大和の歴史 争乱 系図

続日本紀 巻第二
大宝元年正月より大宝二年十二月まで

西暦 和 暦 月 日 出 来 事 備考
701 大宝元年 春正月一日 天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は,大極殿の正門に烏形の幡を立て,左には日像・青竜・朱雀を飾った幡,右側には月像・玄武・百虎の幡を立て,蕃夷の国の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
正月四日 天皇は大安殿に出御して祥瑞の報告を受けた。それは告朔の儀式と同じようであった。
正月十四日 来朝中の新羅の大使で薩キンの金所毛が卒した。あしぎぬ百五十疋・真綿九百三十二斤・麻布百段を贈って弔った。小使で級キンの金順慶と水手異常の者には,身分に応じて物を賜った。
正月十五日 大納言で少広参の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで,直広肆の榎井連倭麻呂らを遣わして葬儀を指揮させられた。直広壱の藤原朝臣不比等らを邸に遣わして詔を告げさせ,正広弐の位と右大臣の官を追贈された。御行は難波朝の右大臣で,大紫の位の長徳の子である。
正月十六日 皇族と百官に朝堂殿で,宴を賜った。直広弐以上の者には,特に御器の膳と,衣・裳を授け歓楽を尽くして終わった。
正月十八日 大射の礼をとりやめた。贈右大臣の喪中のためである。
正月二十三日 民部尚書で直大弐の粟田朝臣真人を,遺唐執節使に任命した。左大弁で直広参の高橋朝臣笠間を遺唐大使とし,右兵衛率で直広肆の坂合部宿禰大分を副使とし,参河守で務大肆の許勢朝臣祖を大位とし,刑部判事で進大壱の鴨朝臣吉備麻呂を中位,山代国相良郡令で追広肆の掃守宿禰阿賀留を小位とし,進大参の錦部連道麻呂を大録とし,進大肆の白猪史阿麻留・無位の山於億良を少録とした。
正月二十九日 直広壱の県犬養宿禰大侶が卒した。淨広肆の夜気王らをその邸に遣わして,詔を告げさせ,正広参の位を追贈された。壬申の乱の時の功績のためである。
二月四日 詔して初めて下物職を任命した。
二月十四日 釈尊を行った。
二月十六日 泉内親王を遣わして,伊勢の斎宮に侍らせた。
二月二十日 吉野離宮に行幸された。
二月二十三日 民官の戸籍を管理する史らを任命した。
二月二十七日 天皇が吉野から還られた。
三月三日 王親や群臣を東安殿に集めて,曲水の宴を催した。
三月十五日 追大肆の凡海宿禰アラ鎌を陸奥に遣わして,金の精錬をさせた。
三月十九日 僧の弁紀を還俗させて,代わりに一人を出家させた。弁紀に春日倉首という姓と,老という名前を与え,追大壱の位を授けた。
三月二十一日 対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて,大宝元年とした。初めて新令に基づいて,官名と位号の制を改正した。
 親王に与える明冠は,一品より四品までの四階,諸王に与える淨冠は,正一位より従五位下までの十四階,合わせて十八階とし,諸臣に与える正冠は正一位より従三位までの六階,直冠は正四位上より従五位下までの八階,勤冠は正六位上より従六位下までの四階,務冠は正七位上より従七位下までの四階,追冠は正八位上より従八位下までの四階,進冠は大初位上より少初位下までの四階,合計三十階である。
 外位は直冠の正五位上の位階より始まり,進冠の少初位下の位階で終わるまで,合計二十階,勲位は,勲一等が正冠の正三位の位階より始まり,勲十二等が追冠の従八位下の位階で終わるまで合わせて十二等である。そこで官人には冠を授けることをやめて,代わりに位記を授けることとした。詳しくは年代暦にある。
 また服装を定め,親王の四品以上と,諸王・諸臣の一位の者は,みな黒紫色,諸王の二位以下と諸臣の三位以上の者は,みな赤紫色,直冠の上位四階の者は,深緋色,直冠の下位四階は浅緋色,勤冠の四階は深緑色,務冠の四階は浅緑色,追冠の四階は深縹色,進冠の四階は浅縹色とし,皆それぞれ漆の冠,綺の帯,白色の襪,黒革のシタウズ(足袋),黒革のくつ,その袴は直冠以上の者は皆白色の縛口袴,勤冠以下の者は白色の脛裳とする。
 左大弁で正広弐の多治比真人嶋に正冠の正二位,大納言で正広参の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位,中納言で直大壱の石上朝臣麻呂と,直広壱の藤原朝臣不比等に正冠の正三位,直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。また諸王十四人と諸臣百五人については,それぞれの位号を改め,地位に応じて位階を昇進させた。
 大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ,中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日,中納言の官職を廃止した。
三月二十六日 丹波国で三日間地震が続いた。
三月二十九日 右大臣・従二位の阿倍朝臣御主人に,アシギヌ五百疋・絹糸四百ク・麻布五千段・鍬一万口・鉄五万斤と,備前・備中・但馬・安芸の諸国の田二十町を授けた。
夏四月一日 日蝕があった。
四月三日 次のように勅した。
 山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志神などの神稲については,今後は中臣氏に給付せよ。
四月七日 右大弁・従四位下の下毛野朝臣古麻呂ら三人を遣わし,初めて新令を講釈された。親王・諸王・諸臣をはじめ諸官の人たちは古麻呂らについて学習した。
四月十日 遣唐大通事の大津造広人に垂水君という姓を与えた。
四月十二日 遣唐使らが天皇に拝謁した。
四月十五日 幣帛を諸社に奉納して,名山・大川に雨乞いをした。田領を廃止し,その仕事を国司の巡検に委ねた。
五月一日 太政官は次のように処分を下した。
 諸王や臣下で五位以上の者の,出勤日については,所管の役所が月末に式部省へ転送し,その後式部省はそれを抄録し,太政官に申し送るようにせよ。
五月五日 群臣の五位以上に,端午の節句に行う騎射の走馬を出させた。天皇は臨席してそれをご覧になった。
五月七日 入唐使の粟田朝臣真人に節刀を授けた。天皇は次のように勅した。
 一位以下の官人に休暇を賜うのは,十五日を越えることはできない。ただし大納言以上の職にある者は,責任が重いのでこの限りに入らない。
五月二十七日 初めて勤位以下の位号を改正した。これと同時に,内官・外官とも六位以下の有位の者に位階一級を昇進させた。
六月一日 正七位以下の下道君首名に命じて,大安寺で僧尼令を講説させた。
六月二日 正五位上の忌部宿禰色布知が卒した。天皇は詔して,従四位上を追贈された。壬申の乱の功績のためである。
 この度,初めて内舎人九十人を任命し,太政官において整列・閲見を行った。
六月八日 次のように勅された。
 すべて官庁の諸務は,専ら新令に準拠して行うようにせよ。また国司や郡司が大税を貯えておくことについては,必ず法規のとおりにせよ。若し過失や怠慢があれば,事情に随って処罰せよ。
 この日,使者を七道に派遣して,今後,新令に基づいて政治を行うことと,また大租が給付される状況を説明し,合わせて新しい国印の見本を頒付した。
六月十一日 正五位上の波多朝臣牟胡閇と従五位上の許曽部朝臣陽麻呂を,薬師寺建造の司に任じた。
六月十六日 天皇は王親や側近の臣下を従えて,西の高殿で宴を催された。参会者には御器の膳と薄絹が,身分に応じて授けられた。
六月二十五日 時節の雨が降らないので,四畿内の国々に命じて,雨乞いをさせ,合わせてこの年の調を免除した。
六月二十九日 太上天皇(持統太上天皇)が吉野離宮に行幸された。
秋七月十日 太上天皇が吉野から帰還された。
七月二十一日 親王以下に勅して,官職の位階に応じて食封を与え,また壬申の乱の功臣に,それぞれの功績の程度に応じて,食封を与えられた。
 また次のように勅された。
 先朝(持統天皇)が,論功行賞を賜った時,村国小依に百二十戸,当麻国見・県犬養連大侶・榎井連小君・書直知徳・書首尼麻呂・黄文造大伴・大伴連馬来田・大伴連御行・阿倍普勢御主人・神麻加牟陀君児首の十人にはそれぞれ百戸,若桜部臣五百瀬・佐伯連大目・牟宜都君比呂・和尓部臣君手の四人にはそれぞれ八十戸を賜った。全部で十五人で褒賞に格差はあったが,同じく中功の等級である。今度,大宝令の功封条に従って,封戸の四分の一を,その子に相続させる。
 また,皇太妃・内親王・女王・嬪の食封にも,それぞれ格差があって支給された。
 この日,左大臣・正二位の多治比真人嶋が薨じた。天皇は詔して,右少弁で従五位下の波多朝臣広足・治部少輔で従五位下の大宅朝臣金弓らを遣わして,葬儀を指揮させられた。また,三品の刑部親王・正三位の石上朝臣麻呂を遣わし,嶋の邸に行かせ物を贈って弔った。正五位下の路真人大人は,公卿からの誄を述べ,従七位下の下毛野朝臣石代は百官からの誄を述べた。左大臣嶋は,宣化天皇の玄孫で,多治比王の子であった。
七月二十七日 太政官は次のように処分を下した。
 造営官は,職に准じ,造大安寺・造薬師寺の二官は寮に准じ,造塔・造丈六の二官は司に准ずるようにせよ。
 すべて官職に選任される人手,秦任以上の者は名簿を太政官に送り,判任以上の者は式部省が選衡して,名簿を太政官に送るようにせよ。
 また功臣の食封はその子に伝えるべきである。若し子がなければ他の者に伝えてはいけない。ただし,子がなくて兄弟の子を養子としている者には,伝えることを許す。功封を伝えられた人がまた子がなければ,さらに養子を立てて,それを受け継ぐことを許す。その世代の数え方は,まったく嫡子の場合と同じようにせよ。ただし,一世代離れた嫡孫を以て後嗣ぎとした場合は,功封を伝えることはできない。また五位以上の者の子は,蔭によって出仕できる。子がなくて兄弟の子が養子となった時は,叙位を許す。しかし一世代離れた嫡孫を後嗣ぎとする時は,叙位を許さない。
 また画工と主計・主計・主税の算師・雅楽寮の諸師などの類は,太政官の判任に准ずる。
八月二日 僧の恵耀・信成・東楼に勅して,ともに還俗して本姓に戻させ,その代わりに一人宛出家させた。恵耀の姓は録,名は兄麻呂,信成の姓は高,名は金蔵,東楼の姓は王,名は中文である。
八月三日 三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連博徳・伊余部連馬養らに命じて,大宝律令を選定させていたが,ここに初めて完成した。大略は飛鳥浄御原の朝廷の制度を基本とした。この仕事に携わった官人に,身分に応じて禄を賜った。
八月四日 太政官が次のような処分を下した。
 近江国の志我山寺(崇福寺)の食封については,庚子の年より数えると満三十年となっており,観世音寺(福岡県太宰府町),筑紫尼寺の食封については,大宝元年から計算すると,満五年になっているのでこれを停止し,食封に准じた物を施入するように。また斎宮司は寮に准じ,そこに所属する官人は,長上官の扱いとせよ。
八月七日  これより先に,大倭国忍海郡の人である三田首五瀬を,対馬嶋に遣わして黄金を精錬させていた。ここに至って詔を発して,五瀬に正六位上の位を授け,封五十戸と田十町,そしてあしぎぬ・真綿・麻布・鍬を与え,雑戸の名を免除し良民とした。対馬の嶋司と郡司の主典以上に,位を一階昇進させた。その金を出した郡の郡司には二階位を,金を発掘した家部宮道には正八位上を授け,合わせてあしぎぬ・真綿・麻布・鍬を賜った。宮道の戸には終身の,その郡の人民には三年間賦役を全免した。また贈右大臣の大伴宿禰御行は,最初に五瀬を対馬に遣わして,冶金をさせていた功によって,大臣の子に封百戸・田四十町を賜った。
注:年代暦には「後になって錬金のことは,五瀬の詐欺であることが発覚し,御行は騙されていたことが判明した」と。
 撰令所は次のように処分を下した。
 職事の官人に,禄が支給される日には,五位以下の者は皆大蔵省に出向いて,その禄を受けるようにせよ。若しそのようにしない者は,弾正台が糾弾して調べよ。
八月八日 明法博士を六道に派遣して,新令(大宝令)を講釈させた。
八月九日 皇親で年齢が十三に達した者は,任官していてもいなくても,みな禄を支給する数に加えた。
八月十四日 播磨・淡路・紀伊の三国が「大風と高潮のために,水田や園地が被害を受けました」と言上した。使いを遣わして,農業・養蚕の状態を巡察し,人民を慰問させた。また使いを河内・摂津・紀伊の国に遣わし,行在所を造営させ,同時に天皇の乗る船三十八艘を造らせた。予め水路の行幸に備えさせたのである。
八月二十一日 参河・遠江・相模・近江・信濃・越前・佐渡・但馬・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・長門・紀伊・讃岐・伊予の十七カ国に蝗の発生があり,大風が吹き人民の家屋が損壊し,秋の収穫に被害が出た。
 天皇は詔して,従五位下の調忌寸老人に,正五位上の位を賜った。律令の選定に関与したからである。
八月二十六日 高安城を廃止し,その建物や種々の貯蔵物を,大倭・河内の二国に移貯した。諸国に命じて衛士を増徴し,衛門付に配属した。
九月九日 使いを諸国に遣わして産業を巡察させ,人民に物を施して救済させた。
九月十八日 天皇は紀伊国に行幸された。
冬十月八日 天皇は武漏の湯に着かれた。
十月九日 行幸に従った官人と,紀伊国の国司・郡司らに,位階を昇進させ,合わせて衣服を寝具を与えた。また国内の高齢者に,年齢に応じて稲を給付され,紀伊国の今年の租・調,さらに正税の利息を徴収することがないようにした。ただ武漏郡についてのみ,正税出挙の元利とも返済を免除し,罪人もこの郡に限って赦免した。
十月十九日 天皇は紀伊から帰還された。
十月二十日 行幸に従った諸国の騎士についてはこの年の調・庸を,荷物の担ぎ手には田租を免除した。
十一月四日 全国に大赦を行った。ただし盗人は赦の対象から除外した。六十一歳以上の老人・病人・および僧尼にも,地位や程度に応じて物が与えられた。
十一月八日 初めて造大幣司を任命した。正五位下の弥努王・従五位下の引田朝臣尓閇を長官とした。
十一月九日 弾正台に命じて,機内の国々を巡察させた。
十一月十七日 太政官が次のように処分を下した。
 従来天皇の恩恵によって罪を赦す日には,慣例として,罪人たちを引き連れて,朝廷に集めて赦免した。今後は決してそのようにしてはならぬ。赦令が下ったならば,所司の官人に罪人を赦免させよ。
十二月十日 諸王・公卿らに,朝服に付随する袋の雛型を授けた。
十二月十五日 次のように制令した。
 五位以上の位をもつ者の夫人は夫の服色をつけてはいけない。ただし,朝儀に参会する日には,夫の位階に認められた服色以下のものなら着用を許す。
十二月二十七日 大伯内親王が薨じた。天武天皇の皇女である。
 この年,夫人の藤原氏(宮子)が皇子(首皇子)を産んだ。
702 大宝二年 春正月一日 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。親王と大納言以上の者は,初めて礼服を着し,諸王とそれ以下の者は朝服を着た。
正月八日 造宮職が杠谷樹の長さ八尋もあるものを献上した。
正月十日 初めて紀伊国に賀陀の駅家を設けた。(淡路に渡る港)
正月十五日 群臣を大極殿に集めて宴を催し,五常楽・太平楽を奏し,歓楽を極めて終わった。身分に応じて引出物があった。
正月十七日 第三位の大伴宿禰安麻呂を式部省の長官とし,正五位下の美努王を左京大夫に,正五位上の布施臣耳麻呂を摂津大夫に,従五位下の当麻真人橘を斎宮頭に,従四位上の大神朝臣高市麻呂を長門守に任じ,正六位上の息長真人子老・丹比間人宿禰足嶋の二人に従五位下を授けた。
正月二十五日 詔して,智淵法師を僧正に,善往法師を大僧都に,弁照法師を少僧都に,僧照法師を律師に任命した。
二月一日 初めて新律(大宝律)を天下に頒布した。
二月十三日 越後国に疫病がおこった。医師や薬を送って治療にあたらせた。
 この日,大幣を班給するために,駅馬を馳せて諸国の国造らを召集して入京させた。
二月十九日 諸国の大租・駅起稲・義倉と兵器の数量を記入した文書を,初めて弁官に送らせた。
二月二十日 諸国の国師を初めて任命した。
二月二十二日 甲斐国が梓弓を五百張献上したので,それを大宰府の用に充てた。
 この日,伊太祁曽・大家都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した。
二月二十八日 諸国の国司らが初めて正倉の鍵を授けられて任地に戻った。
三月五日 因幡・伯耆・隠岐の三国に蝗の発生で被害があった。
三月八日 初めて度・量を天下の諸国に頒布した。
三月十一日 正五位下の中臣朝臣意美麻呂・従五位下の忌部宿禰子首・従六位下の中臣朝臣石木・忌部宿禰狛麻呂・正五位下の菅生朝臣国鉾・従七位下の巫部宿禰博士・正八位上の忌部宿禰名代に,ともに位一階を昇進させた。
三月十二日 大安殿の鎮めを祭して大祓いをした。天皇は新宮の正殿に出御して斎戒し,幣帛を畿内と七道すべての諸社に頒布した。
三月十七日 大倭国に命じて,二槻離宮(多武峯の離宮)を修理させた。
越中国のうち四郡を割いて越後国の所属とした。
三月二十三日 美濃国多伎郡の民七百十六人を,近江国蒲生郡に移住させた。
三月二十七日 信濃国が梓弓千二十張を献上したので,それを大宰府に充てた。
三月十日 大宰府が所管の国の国司の掾以下の者と郡司らを自ら選考することを許可した。
夏四月三日 賀茂祭の日,民衆が集まって武器を執り,騎射することを禁じた。その国(山背国)の人々だけはこの限りでなかった。
四月八日 飛騨国が神馬を献じた。そのため天下に大赦をしたが,盗人だけは赦の内に入れなかった。その国の目以上の国司と,祥瑞を出した郡の大領には,それぞれ位一階を進め,身分に応じて禄を授けた。人民には三年間賦役を免除し,祥瑞をみつけた層隆観には,罪を免じて京に入ることを許した。(注:隆観は流罪にあっていた幸甚の子であった。
 また,すべての親王以下,畿内の有位者に物を授け,諸国に今年の田租を免除し,合わせて庸を半減した。
四月十日 従七位下の秦忌寸広庭が,杠谷樹の鉾のような根を持った八尋もある大木を献上した。使いを遣わして伊勢大神宮に奉納した。
四月十三日 詔して,諸国の国造をつとめる氏族を指定した。その氏族の名前は『国造記』に詳しくのせてある。
四月十五日 筑紫七国と越後国に命じて,采女・兵衛を選び任命し,貢進させた。ただし,陸奥国は除外した。
五月五日 次のように詔した。
 若し五世王が自分で訴訟することがあって,受理すべき場合は,特別に座席を与えて,そこで裁定するようにせよ。
五月二十一日 天皇は,従三位の大伴宿禰安麻呂・正四位下の粟田朝臣真人・従四位上の高向朝臣麻呂・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・小野朝臣毛野に詔して,朝廷の政治に参加させられた。
六月六日 大倭国の吉野・宇知(宇智)の二郡の人民の租税負担を免除した。
六月七日 上野国に疫病がおこり,薬を給付して救済した。
六月二十四日 従三位の大伴宿禰安麻呂を兵部省の長官に任じた。
六月二十八日 海犬養門に落雷があった。
六月二十九日 遣唐使らが去年九州から出航したが,風浪が激しくて渡海が困難であった。この時になってようやく動き出した。
秋七月四日 勅が出されて,親王が乗馬のまま宮門に入ることを禁じられた。
七月八日 次のように詔された。
 伊勢の大神宮の封庫からの物資は,神の御品である。神事にお供えするものにならって,みだりに汚すことのないようにせよ。
 また,山背国乙訓郡にある火雷神は,雨乞いをする度に霊験がある。大幣と月次祭の幣帛を奉ることにせよ。
七月十日 詔して,内外の文官・武官に新令を読み習わせた。美濃国大野郡の人,神人大が,蹄の八つある馬を献上してので,稲千束を与えた。
七月十一日 天皇は吉野離宮へ行幸された。
七月三十日 初めて大宝律を講義した。この日,天下の罪人を赦免した。
八月一日 薩摩と多ネ(種子島)は王化に服さず,政令に逆らっていたので,兵を遣わして征討し,戸口を調査して常駐の官人を置いた。出雲狛に従五位下を授けた。
八月四日 正五位上の高橋朝臣笠間を造大安寺の長官に任じた。
八月五日 駿河・下総の二国で大風が吹き,人家が壊れ,稲の収穫に被害が出た。
八月八日 倭健命の墓に落雷があったので,使いを遣わして鎮祭をした。
八月十三日 勅して五衛府の使部にも,兵衛にならって禄を支給した。
八月十六日 正三位の石上朝臣麻呂を大宰帥に任じた。
八月二十八日 勅して,伊勢大神宮の衣服料に神戸の調を用いさせた。
九月一日 日蝕があった。
九月十四日 次のように制令して。
 諸司の告朔の文書は,主典以上のものについての文書は,弁官に送付し,弁官がそれを取りまとめて中務省に納めよ。反抗した薩摩の隼人を征討した軍士に,それぞれ功績に応じた勲位を授けた。
九月十七日 駿河・伊豆・下総・備中の五国に飢饉が起きた。使いを遣わして救済した。
九月十九日 使いを伊勢・伊賀・美濃・尾張の五国に遣わして行宮を造営させた。
九月二十一日 従五位下の出雲狛に臣の姓を賜った。
九月二十三日 全国に大赦を行った。
九月二十五日 詔し,甲子の年の調べに漏れていて,現在姓を与えられている者で,忌寸以上の姓をもつ者は,すべて申し出るようにとされた。
冬十月一日 従四位下の路真人登美が卒した。
十月三日 これより先,薩摩の隼人を征討する時,大宰府管内の九神社に祈祷したが,実にその神威のお蔭で,荒ぶる賊を平定することが出来た。そこで幣帛を奉って,祈願成就に報いることとした。
唱更の国司らが言上した。
「国内の要害の地に,柵を建て,守備兵を置いて守ろうと思います」と。
これを許した。
諸々の神々を鎮め祭った。これから参河国に行幸されようとするためである。
十月十日 太上天皇が参河国に行幸された。そこで関係の諸国は,今年の田租を免ぜられた。
十月十一日 近江国が嘉禾を献上した。異なった畝の株が合体して,一本の穂をつけたものであった。
十月十四日 大宝律令をすべての国に頒布した。
十月二十一日 次のように詔した。
 さかのぼって上の曽祖父から,下は玄孫に至るまで,累代孝行を尽くす一家があれば,その戸の全員の税負担を免除し,家の門や里の入口に掲示して,義家として顕彰せよ。
十一月十三日 行幸は尾張国に到着し,尾張連若子麻呂と牛麻呂に宿禰の姓を授け,国司の守で従五位下の多治比真人水守に封十戸を与えた。
十一月十七日 行幸は美濃国に到着,不破郡の大領宮勝木実に,外従五位下を授け,国守で従五位下の石河朝臣子老に封十戸を賜った。
十一月二十日 行幸は伊勢国に到着し,国守で従五位上の佐伯宿禰石湯に封十戸を賜った。
十一月二十四日 伊賀国に到着,行幸の途中に通過した尾張・美濃・伊勢・伊賀の国の郡司と人民とに,位階や禄を身分に応じて賜った。
十一月二十五日 天皇は参河から帰還された。行幸に随った騎士の調を免除した。
十二月二日 勅して次のようにいわれた。
九月九日・十二月三日は,先帝の忌日である。諸司はこの当日には,政務を停止するようにせよ。
十二月六日 金星が昼間に見られた。
十二月十日 初めて美濃国の木曽路を開通させた。
十二月十三日 持統天皇が病重くなられたので,平癒を祈願して全国に大赦をした。また百人を出家・得度させ僧とし,畿内四カ国に命じて,金光明経を講説させた。
十二月二十二日 太上天皇が崩御された。遺詔に次のように述べられた。
「素服を着たり,挙哀をすることがないようにせよ。内外の文官・武官は任務を平常の通り行え。葬儀の儀礼については,つとめて倹約にせよ」と。
十二月二十三日 二品の穂積親王・従四位上の犬上王・正五位下の路真人大人・従五位下の佐伯宿禰百足・黄文連本実を,殯宮を造る司に任命した。三品の刑部親王・従四位下の広瀬王・従五位上の引田朝臣宿奈麻呂・従五位下の民忌寸比良夫を大殿の垣を造る司に任命した。
十二月二十五日 斎会を四大寺で行った。
十二月二十九日 太上天皇の遺体を仮に西殿の庭の殯宮に安置した。
十二月三十日 十二月晦日の大祓いを中止した。しかし東西の文部が祓詞を奏するのは平常の通り行った。

続日本紀

大和の歴史 争乱 系図

Aochan's Homepage