蘇我越智娘
そがのおちのいらつめ

生没年 ?〜649(大化5年)
家 系 中大兄皇子(天智天皇)の嬪。蘇我倉山田石川麻呂の娘。
造媛
経 歴
644年1月,中臣鎌足は,蘇我氏の本宗家を倒す一助とするため,蘇我倉山田石川麻呂の長女を中大兄皇子の妃にしようと計った。ところが約束の日に,蘇我倉山田石川麻呂の異母弟,身狭臣がその女を奪ったため,蘇我倉山田石川麻呂が途方に暮れていたところ,進んで妃になることを申し出たのが,娘の越智娘であったという。
中大兄皇子との間に,1男2女を儲けた。大田皇女・う野讃良皇女健皇子である。
649年3月。父の石川麻呂が身狭臣の讒言により自殺。妻子や随身の者も数多く自殺した。
越智娘はその報に接し,悲しみのあまりに死んだという。

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