状を併せて大概の事情を察してしまい、脱力感に引き込まれながらフロアに下りた。
白い軍服に身を包み、悠然と立つラウ・ル・クルーゼのもとに。

「ただいま帰還しました」

一旦反応を見るためにそこで言葉を切ると、見た目無表情な仮面の男は鷹揚に頷くだけで答えた。イザークがストライクを連れ帰ることなど始めから予想していたようだ。

「ご苦労だった、イザーク。あの機体のパイロットのエスコートを頼めるかね?」
「はっ!」

エスコート。“連行”ではなくわざわざそんな言い回しを使うということは。
自分の予想が正しかったということをひしひしと感じて、ストライクのハッチに向かって銃を構えているもの達に下がるように言い、ハッチの端をノックした。

「おい、出て来い」

この台詞は“エスコート”としては失敗だろうが、今のところは構わないだろう。なんせこのストライクのパイロットは“捕虜”として見られているのだ。問題はない。

プシュッ。気圧の変化する音がして、ハッチが勿体つけるようにゆっくりと開く。ストライク自身が中の主を見せることを拒んでいるようだ。
薄暗いコックピットから伸びてくる白い手を躊躇わず掴み、そっとパイロットスーツに包まれた体を抱き寄せた。

普段のイザークからは考えられない丁重さに周囲からはざわめきが起こったが、そうしているほうもされている方も全く気にしていない。
ヘルメットから覗く紫紺の目に、視線で合図すると、掴んでいた手がゆっくりとヘルメットにかかり、彼女の容貌を露にした。

鳶色の髪に全体的に小造りに整ったパーツの中で大きく印象的な紫紺の目。健康的に焼けた白磁の肌は戦闘後の興奮の所為か薄っすらと赤く染まっている。
ふうっと小さく力を抜いて目元を弛ませる姿は、この状況には全く合っていなかったが、彼女自身の容姿を惹きたてるには十分に魅力的な仕草だった。

儚げな印象を与える素顔を効果的に披露したキラは、数歩ほど離れた位置で銃を構えようか躊躇っている連中も眼中に入れていない様子で気儘な猫のように頭を振ると、両手で掴んでいたヘルメットをコックピットの中に放り出し、足で無造作にハッチを閉め、ゆったりと手を差し伸べる。

「それで?」

向けられたのは、こちらの不安を煽る笑み。怒りも不安も喜びも露にしない、歴戦の戦士が食えない企みを謀っているかのようなどこか物騒な表情だった。
背筋を這う嫌な予感に冷やりとしながら、兎に角イザークは彼女を待ち人の元に連れて行こうとその華奢な手を取る、が。

ドォン!

「なっ」
「何!?」

突然の爆音と揺れでバランスを崩すキラを咄嗟に支え――その姿に再び外野からどよめきの声が上がったが、構っている状況ではない――うるさく鳴り響く警報にスピーカーのある上方を見上げた。

『緊急避難警報発令!ガモフのハッチ外部にイージス接近!強引に着艦しようとしている模様!緊急用シャッターを閉鎖します、格納庫の隊員は直ちに避難してください!』

イレギュラーな存在に走らせた緊張感が、己の中で腹立たしさと馬鹿馬鹿しさで捻じ曲がるように奇妙に弛んだのをイザークは感じた。
先程の戦闘から様子がおかしかったが、ここまで迷惑だといっそ撃ち落してしまえと進言したくなる。
こんな状況下に陥れてもまだ仲間に対する厳罰を求める声を上げなかったのは、図らずも腕の中に収める体勢となった華奢な肢体の少女から立ち上る不穏な――というのはかなり控えめな表現になる――空気の所為だ。

あんのっ――――!!

押し殺した、全身を精神的に締め上げ縊り殺さんばかりの迫力と威圧感を持って吐き出された言葉は、その容姿と雰囲気から遠く木星よりもかけ離れ、平素男所帯の軍で過ごしているイザークでも耳を塞ぎたくなるような罵倒語だった。

生憎、密着した体勢と軍人として鍛えた聴覚と理性を先立たせる思考力が、一時的な現実逃避すら許しはしなかったが。





















































唐突にシュッと空気の擦れる音がして医務室の扉が開かれ、何事かと思わず身構えた民間人なのに一般常識以上の知識と技術を持ち合わせた少年少女とザフト軍人であるが一般人に紛れざる得ない状況の負傷者二名だったが、入ってきた人物と歓喜に満ちた表情に一気にその緊張を解いた。

「サイ、ミリィ!やったわよ!」

扉を閉めるなりそう叫んだ燃えるような赤毛の少女――学生たちに発破をかけて自分はオーブの民間人が集まるフロアへ情報収集に行っていたフレイ・アルスターは、入ってきた勢いのままにサイに抱き着いた。

彼女の言葉に真っ先に反応したのは、腕の中に飛び込んできた柔らかな感触と、首元に腕を巻きつかれた苦しさと衝撃でそのまま背中から倒れそうになった、幸せと不幸を同時に味わっているサイではなく、薬品棚から医薬品や劇薬や包帯・抗生物質まで片っ端からガメていたミリアリアだった。

「本当!?怪我はなさそうだった?」
「もちろん!ストライクには傷一つついてないわ♪」
「連れてったのって・・・まさか赤いやつじゃないわよね?」
「青と白のやつよ」
「デュエルだな」
「他の名前は知ってる、サイ?」
「赤ハエがイージス、茶色に重装武器がバスター、黒カメレオンがブリッツで、青と白の突貫型がデュエル、トリコロールのキラの機体がストライク」

一部彼らの偏見と主観を交えた的確な機体の紹介をするサイに、ふむふむと頷く少女たちの一方で、奪取の時点からこちら側に保護された所為で各機の特徴は愚か性能すら知らない二人がギョッと知っているのが当たり前と言う態を見せる少年を見つめた。

「な、なぁ、なんでそんな詳細まで知ってるんだ?」

確かあれって一応地球軍の軍事機密なんだろう?
しかも奪取した時の作戦内容からして彼らはイージスとストライク以外は目視すらしていないはずだ。

「血の繋がりも否定したい俺の父親は一応オーブの名士で、トールの父親はモルゲンレーテの職員だし。なにより地球軍が隠してたっていってもオーブの技術と人と国土を利用してるんだから、俺達に秘密にしようなんてそもそも無意味だ

全ての行いはそれなりの対価を予想しないと。
“技術大国で知られるオーブから無償で何か得ようなんて甘い考え蟻にでも食わせるべきだね”っていうのはキラの言葉ですけど。

そう言った時の少女の皮肉った声音や爽やかに嘲るという独特の笑顔が容易に想像できてしまって、ほんの数時間と言う短い付き合いの中で変革され続ける自分達の中のオーブ像や儚い容姿で中身は極彩色のカオスが渦巻く少女の気性に、ラスティは思わず頭を抱え、ミゲルは額に手を当てて顔を俯かせた。
本当はラスティのように頭を抱えてしまいたかったのだが、トールにぎゅうぎゅう締め上げられたコルセットがそうした動作を阻む。

「何はともあれ、これでキラと“運命の人”との再会は約束されたも同然ね!」
「アルテミスまではそんなに距離がないから、ゆっくり話せないのが残念だろうけど・・・」

アルテミスは絶対防御を誇る軍事要塞のコロニーだ。アークエンジェルだけでも勿論嫌な意味で歓待されるだろうが、いざそこから出向する時になって自分達の居場所をストライクに見失われるのは痛い。

自分達だけで脱出する準備は整いつつあるし実行する覚悟も本物だが、あくまでもそれは最終手段でしかない。
ベストは勿論、月行きを回避して地球に降り、ザフトの二人を秘密裏に解放してみんなでオーブに帰ることなのだ。1人でも欠けていることを“みんな”とは言わない。

「そういえば、キラは一度赤ハエに捕まって逃げ出したんだけど・・・次に捕まり直した機体にストライクが自分で手を伸ばしたように見えたのよね〜」

そんなにアスランが嫌いなのか、キラ。
むしろあいつはキラに何をしたんだ。
キラにそこまで避けられるなんで、イージスの奴は相当変質的な奴なのか。

目的を目前にしても尚、イージスに強固な拒絶反応を示すキラにそれぞれの疑問を視線に乗せてお互い首を捻る軍人2人と民間人の少年1人。
疑問に思考を巡らせている三人の傍らでは、

「新しい王子様の出現ね!」

とミリアリアがフレイの報告に別次元で乗って第二の運命の人としてデュエルのパイロットを認定していた。

二人の話はいつの間にか昼メロもびっくりな内容――件のパイロットがキラを挟んでクルーゼを相手取ったドロドロの三角関係を繰り広げる所まで発展している。
女性の想像力、否、妄想力の激しさに半ば圧倒された男性陣は。こんなところで勝手に弄られているキラの他称“運命の人”候補のデュエルのパイロットに心の半分で同情した。
もう半分は、もちろん面白がっていたが。






















































それはある意味、非常に気持ちの悪い光景だった。

アラートが鳴り止み、緊急避難用シャッターが開いた途端、一応(認めたくないが)自分の同僚が、どんな脚力で蹴ったのかは知らないが風をも切り裂くスピードで輝く笑顔を撒き散らしながら低重力のなか突進してきたのだ。

「キ―――ラ――――!!」

鬼気迫った声量で叫びながら。

あまりの勢いに思わずキラを庇って身構えたイザークだったが、くいくいと本人に袖を引いて止められ、エスコートのため握った手はそのままに

「肩貸して、踏ん張ってて?」

とにこやかに告げられた。
何をするのか疑問に思いつつ、彼女の腰に回していた手でハッチを掴むと――ふわり、傍らに佇んでいた肢体が浮き上がり・・・

一閃、風を切る音の後

ごしゃぁあっ

人体と接触したとは思えない音が、した。

「ぐぁあ!」

痛みの衝撃による悲鳴が、ドップラー効果を体現して超高速で遠ざかっていく。

「・・・すごい切れ味だな」

自分の肩にかかった負荷からその蹴撃の威力を実感したイザークの呟きに、当の本人は何でもないことのように肩を竦めてみせた。
曰く、

「ハエは出会った瞬間に叩かないとぶんぶん周りを飛び回ってうるさいからね」

彼女と出会ってから見た、今までの認識を大きく覆すアスランの行動への対処法に大きく納得のいく答えだった。
“国防長官の息子”で“紅服のエリート”であっても、彼女にとっては只のハエ――人間ですらないのだと断言するのが小気味良い。
その対象が自分ではない限り笑っていられる他人事の話だ。

ろくに相手の位置も確認せず、しかもピンポイントで細い踵を飛び込んできたハエの鼻に――鼻血と思われる赤い液体がふよふよと空中を浮んで筋を作っていた――埋めた少女は、飛んできた時よりも速度を上げて遠ざかる悲鳴でも解る凄まじい威力もつ後ろ回し蹴りを、その華奢な体で披露したのだ。

周囲の兵士たちは突然すぎる少女の動きに対応できず、ポカンと間抜けに口を開いたまま硬直している。
どこまで飛んだのかは知らないが、受身も取れなかったらしくズコンと恐らく後頭部がぶち当たった音も聞こえてきた。衝撃で放心していたのかもしれない。

下の方から、クルーゼの「ニコル・ディアッカ、アスランを拘束しておけ」と命じる声も聞こえてくる。アスランが起したどさくさに紛れてニコルまでこちらに移っていたのだと、イザークはこの時初めて気づいた。個性的な緑の髪と、縦に長い体型の金髪が格納庫の隅に向かうのを見やり、深く頷いた。

正しい対応だな。
場違いなほど落ち着き払った声に、イザークは滅多に示さない心からの肯定を内心で呟く。事前情報があるので、キラの容赦ない拒否ッぷりを見ていても然程驚かなかったし、キラからアスランを遠ざけようとする命令には大いに賛成できたのだ。
恐らく面識があるような人間でなければ、この措置に疑問しか湧かないだろうが。
出会った時から驚かされてばかりなのだ、いい加減耐性もつく。

「降りるぞ」

隊長と話したいのだろう?

「うん」

でないとわざわざ捕まった意味がないからね。

会話の大半を省いて言葉を交わし、未だに固まったまま二人を凝視している周囲を無視して、イザークは極自然な動作でキラをクルーゼの元までエスコートした。
途中、ほんの一瞬だけ添えるように握った手に力を込められたのを感じたが、恐らく隊長が本人だとわかっての安堵だったのだろう。

低重力の中、真っ直ぐに隊長に向かう“他称・捕虜”に対して警戒態勢に入る周囲を下がらせ、自分も二人から数歩離れて控えると、ニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべたディアッカが野次馬根性丸出しで側に寄って来た。気絶したアスランはニコルに押し付けてきたようだ。

「もしかしてあいつか?お前がさっき変だった理由って」

疑問口調の癖に、絶対そうなのだろうと確信している顔だ。
それは間違っていないが、自分が悩まされていたあれこれを横から面白がられるのは非常に癪だった。

「勘繰るな、悪趣味だぞ。・・・あいつが何なのかは、許可が下りれば教えてやる」
「なんだよ、許可って・・・」

隊長ぐるみで内緒にしてんのか?
若干鼻白んだ様子を見せながら、ますます怪しい、と明らかに聞き出したがっているディアッカがいい加減鬱陶しくなり、一発顔面に入れてやろうと拳を握った時、

パァン!ガスッ!パシッ

非常に容赦のない平手打ちと裏拳が入る音が響いた。まさかクルーゼがやったのではと思ってみれば、キラの手をクルーゼが掴んでいる。

「お、往復ビンタ・・・」

隣でディアッカが呆然と呟いた。
小気味良く強烈な殴打音の元はキラが成したのだとわかるが、何故かした本人の肩が震えている。

「・・・キラ、」

おいで。

普段の行いからは考えられないほど甘く優しい声をうっすらと頬を赤く腫らした隊長が発し、彼女の腕を掴んでいた手を広げると、華奢な手が恐る恐る伸ばされ白い隊服の首元に抱き着いた。

「――だよね・・・?ちゃんと、いるよね?」

泣いているのだと解る嗚咽混じりの囁きが静まり返った格納庫に響く。身長差の為に爪先立ちになっている体をクルーゼの腕が抱き返す形で支え、仮面の男が何事かを囁いたかと思うと、今度は引き攣るように体を震わせて、

「っ、うわぁああああっ!!」

大声で泣き出したのである。

力一杯号泣する姿に赤子のようだと思うが、赤子は不安や不安のために泣くのだと思い出し、ならば違うかとこの状況を整理する脳裏で訂正した。
キラは少なくとも、そういう負の感情から泣いているのではないだろうから。

「・・・どういう関係?」
「後だと言ったろう」

キラのあまりの様子に笑い事ではないと察したのか、にやけ笑いを引っ込めて面食らったように目を丸くしているディアッカの質問をすげなく跳ね除け、二人を差す指を掴んで容赦なく捻ってやった。
人を指差すな、行儀の悪い。
兎も角、あのクルーゼの様子なら問題ないだろうと、隣で痛みに悶絶している同僚をよそにイザークは漸く肩の力を抜いた。

実際に会ってみなければ解らないと言っていたので、もしクルーゼがキラの探し人と違っていたらとんだ骨折り損になってしまうのだ。
具体的に誰の損になるのかはあまり考えたくないが。

(感動の再会、というところか?)

優しさなどからは縁遠いと思っていた上司に泣き縋る細身のシルエットをどこか遠くを見る気分で眺める。
この光景に導いた結果論として、キラとクルーゼ間の橋渡し的な役割を果たせたことを良かったのだと感じられた。

何故か、号泣を嗚咽に変えた彼女の背中を宥めるように撫でるクルーゼの手を視界に入れようとは思えなかったが。



































違和感は始めからあった。

キラ自身は元々敵艦に乗り込む覚悟で捕まったのに、自分をコックピットの外で向かえたのは数多の銃口ではなくここに連行してきた紅服で、しかも申し分け程度に配置された一般兵はストライクの周りを囲んでいても既に銃を下ろしていたのだ。

まるで、始めからそう指示を出されていたかのように。
戸惑いがちだが統一された光景に、じわじわと頭に血が上るのを感じた。

まさか、彼は自分がここに来ることを解っていてアークエンジェルの撃破命令を出していたのではないか。

飛んできたハエを叩いて――正確には蹴って――ほんの少しスッキリした後、事情を話したとはいえ捕虜に対して見せるには酷く丁重なエスコートをするイザークの仕草で、疑惑は確信に変わる。
途端に湧き上がってきたのは、例えようもない“何か”。もしかしたら手を握っていた紅服には気づかれたかもしれないが、構ったことではなかった。ちゃんと確かめるまでは、と自分を抑制することで精一杯だったのだ。

ザフトの白服。背筋をピンと姿勢良く伸ばし、降りていくキラを待つ姿。
柔らかくウェーブがかかる濃いめの金髪は先程見たものとそっくりだったが、白亜の戦艦内で見た時よりもやっぱり不快感は少ない。
シャープな頬のラインや薄い唇、尖った顎は記憶よりも幾分か痩せている。形良く整った鼻梁から上は、無粋な仮面に隠れて見えなかったが――
この人は、

キリキリと上がっていたボルテージが頂点に達し、正確な認識と同時にキラは利き手を振り上げた。

彼の前に降り立ってから、この間わずか1秒足らずの思考であった。




















































アスラン・ザラを見事に蹴り飛ばした時も感じていたことだったが、初手から往復ビンタとは非常に不本意ながら目の前の少女を任せることになった保護者兼教育係は彼女に予想以上の技量を与えていたらしいことを実感した。
三手目を辛うじて受け止めたクルーゼは、両頬の痛み具合で再会を果たした少女の技量を冷静に分析した。
腕の撓り、遠心力の使い方、裏拳での力の込め方、ツボをつくピンポイントな攻め方、手首のスナップ――どれを取っても申し分ない。

しかし、外面も内面も冷静でいられたのはそこまでで、じっと自分を見据える透明な紫紺の目からボロボロと零れ落ちる大粒の水晶のような涙に、目の前の細い肢体を包むために腕を広げていた。
もう、周囲に控える部下の存在も頭から消し飛んでいたのだ。

「・・・キラ、」

おいで。

名を呼ぶ声に情愛のみを込め、皆まで言わず招き寄せると、赤くなるまで噛み締めた唇を緩めて震わせ、記憶にあるよりも長くしなやかになった腕が伸ばされた。

「―――っ」

声にならない声で呼ばれ、涙に濡れた息が耳元にかかる。
うなじを滑る華奢な手に、首筋にすり寄る滑らかな頬に、きつく存在を実感させるように密着する細い肢体に、密かな深い満足感を得ながらその背を抱き締めた。

「――だよね・・・?ちゃんと、いるよね?」

嗚咽混じりの囁きが、耳元を擽った。ほんの微かな吐息まで余さず聞き取って、肯定する代わりに柔らかな鳶色の髪を梳く。

「私たちの繋がりは切れていないだろう?私はここにいるよ、キラ」

彼女にだけ聞こえるように小さな耳元に吹き込むと、ふるり、腕の中の体が震えて首に巻きつく腕に力が篭った。

「っ、うわぁああああっ!!」

幼い頃から余程のことがなければ声を上げなかった少女の号泣に、それほどまでに思われているのだという充足感と長く姿を晦ませていた罪悪感が胸中を満たす。

周囲の困惑とは別に種類の違う刺々しい視線が二つばかり刺さるのを感じながら、クルーゼは少女のこめかみにキスを一つ贈って、宥めるために小さな背中を撫でさすった。







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