河南省「古代文字の源流を尋ねて」
太古の昔 蒼頡という人が ある日鳥の足跡に天啓を得て文字を作ったという、そんな古代文字に魅せられ中国は河南省を尋ねた。
訪問地 上海ー鄭州ー安陽ー洛陽ー開封ー鄭州ー上海
訪問時 平成15年10月17日〜24日
10月17日関西空港 NH155便に搭乗10:40発 上海に11:55(日本時間12:55)着 2時間余り、北海道へ行く程度でお隣の国に到着。新空港から旧空港へバスで1時間、チェックが厳しくなった通関で少々時間がかかり15:00上海から鄭州へ1時間半あまり、
こうして旅は始まった。
翌18日 甲骨文字発祥の地、殷の都 安陽へバスに揺られて花園路を北へ280キロ 3時間の旅に出発!ブーブッブッ!近くの車や自転車、人を掻き分けるように走る。黄河を渡る橋は ナンと5キロ、広い所は13キロもあるそうな。日本では考えられない、やはり広い国だと痛感する。黄河は9つの省に跨り チベットから山東省まで5,464kもあり、毎年のように洪水があったが最近はダムが出来 改良されたそうです。 | |
安陽は 人口102万人の都市で 只今世界遺産申請中の殷墟がある。 |
亀の甲羅と獣骨 甲骨が重なり合うように沢山発掘された。殷王朝の時代に亀の甲羅や牛・羊の肩甲骨を火で焙り それによって生ずるひび割れの形で吉凶を占った。その内容が彫り込まれたのが甲骨文字である。 |
19日鄭州から洛陽へ、途中堰師まで110キロ 堰師博物館で最近発見されたという 顔真卿の「郭虚己墓誌銘」を見る。40歳頃の書ということであったが所謂 顔法と言われる書体は所々に見えるが若々しく伸びやかで美しい楷書体である。 |
中庭にはまだ未整理の碑や墓誌銘など 無造作に置かれていた。 |
20日 8:30出発 バスの中で久野美樹先生の説明を聞きながら龍門石窟へ、
中国全土には 仏教石窟が数百もあるが 敦煌、雲崗、龍門の三石窟がとび抜けて多い。龍門石窟は洛陽から南へ13キロの龍門口にあり 北流する伊水を挟んで岩山が東西に屹立している。その様子が天然の門戸(闕)に似ているので伊闕とも呼ばれた。
龍門石窟の入り口に掲げられた郭沫若の書 1959.8.
右側 龍門山(西山) 左側が香山(東山) 東西両山の峭壁に南北1キロにわたり切り開かれている。その造営は北魏、東魏、西魏、北斎、北周、隋、唐、五代、北宋と400年余にわたっている。石窟は東西合わせて1352ヶ所、石龕(せきがん)750ヶ所、窟龕の総数2102ヶ所といわれている。
古陽洞は 龍門西山の南部にあり 龍門石窟中 最も早くに造られた。 奥行き約13.5メートル、横6.9メートル、高さ11.1メートルのドーム型になっている。 中央に釈迦牟尼仏像、左右に脇侍菩薩、獅子を配している。 龍門20品中 19品がここにある。 |
古陽洞 右側入り口より始平公、魏霊藏、その上に牛ケツ、その上元詳、魏霊藏の奥に楊大眼、比丘恵感、その上一弗 |
天井いっぱいの造像を見上げて約1時間 首が凝って疲れましたが 幸せな時間を過ごせました。 |
北魏比丘慧成造石窟石像記 (始平公) 亡父始平公の為に石像を造った 碑の最後に 太和22年9月14日完成 孟達の文 朱義章書とある |
北魏長楽王丘ボク陵亮夫人造弥勒像記 (牛ケツ) 太和19年11月丘ボク陵亮夫人尉遅(うつち)が亡き 息子牛ケツの為に工人に依頼して石を 彫り弥勒像一体を造らせた |
北魏孫秋生等二百人造像記 太和7年 新城県の功曹の孫秋生、劉起祖ほか200人が 敬んで石像一躯を造る 願文の後名前が 列記されている孟広達文 ショウ顕慶書とある |
その日の午後 河南省重点文物保存「水泉石窟」へとバスはひた走る。つい最近洪水の為 1ヶ月も停電が続き 家の中に閉じ込められていたという村への道はガタガタになり少し道に迷って 思いがけない時間が掛かった。村へ到着した頃は夕暮れ近く少し薄暗くなりつつあったが 石窟で拓本を取らせてもらったり 村の子供たちと交流する人もあった。 人々は素朴で この景色と同じ とってもステキな所でした。何と長閑な時間が過ぎていることか、中国も雑踏の中の街があれば 数時間でこんなにも違った村もあり 又一つ 魅力いっぱいの国を見たように思う。 |
バスの中から見た道路に掛けられていたり 空港でも見かけたこの看板 簡体字ですが「溝通従心開始」誠心誠意で話し合う、本音で意見や考えを交し合う事だそうですが 私が気になったのは この中の「従」の文字、甲骨文字で人が2人で従になる。今もこの文字が生きている!何だか古代に戻ったような気になったのは私達 漢字普及委員だけかも知れませんが・・・ |
もう一つ この文字は空港へ降りてバスを待つ間 車の横に書かれていたのを見た時 おお〜!っと思ってしまいました。 この看板は 夜街を歩いていた時見つけたものですが「大衆賓館」と書かれていたもので 人が3つで「衆」 こうして見ると簡体字(簡略字体)も面白い!草書体風に作られている文字や文字の一部分を省略したものは まぁ判るけれど 全く判らないのもある。勿論原則があって作られているので 勉強する必要がありそうだ。 この「衆」は 漢字普及では人の形から生まれた文字の講座の中で 立っている人を横から見た形から出来た文字「人」から「比」「北」「背」などと会意文字や形成文字が出来た話をしているが その時「従」「衆」の説明もしている。「衆」は目と人3つを組み合わせて出来た形で 目は甲骨文字では□(い)の形で □は都市をとり囲む高い囲い、城壁です。この中に多くの人々が居たという意味で「衆」は大衆という事なのです。こんな風に考えると漢字も面白いですね |
21日は洛陽郊外にある 唐代の墓誌銘が1000以上集められている「千唐誌斎」、鞏県石窟を見学。2時間半バスに揺られて開封へと進んだ。
22日 開封では 龍亭公園、相国寺、鉄塔、繁塔などを見学。 鉄塔は55種類の仏像の模様があるレンガ造りの塔で 鉄の色をしているので鉄塔と呼ばれている。中はラセン階段で168段、丁度168年続いた北宋時代と同じである。 繁塔は北宋時代のもので 9階建てであったが雷によって上段部分が消失し 現在は3階である。塔の中は狭く急な階段があり 真っ暗だった(写真右) 午後 鄭州へ移動、河南省博物館を見、商の城壁では閉館後の時間を開けてもらっての見学であった。 |
いよいよ終盤になった23日鄭州ともお別れ、上海へと飛び立つ。 ここでは 上海博物館で丁度「王羲之」展開催中であった。 淳化閣帖をゆっくり見ていると アッという間に時間が経過してしまった。又また時間が足りない! 最後の夜は上海雑技団のサーカスを見る。若いというより幼い子が一生懸命頑張っている姿に ハラハラしながら見ていると 昨夜の足裏マッサージで軽くなった身体が又重くなった。 24日はいよいよ日本へ 全員無事帰国。 |