エレベーターを降りきったシンジとミサトは、床が進む廊下を進んでいる。目の前の自動ドアが開くと、気圧の差で風が吹き、シンジ達に吹き掛かる。

「いや〜ね。これだからスカート履きづらいのよね、ここ」

 ミサトはスカートと髪を抑えつつ、シンジを伺う。シンジはミサトの少し前で、突っ立ったまま書類を眺めている。

 シンジの荷物はエレベーターを降りたすぐの検問所で置いてきた。書類はその時に渡された、ネルフの機密書類だ。

 表紙には『ようこそネルフ江』と[Top Secret] の印字。さらに[For Your Eyes Only] と書かれた帯で、封を施されたその書類には、施設内部の見取り図と、ネルフの歴史のような物しか表記されていなかった。

 むろんそんな中に、シンジの気を引くような物は無かった。

「それにしても、リツコどこに行ったのかしら?」呟くミサト。「ごめんね〜〜、まだここなれてなくってさー」

 少々しつこい位にしゃべり続けるミサト。元々がそう言う性格なのか、それとも何か気まずい事があるのか。

「さっき、通りましたよ。ここ」

 パンフレットから目を離さないまま、シンジは淡々と答える。

「っ……だ、大丈夫、システムは利用するために有るんだから」

 シンジの返事に、詰まるミサト。どうやら後者らしい。

 口調は淡々としているシンジだが、表情はどちらかというと緩んでいた。内容はどうあれ、極秘書類などと名が付く物を手にしているからだろう。

 また先程のさながら戦場であった所を抜け、地下に入ってしまったので完全に安心してしまっていたのだ。







Neon Genesis Evangelion
あるいはこんな碇シンジ



第二話 初号機始動






『E計画担当の技術部一課、赤木リツコ博士、赤木リツコ博士。至急、作戦部一課葛城一尉まで、ご連絡をお願いします』

 連絡を請うアナウンスが、本部中に鳴り響く。

 それに反応し、紅い水から揚がったダイバースーツを着た金髪の女。次々と装備を外し、最後にゴーグルを外した後、ため息混じりにこう呟いた。

「……あきれた。また迷ったのね?」

 赤木リツコ。金髪だがれっきとした日本人である。ミサトが先程電話をかけていた相手であり、この特務機関ネルフの情報、技術の全てを統括する人物である。

 

 

 なおも徘徊を続けるミサトと、もはや読み終えた書類を小脇に抱え後ろを付いて歩くシンジ。と、その横手でボタンも押していないエレベーターが止まり、扉が開く。

「あっ、……リツコ」

 果たしてそこに乗っていたのは、この忙しい中ミサトに呼び出され、水着の上に白衣を羽織っただけのリツコであった。

 リツコはエレベーターのドア真ん中で構えている。

「何をしてるの?私たちには人手も時間も無いのよ。葛城一尉」

 ミサトはその顔に愛想笑いを張り付け冷や汗を流しながら、リツコの乗るエレベーターへと歩を進める。。

「ごめーん」

 ミサトに続いて、シンジがエレベーターへ乗り込もうとするが、ミサトとリツコがドアの真ん中で止まっているので、少し前で足を止めてしまう。

 どこかバツの悪そうな表情、何も無いのに辺りを見回してしまうシンジ。

「っ…ミサト」

 それに気が付いたリツコは、ミサトに促(うなが)しながら後ろへ下がる。

 ミサトは振り返り、シンジに手招きをした。それに気が付いたシンジは、二人の隙間をさっ、と通り抜けると一番奥に落ち着く。

「例の男の子ね?」

 シンジに目線を向け、リツコは問う。

「そう、マルドゥックの報告書によるサードチルドレン」

 答えるのは目線を向けられたシンジでなく、ミサトだった。会話の焦点であるはずの、シンジを無視した状態で、話を進める二人。

「よろしく、碇シンジ君?」

 リツコは握手を求めるように、手を差し出す。

 差し出されたシンジは、一瞬、助けを求めるようにミサトを見ようとする。が、やめる。

「あ、どうも……よろしく」

 と、小さくお辞儀をした。シンジはあまりスキンシップには慣れていない様だ。

 

 

 発令所、ゲンドウが机を離れる。

「では、後を頼む」

 個人用のリフトを操作しながら、冬月に声をかける。

「三年ぶりの親子の対面か……」

 リフトで降りていくゲンドウを眺めながら呟く冬月。その顔は好々爺の顔であった。だが時は動き続ける。

「副指令!目標が再び移動を開始しました!」

 オペレーター席から警告が発せられる。その声は緊迫感を増していた。

 冬月の顔が副司令の顔へと変わる。先程の好々爺はどこにも居ない。

「総員、第一種戦闘配置!」

 その掛け声は、開戦を意味していた。

 

 

『総員、第一種戦闘配置! 繰り返す、総員、第一種戦闘配置! 対地迎撃戦用意!』

 緊急事態を知らせる警報と共に、本部内に響く緊迫感の伴(ともな)う声。

 だが、

「……ですって」と、ミサト。

「これは一大事ね」そして、リツコ。

 二人には、いかほど緊張も伺(うかが)えなかった。

 シンジを引き連れた二人は、今ケイジへと続く物資搬送用の斜形エレベータを登っていた。

「それで初号機の方はどうなの?」

 ミサトが聞く。その口調はどこまでも軽い。

「初号機は、B型装備のまま冷却中よ」

 対してリツコは、事務的な口調で返答を返した。

「それ、動くの?まだ一度も動いたこと無いんでしょ?」

 どこか馬鹿にしたような、呆(あき)れたようなミサト。

「起動確率は0.000000001%、オーナインシステムとは良く言ったものね」

 歌うようにレイを9回繰り返すリツコ。自嘲のため息が混じっているようだった。

「あのね……。それって、動かない。って事?」

「あら失礼ね。ゼロじゃなくてよ」

「数字の上ではね……。まっ、どのみち動きませんでしたー。では済まされないわ」

 言葉の応酬がミサトの真剣な口調によって終わった。

「……あのー」

 それを見計らい、これまで蚊帳の外であったシンジが、控えめに声を上げる。

「ん?」

 ミサトは顔をシンジに向け、聞く体勢をとり促(うなが)す。

「あの…こんな所に父さん、居るんですか?」

 キョロキョロと薄暗い辺りを見回し、小さくなりながら尋ねるシンジ。物々しい雰囲気は少年の心を擽(くすぐ)るが、父親の職場としてはどこか工場の様な物を想像させた。

 答えたのは、リツコだった。

「ああ…。少し違うんだけど、先に見せたい物があるの。たぶんそこで指令……お父さんにも会えると思うわ」

「あ、そうなんですか」

 取りあえず納得するシンジ。その心中には、一体どんな物を見せてもらえるのだろう、という期待と、父との再会が遅れる事へのホッとした部分があった。

「あ…それと、さっきの放送は?」

 先程から気にしていたのだが、口を挟む機会が無く、そしてあまり聞きたくもなかったのだ。

 放送を聞いて思い出した、黒い巨人。

 決して忘れていたわけではない。気を失い、また建物の中で時間が過ぎていったので、現実感が遠のいていたのだ。

 そして戦闘配置や、対地迎撃などと言ったフレーズ。

 思い浮かんだのは、黒い巨人がここへ来るかもしれない、と言う事だった。想像するだけで溢れる恐怖、シンジはただの中学生なのだから。

「…それも、行けば解るわ」

 リツコはそうはぐらかした。

 

 

 広い部屋を満たした赤い水をボートで進み、たどり着いた巨大な壁、そして扉。その扉をくぐりケイジに入る三人。しばらく進んだ所で、ミサトとリツコは足を止めた。

 扉は自動的に閉じる。

 唯一の光源であった扉が閉まったことによって、ケイジは何も見えなくなってしまった。

「……あの、真っ暗ですよ?」

 シンジが控えめに問いを発する。

 と、どこかでスイッチを入れる音が聞こえ、一斉にライトが灯り、ケイジを明るく照らし出した。

「うっ」

 まぶしさに目を閉じるシンジ。薄目を開ける。そして次の瞬間目を見開いた。

「うわっ!何ですか!?これ!……顔?ロボット?」

 シンジの目の前には、紫色の巨大な顔があった。つり上がった眼と、額から生えた角は、まるで鬼を思わせる。

「いいえ、違うわ」と、リツコ。「人間の造り出した究極の汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン、その初号機。建造は極秘裏に行われた。我々人類の最後の切り札よ」

 その表情は誇らしげである。

 赤い水から胸より上を出した状態で固定されているエヴァ。その目前の鉄製の橋の様な所にシンジ達は立っていた。

「……これも父さんの仕事ですか…」

「そうだ」

 呟くシンジに狙ったようなタイミングで声がかけられた。その声は高圧的、そして威圧的。

 反射的に見上げるシンジ。

 エヴァの頭よりも、さらに高い所、ガラスで区切られた、ケイジを監視する様な所に男は居た。碇ゲンドウ、シンジの父親だった。

「久しぶりだな、シンジ」

 その口調は、再会を喜ぶようなものではなかった。

「父さん!………そうだね、久しぶりだね……」

 何故父がそんな高く離れた場所から、声をかけたのか解らないシンジ、だが思考はこれまで幾度も繰り返されたゲンドウへの考えと、昔の思い出へと飛んでいこうとしていた。

 ある思い出と言えば、捨てられた時、そして年に一回の墓参りの事位だったが…。

「……出撃」

 唐突にゲンドウの口から発せられる単語。

「えっ?」

「出撃!?零号機は凍結中でしょ?……まさか!初号機を使うつもり!?」

 問おうとしたシンジの声は、ミサトに遮られる。

「他に道はないわ」

 答えるのはリツコ。

 親子の対面。その場の主役であるはずのシンジは、まったく置き去りにされている。

「ちょっと!レイはまだ動かせないでしょ」と、そこまで言って詰まるミサト。「……パイロットが居ないわよ」

 その脳裏に一つの可能性がひらめいていた。いや、本当は気付いていた。だからこそシンジを今、ケイジに連れてくる事に疑問を感じる事が無かったのだ。

「今届いたわ」

 リツコはそのミサトを真っ直ぐに見、返す。

 シンジはその場にいる三人の大人の顔をキョロキョロと見回し、そして冷淡なゲンドウの顔で止まる。がしかし間に立つガラスが、赤いサングラスが、その視線を冷たく跳ね返した。

「マジなの?」

 ミサトの問いを無視するかのように、そして肯定するかのようにシンジの背を見るリツコ。

「……碇シンジ君」えっ?、とシンジが振り返る。「貴方が乗るのよ」

「?なん…」

「ちょっと、レイでさえもシンクロするのに7ヶ月もかかったのよ!?、今来たばかりのこの子には、とても無理よ!」

 訳の分からないシンジは、当然聞き返す。が、またもやミサトに遮られた。

「座っていれば良いわ。それ以上は望みません」

 熱くなっているミサトに、淡々と返すリツコ。

「今は使徒の殲滅が最優先事項です」さらに畳みかけるリツコ。「そのためには誰であれ、エヴァとわずかでもシンクロ可能と思われる人間を乗せるしかないわ。解っているはずよ。葛城一尉」

「……そうね」

 現在の状況を思い出させる、その醒めた声にミサトは了承(りょうしょう)を返した。これからする事への罪悪感からか、その表情は苦渋に満ちていた。

 一方当事者であるはずのシンジは、これから一体何が起こるのか、全く解っていない。疑問は事の発端(ほったん)であり、この場では一番親しいはずのゲンドウに向いた。

「父さん、一体どういうこと?」

「お前の考えている通りだ」 

 ゲンドウはまるでシンジの考えている事を、全て解っているかの様に返した。

「なに?どういう事?僕は父さんに会いに来ただけだろ?」

 しかしシンジは本当に何も解っていない、といった様である。……いや、本当は解っているのかもしれない、心底否定しているだけで。

「……エヴァに乗って、奴を倒せ」

 ’エヴァ’と’奴’と言うフレーズに、シンジの脳裏に恐怖が再び帰ってきた。ミサイル攻撃にも平然と歩みを進めていた、黒い巨人の姿が。

「えっ?……だ、だって、さっき爆弾で…」

 シンジの記憶はそこで止まっている。だが、大型ミサイルの直撃を受けても、平然と立っていた黒い巨人の姿も憶えている。

「N2は効いていない」簡潔なゲンドウの答え。「後数分もすれば、また活動を再開するだろう」

 その言葉はシンジの恐怖を、焦りをさらに募らせた。

「そ、そんな!N2って、核兵器並の爆弾なんでしょ?それが効かないなっ」

「もう一度だけ言う。エヴァに乗って奴を倒せ」

 ゲンドウはシンジの言葉を遮り、さらに追いつめる。

 シンジの頭をよぎるのは、ジープの頭上を横切ったミサイル。後ろで落ちて行った戦闘機。上がった爆発音。そして乗っていたであろうパイロットの結末。

「いやだ!!どうして僕がそんな事しなくちゃいけないのさ!?」

 遅れてきた恐怖に、シンジは自分の身体を抱きしめ、目をギュッと閉じながら叫んだ。

「お前が適任だからだ」

 だがゲンドウは一切の動揺も無く、シンジを見下ろしている。

「何がだよ!僕は父さんにっ!」

 シンジはほとんど踞(うずくま)った状態で、呻(うめ)くように叫んだ。

「エヴァはある特性を持った、人でないと動かせないの」

 このままでは埒(らち)があかないと見て、リツコはシンジの側に近寄り肩に手をかける。

「……どんな?」

 人のぬくもりに、少し落ち着いたシンジは、少しだけ冷静になれた。その体勢は変わらない物の、ゆっくりと顔をリツコへと向ける。

「……それはよく知らないわ。ただ、マルドゥック機関……パイロットを選出するために機関があるの。貴方はそれに選ばれたのよ」

 リツコはシンジの顔を少しのぞき込むようにしながら、話しかけた。

 その視線がほんの少しずれていた事に、気付く余裕はシンジには無かった。

「…だからって、……だからってどうして僕が乗らなくちゃいけないんですか……?」

 静かに、怯えながらリツコに尋ね返すシンジ。その視線はもう床を向いていた。この状態で目を見返して会話ができる度胸はシンジには無い。

「エヴァで無ければ、使徒は倒せない。人類の存亡はお前の肩にかかっているのだ」

 返事は頭上から返ってきた。リツコとのやり取りを無言で見下ろしていた、ゲンドウである。

 びくり、とするシンジ。

「知らない……、そんなの知らないよ!それに……それにこんな見るのも初めての僕に何しろって言うのさ!!」

 ゆっくり顔を上げ、立ち上がりながらゲンドウに怒鳴り返す。

「説明を受けろ」

「受けたからってどうなるんだよ!!」

 真っ直ぐゲンドウをにらむシンジ。その瞳は潤み、今にも溢れてきそうであった。

「乗るなら早くしろ。…でなければ、帰れ!!」

 叩き付けるように言い放つゲンドウ。その言葉にシンジは目を見開き、ゲンドウを見上げる。

「……僕はこんな事をするために来たんじゃない……」

 そしてゆっくり俯(うつむ)くと、その手を握りしめ、呟いた。

 と、その時ケイジに大きな振動が伝わってきた。

「奴め……。ここに気付いたか」

 ゲンドウは天井を見上げ、この振動が何を表しているか解っている様に、忌々しそうに呟く。

 振動を感じながらも、俯いたままのシンジ。

「シンジ君、時間がないわ」

 焦りが見え始めたリツコは、シンジをせかす。その口調はどこか乗る事が当たり前、もしくは決定事項のようである。

 シンジは怖々とリツコを見、そしてこの場で唯一自分の味方の様に感じたミサトを振り向いた。

「乗りなさい」

 だがその期待も呆気(あっけ)なく破れる。ミサトもまたそれが当たり前かの様に、命令したのだ。

 再び俯くシンジ。ここにシンジの味方は居なかった。

 その様子をみたミサトは、横からのぞき込み話しかける。

「だめよ、逃げちゃ。お父さんから……何より自分から」

 しかしそれは今シンジの置かれている状況を、何も理解していない言葉だった。

「なにがだよ!、なに訳の分からない事言ってるんだよ!!」

 

 

 その様子を上から見ていたゲンドウは、端末を操作し発令所へ通信を繋げる。

「冬月…レイを起こしてくれ」

「使えるのか?」

 画面に映った冬月が、困惑気味に返す。

「死んでいるわけでは無い」

「……解った」

 と、画面の表示が『SOUND ONLY』の文字だけになる。

「レイ」

 ゲンドウがその画面に話しかける。

「……ハイ」

 返ってきた返事は、消えかけた蝋燭の様なか細い物だった。

「予備が使えなくなった、もう一度だ」

 だがゲンドウはこれまで通り威圧的で冷淡な態度を崩さない。

「……ハイ」

 蝋燭は今にも消えそうだった。

 

 

「初号機のシステムをレイで書き直して。再起動」

 ゲンドウの動作が解ったかのように、リツコが宣言し、シンジから離れて行く。

そしてミサトもまた、離れて行く。その様子はまさに、使えない者は捨てる、と言う非情なものだった。

「そうだよ……ここはネルフなんだろ!?、他に人いるんでしょ!?、ねぇ葛城さん!!」

 俯いたまま呟くように、そして叫ぶようにシンジ。

「……ええ、居るわ……」

 シンジの声に、背を向けたまま立ち止まるミサト。

「なら、その人が行けば良いじゃないか!どうし!」

 唐突に止まる、シンジの叫び。

 シンジの視界に、体のいたる所に包帯が巻かれた少女が移動ベットに乗せられやって来るのが見えたからだ。

「あの人は!?」

 シンジに嫌な予感がよぎった。顔をベットに向けたまま、答えを求める。

「……」

 沈黙で答えるミサト。

「ねえ葛城さん!」

 その沈黙にシンジの予感はさらに募った。いやほぼ確信になった。

 そしてミサトを振り向きさらに答えを求める。否定して欲しいがために。

「あなたが言った、他の人よ。今ここに居るパイロットは彼女一人よ」

 振り返りシンジを睨むようにミサト。

 シンジにはその表情が、あなたが乗らないからだと、責めている様に感じられた。

 事実ミサトは責めていた。

 だが、それでも自分から進んで乗らなくては、等という思いは沸いてこない。

「そ……そんな!」

 目を見開き、もう一度ベットを振り返るシンジ。

 その時、前にも増して激しい振動が伝わってきた。

「わっ!」

 何も予想していなかったシンジは、その激しい振動に敢え無く尻餅をつく。

「危ない!!」

 こけそうになり、手すりに掴まりながら、そう叫ぶミサトの視線の先には、真っ直ぐシンジに向かって落ちて行く、吊り式の巨大な照明器具があった。

 反射的に上を見上げ、手で頭を守るシンジ。逃げると言う発想も、その程度ではどうにもならない、と言う事も解らないほどパニックを起こしていた。

 まさにシンジが潰されると思った瞬間、照明器具が全く違う方向へ跳ね飛んだ。

 跳ね飛んだ照明器具は、ゲンドウの目の前の強化ガラスに激突し、罅(ひび)を走らせると、落下、赤い水を飛沫とあげた。

 強化ガラスによって守られたとは言え、巨大な照明器具が猛スピードで飛んできたと言う、普通なら腰を抜かしてもおかしくない状況で、ゲンドウはニヤリと笑った。

 その状況を喜ぶかのように。

『エヴァが動いた!?どう言うことだ』

 スピーカーからの焦りと驚愕が混じった声が、流れてきた。

 そう、潰されそうになったシンジを助けたのは、動くはずのないエヴァであった。

『右腕の拘束具を引きちぎっています!』

 エヴァは、手をシンジを守るかのように差し上げた状態で止まっている。

「そんな!エントリープラグも挿入していないのよ!?、動くはず無いわ!」

 リツコはシンジと同じように腰を付けながら、驚愕のあまり叫んでしまう。

「インターフェイスも付けないで反応した?いえ、守ったというの!?、彼を!………いける!」

 手すりにしがみつく事で、何とか転ぶ事を免れたミサト。

 ミサトもまたリツコと同じように驚愕していた。その顔は喜びで満ちていた。だが彼女は憶えていないのだろうか、シンジが乗らないと言っていたことを。

 突然の危機に呆然としていたシンジは、自分が助かった事に気付き、そしてついさっきまで見ていた、少女の事を思い出した。

 少女は先程の衝撃で足が折れたベットから投げ出され、金属製の床に横たわっていた。

 ベットの回りに居た、白衣を着た医者や看護婦の様な者達はそれでも、ベットを倒すまいとこらえたのだろう、人によってはベットの下敷きになっている。

 倒れていた医者達は頭を振りながら立ち上がり始めた。そしてベットから投げ出されていた、少女の様子を調べ始める。

 近くまで走り寄り、しかし何か出来るわけでもないシンジは、その様子を見る事しか出来なかった。

 そこでシンジは少女が乗っていたベット、そして投げ出されていた床に血が滲んでいる事に気付いた。少女の胸が激しく上下している事にも。

 明らかに少女は傷を負っていた。

 大人達はこの少女を乗せようと言うのだ、自分が乗らないから、と。

 もはや逃げ道はどこにも無かった。

 再び俯くシンジ。手を握りしめ、唇を噛む。

「……乗るよ……僕が……僕が乗れば良いんだろ!!」

 呟き、そして叫ぶ。罅(ひび)の入ったガラスの向こうのゲンドウを睨み付けながら。

 その投げやりな、そして諦めの含んだ叫びを聞いたゲンドウは、ニヤリと笑った。これがシンジの父親だった。

「シンジ君…」

 シンジは、そう呟いたミサトを睨(にら)んだ。ミサトの哀れむような、気を使うような呟きが癪(しゃく)にさわった。

 その視線にミサトはただ心を痛めるだけだった。乗れと自分で命令しておきながら。

 

 

 シンジはたいした説明もないまま、エヴァのパイロットルームだと言われ、大きな筒の様な物、エントリープラグに乗り込んだ。

 そして背を丸めるように俯き、目を閉じ、黙り込んだ。

『冷却終了』

 スピーカーから作業の行程を告げる声がケイジに響く。

『右腕の再固定完了』

 先程差し上げていた、エヴァの右腕がそれまで固定されていた場所に戻っている。

『ケイジ内、すべてドッキング位置』

 その全ての声がシンジには、自分を生け贄に差し出すための呪文の様に聞こえた。だから耳をふさいだ。これ以上聞きたくなかったから。

 エヴァの脊髄の辺りに差し込まれていた、大きな十字架のような物が取り除かれる。

「停止信号プラグ排出終了」

 全ての行程を確認しながら進んで行く作業。

『了解、エントリープラグ挿入』

 声と共にクレーンの様な物でシンジの乗ったエントリープラグが動き出す。

 そして先程停止プラグが差し込まれていた穴に向かって差し込まれる。プラグ全体の8分ほど差し込んだ所で、クレーンが離れて行く。するとプラグは自動的に、捻り込むように先端部分まで差し込まれた。

『プラグ固定終了』

『第一次接続開始』

 声と同時に殆ど真っ暗だったエントリープラグの中が、明るく照らし出された。耳を押さえていたシンジが、はっ、とあたりを見るとすぐ近くに壁があるだけだった。

「エントリープラグ注入」

 発令所に一つの声が流れた。その後ろでミサトは作業を見守る。

 

 

 命令と同時に、シンジの足下から少し色の付いた水が溢れてくる。

「なっ、何!?、これ!」

 驚いたシンジは尋ねながら、逃げようとするが、パイロットシートに備え付けられた、足を固定する器具がじゃまで立ち上がる事すら出来ない。恐怖がシンジを襲う。

『大丈夫、肺がLCLで満たされれば直接血液に酸素を取り込んでくれます。すぐになれるわ』

 返すリツコはそれが何であるかを告げるが、シンジは殆ど認識できる状況では無かった。

 息を吸い込みしばらく耐えながら、目を見開き手で水面を探るように差し上げ振り回すが、恐怖に一分も耐えられず空気を吐き出してしまう。

「ーーーーーーーーブブッ。ガバッゴボッ。ーーガボッゲボッ」

 涙を流し、肺の中の空気を咳き込みながら吐き出すシンジ。しかし液体の中なので、それは誰にも伝わらない。だがその姿は間違いなく溺れている者の姿だ。

 リツコの前に座っている女性オペレーターが振り返るが、リツコの態度は変わらない。女性オペレーターは仕事へと戻った。

『目を開けなさい、シンジ君』

 シンジが目を閉じている事に気付いたリツコが計器を見ながら冷淡に告げる。

 クビを小さく横に振るシンジ。未だに咳き込みはおさまらない。

『そんな状態じゃ何も出来ないわよ』

 そう言われ渋々目を開けるシンジ。不思議なことにそれほど痛みなどは無かった、視界がぼやけることは否めなかったが。それを確かめたシンジはまた目を閉じた。出来るだけこの場から逃げたかった。

「あ゛…う゛…」

 発声。確かに息は出来る。声も出せる。でも胸が痛い。喉が気持ち悪い。ソレがシンジの感想。

『どうしたの?』

 喉を気にしている様子のシンジに尋ねるリツコ。

「の…喉が…気持ち悪い」

『我慢なさい!男の子でしょ!!』

 ソレを聞き止めたミサトが無責任に言う。

「っ………ううっ!!げぉ、うぅう」

 と、シンジが目を見開き口を両手で覆った。これまでも青かった顔が、さらに青くなって行く。

『シンジ君!?、……っ!』

 異変に気付いたリツコが、声を掛ける。同時に原因に気付いたのか、コンソールに飛びつく。

するとプラグ内のシンジの肘の辺りの小型のハッチが開く。

『今開けた所のマスクを口に当てなさい!』

 シンジは縋り付くように、ハッチからチューブの付いたマスクを引きずり出し口に押し当てる。

『どうしたの!?』

 ミサトは事情が解らす、解ったのであろうリツコを振り返る。

『どうやら、胃の内容物が逆流したみたいね。危うく気管に詰まるところだわ』

 ミサトの視線の先にあるモニタには、強制的に内容物を吸引され、悄然(しょうぜん)となっているシンジが映っていた。

 

 

 そんな状況でも作業は黙々と続けられる。

『主電源接続』

『全回路動力伝達』

 作業工程を告げるフレーズは、次の段階へと進む事を告げていた。作業人員が押し黙る。次の段階へのプレッシャーがそうさせた。

「了解」

 女性のオペレーターが答えた。

「第二次コンタクトに入ります」

 それに答えリツコは、最も重要な段階へと進む号令を下す。

「A10(エーテン)神経接続異常なし。ただしパイロットに極度の緊張が見られます」

 オペレーターが告げる、シンジの状態。

「シンジ君、落ち着きなさい。まだ何もしてないわよ」

 反応するのはミサト。その口調は命令的で、押しつける物を臭わせた。

『………』

 もはや答える事も出来ないシンジ。ただ俯き、手を握りしめるだけだった。

「思考形態は日本語を基礎原則としてフィックス。初期コンタクトすべて異常なし」

 リツコは横目でミサトの行動を見ながら、作業を進めて行く。モニタには作業の進みを示すように、ラインが繋がって行く様がビジュアル的に表示されている。

「双方向回線開きます」

 オペレーターがそう言うと共に、ぼんやりとしていたシンジの視界に変化が訪れる。エントリープラグの内側を灰色や七色の光り等が幾度も這った。

 ゆっくりと、と顔を上げるシンジ。

 最後にケイジを映し出し、変化は終わる。

 それはLCLと言う、液体で満たされた空間であるにも関わらす、普段通り、いや普段より鮮明に辺りをシンジの視覚へと送り込んできた。

 同時にシンジはシートに座っているようは、何かに立ったまま固定される様な異様な感覚を感じた。

『っ……』

 尋ねようかと口を開きかけるが、結局何も言わない。

 今ここに居る誰とも話したくない。それはシンジのちっぽけな意地だった。

「シンクロ率、39.7%」

 作業の要点に達していて、その結果に皆が集中していたため、そんなシンジの動きは誰も気付かない。

 シンジは痛む胸を押さえながら、これで終わることを願っていた。だがそれはこの場では、甘い願いでしかない。

「すごいわね……」

 リツコが呟く。普段は冷静沈着と行動しているリツコをして、呆然とせしめる結果だった。

「ハーモニクス全て正常値。暴走……ありません」

 オペレータがその他の結果を報告する。

 暴走、それはつい数ヶ月前に起こった事故だった。それが起きなかった事に、オペレーターを始め作業に携(たずさ)わる全ての人員が胸をなで下ろした。

「いけるわ」

 そしてリツコはミサトを振り返る。ミサトは腕組みをしたまま、頷くと広い発令所に響くように宣言した。

「発進!準備!」

 その宣言と共に、ケイジ内が再び動き出す。

『発進!準備!』

 宣言の復唱。それはシンジに現状の否定を許さない、誤認だと思うことすら許さない。

 そう、これから発進するのだ戦場へ向けて。もはやシンジは項垂(うなだ)れ、全てに流されるしか無かった。

『第一ロックボルトはずせ!』

 エヴァの肩を固定していた巨大なボルトが、回転し抜けて行く。

『解除確認』

『アンビルカルブリッジ移動開始』

 つい先程シンジやミサト達が立っていた橋が、動きだしエヴァから離れて行く。

『第二ロックボルトはずせ』

 幾重にも成された拘束が解けて行く。

『第一拘束具除去』

『同じく、第二拘束具を除去』

 エヴァの左右の腕を前後から固定していた、巨大な2枚の壁の前部が離れる。

『一番から15番までの安全装置を解除』

 ついにエヴァを固定する物は、左右の腕を後ろから支える壁だけになった。

『内部電源充電完了』

『外部電源用コンセント異常なし』

「了解、エヴァ初号機、射出穴へ」

 固定されたエヴァが立っている床。それがそのまま動き出し定位置へと移動する。

 するとエヴァの頭上の扉が上へ上へと、次々と開いて行く。それはエヴァを高速で地上へと送り出す、リニアレール式の射出穴。

「進路クリアー。オールグリーン」

 オペレーターの目の前では、エヴァがこれから進む射出穴に障害物が無いことを示すランプが灯って行く。

「発信準備完了」

 そして全ての準備が終了した事を、この場の総轄(そうかつ)者であるミサトへ口頭での報告を行う。

「了解」

 全ての手順をまるで睨み付けるかのようにしていたミサトは、完了の報告と共に腕組みを解き発令所の一番高い所、ゲンドウを振り仰ぎ、問う。

「かまいませんね」

 ゲンドウへの確認。それはミサトの逃げ場なのだろうか。何も知らない少年を、今最も死に近い場所へと投げ出すことからの。

「もちろんだ。使徒を倒さぬ限り、我々に未来はない」

 ゲンドウは肘をつき、手を口元で組んだいつものポーズを崩さずに答えた。その答えに迷いは感じられない。

「碇……。本当にこれで良いんだな?」

 傍(かたわ)らに控える冬月が、真っ直ぐモニタを見ながら最後の、本当の最後の確認を取った。

「………」

 ゲンドウは沈黙で答える。その口元はニヤリと人を嘲るような笑みを浮かべていた。

「発進!!」

 そのミサトの号令と共に、エヴァが射出穴へと凄まじいスピードで吸い込まれて行く。

 助走も無しにほぼ最高速度へと達するリフト。それは空母に搭載されているカタパルトに匹敵する、もしくはソレをも上回るGを生み出す。

『くぁっ』

 なんの心構えも無く未だに力の入っていなかったシンジは、その急激なGに声も出せない。

 地上では道路のど真ん中に四角く区切られた部分が、左右に開きエヴァを迎えるための終端レールを差し上げる。と、エヴァが凄まじいスピードで昇ってくる。そして終端でガキリッと停止する。その衝撃にギシリとレールが悲鳴を上げ、振動が地面へと伝わる。

 ほんの数秒で地上へと姿を現した紫の巨人、エヴァ。そして対面には黒い巨人、使徒。

「死なないでねシンジ君」

 ミサトは向かい合うエヴァと使徒を映した主モニタを見つめながら呟いた。

 今一人の少年の元に、世界を賭けた戦いが始まろうとしていた。













次回 覚醒した意識

少年はその時何を思うのか



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