(「季色記」眞籠家本よりの現代語訳)
わたしが生まれたのは
村に住むことができなかったのは、わたしの出生が原因だ。母から聞いたところによれば、わたしの父はこの山の奥深くに住むまつろわぬ民の一人であるらしい。どういう経緯で母と父が出会ったのかは分からないが、父の話をするとき母は決まって洞に開いた小さな隙間から空を見上げていた。それは母を抱え父が空を駆けたという思い出に因るのか、別れの際に父が夜空に消えていった影を追っているのか――あるいは彼がいるであろう
それも今となっては分からない。
ただ、母と父は固い絆で結ばれていたのだと、それだけは幼いわたしにも理解できた。
それはこの洞穴を覆う十六枚の結界からも感じ取れる。幾重にも重ねることでわたしたちを護る鉄壁。“外”という場所に行けないのは残念だけれど、それもわたしたちのことを思ってのことだと思えば感謝こそすれ、苦とは思えない。食糧も、必要なものも、村の人々が施してくれる。この安寧の中で、永遠にすごしていけるのだと、幼いわたしは思っていた。
しかし、そうした日々は長く続かなかった。母は病に倒れ息を引き取り、わたしはこの洞穴に残された。そうして途方に暮れていたわたしの
*
「ええ、わたしは今まで一度も外に出たことがありません」
そこまで書いたところで、わたしは顔を上げた。
見ると、彼はとても悲しそうな顔をしていた。申し訳ないことをしたと思っているのだろう。瞳に後悔が蒼く映りこんでいる。
そんな少年の名前は島上刀利。近頃来るようになった里の住人の一人だ。
今日は、山向こうの桜が綺麗だったという話をしに来てくれた。桜という花のことは典籍によく現れるから知ってはいる。だがどういうものなのかは、想像するしかない。だから、彼の話はとても興味深いものだった。百聞は一見に及ばないが、きっと千も万も聴けば、近いものになるのではないだろうか。幸い、わたしには時間がある。
「気に病むことはありませんよ。ここはここで楽しいものです。今日もあなたがここに来てくれましたし」
頭をなでると、彼は恥ずかしそうに鼻を掻いた。
そのしぐさは彼の父であった刀衛のものと似ている。長じてからはそれほどこの仕草をしなくなったのだが、身振りや口ぶりというのは遺伝してしまうものらしい。あるいは身体のみならず、魂の形もまた形質を受け継ぐのか。いずれ検討してみたい主題だとわたしは思う。
しかしそんなことより、今は。
「さ、それでは見せてくださいな?」
わたしは自分の額を指差す。少年は頷くと、頭をわたしの前に差し出す。
わたしには記憶が見えてしまう。それは人に限らず、形あるものならおおよそなんでも。触れるだけでそのモノが持つ記憶の断片を読み取ることができるのだ。生物の場合は持っている記憶の量と形式が多彩だから少し体力を使うけれど、相手にそれを隠す気がなければ少し楽に読み出せる。
刀利が見せてくれるのは先ほどの光景。
柔らかくて、初々しい太陽の光。木々の緑は作りたての畳のようにきめ細かに地面を覆っていた。その緑の中上に印をつけている淡い白点がある。拾い上げれば、それは楕円形を描く小さく薄い花びら。
「あら、本当」
それはいつか読んだ書籍に出ていた桜の花びらの形に瓜二つだった。
やがて、視線が移る。
はじめは、川を連想した。しかし、その光は川の持つきらきらしたものとは少し違う。もっと淡くて、柔らかい。少ししてそれが風にそよぐ花びらなのだと気づいた。少年の目は鮮明にそのせせらぎを記録していた。華の河からは時折しぶきをあげるように花びらが舞い散り、視界の端へと飛んでいく。
目を開けると、少年の喜色満面の顔が間近にあった。
「ありがとう。とても素晴らしい景色でしたね」
うんうん、と少年は頷いた。
「凄いんだよ、とっても。あの樹の下にいたら、凄いことができそうな気がしてくるんだ」
少年は手や足を駆使して、その感動を伝えようとしている。その言葉はつたなくて全てを汲み取ることは出来ない。けれど、その真摯さはとても快くて、その暖かさで抜け落ちた情報は十分に補えていた。
あの美しさは、決してその美しさだけによるものではない。この少年の目を通したからこそ、桜は輝いていたのだ。少年の目を改めて覗き込むと、それが良く分かる。彼がここに来てくれたことに、わたしは感謝した。
「――だから、」
そんなことを思っていると、彼が言葉を発する。
彼は、真っ直ぐな目でわたしを見つめている。そうして彼の口から出たのは、今まで生きてきて初めて聞いた言葉だった。
「いつか、あなたに外の景色を見せます。桜だけじゃなくて、もっともっと、たくさんのものを」
だから、待っていてください。
わたしは胸の奥に、とん、という音を聞いた。
*
「そうして文章にされると……どうにも気恥ずかしくていけません」
そういって、かつての少年は頭を掻く。
「あら、本当のことではないですか。別に誰かに批難されることでもないでしょう?」
「批難はされませんが、ひやかしはされそうですよ」
「あら、そういうものかしら」
「そういうものです」
断言されてしまう。
「ではもっと書くことにしましょう」
姫様そんな無体な、などと彼は言うけれどわたしは気にせず続きを書き綴る。横でもぞもぞ居心地悪そうにしている彼の姿は見ていて愉快だった。しかしこの程度なら日常茶飯事のことである。せっかくの好機だ。もっとからかうことにしよう。
「それとも」
筆を止めて、天井を見上げる。
「やはりお婆さんは好みではないかしら?」
そういうと刀利様はむっとした表情になる。
「そのお姿と仕草と性格を見て、そう思う人はいませんよ。だいたい姫様はいつまでたっても姫様です」
確かに。
わたしはいわゆる不老長寿というものなのだそうだ。いまだに死んだことはないから不死なのかどうかまでは分からないけれど、とにかく長らくこの姿で生きている。
鏡に目をやれば、そこに映るのは相変わらず服以外はまったく変わらぬわたしの姿。わたしの身体は年齢を重ねるということを忘れてしまったらしく、十五になったあたりで変化を止めてしまった。他ならぬわたしが変わらないなあと思うほどなのだから、二〇年ばかりしかわたしを見ていない彼の中でも同じであるに違いない。
「では貴方のところに嫁ぐことにしましょうか」
刀利様がむせ返る。
「な、何を唐突に」
「いえ、そんなに大丈夫だと仰るならわたしも重い腰を上げて、行かず後家にお別れしようかと」
「……そんなことになったら父がぽっくり逝きかねません」
こめかみを押さえて刀利様は唸る。
そういえば、とわたしは思案する。彼とわたしの年齢差はおおよそ百になる。計算してみれば彼の祖父とほぼ同年代という可能性もある。姉さん女房――というにはかなりつらい。ひい婆さん女房くらいか。そもそもそんな言葉聞いたこともない。当たり前か。
「言われてみれば、貴方のお父様が生まれた時、いっしょにお祝いをした覚えがあります」
それが俺の父の自慢なんですよ、と刀利様は疲れた表情で答えた。
「父にとっては神様仏様と同じなんですよ姫様は」
「あら、そうだったの」
長く生きてみるものだ。この調子だとじきに背中から光が出てきたりするのかもしれない。なんだかとても素敵に思えるけど日常的に光っているというのはいかがなものだろうか。神様仏様になるのも一苦労だ。
「んー、少し残念かしら」
「何がですか」
「あなたの奥様になれないのが」
「姫様っ! 冗談もいい加減に――」
立ち上がろうとした彼の頭にぽんと手を置く。
「からかったのは本当だけど、残念なのも本当ですよ」
頭をなでてあげると、刀利様はむっとしたようなぼうっとしたような面白い表情をした。
「ふふ、いつまでたっても貴方は可愛らしいのですね」
人にとって、一〇年は長い。あのやんちゃな少年が、今や実直な青年。変われば変わるものだと思う。でも、
ああ、本当に。
貴方はいつもわたしを護ってくれている。
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