「貴方なんですね……静江さん」
私はそう言うと指し示すように壁にちらりと視線をやり、そして戻す。
「何の――ことでしょう」
「終わりにしたいんですよ」
「だから一体何のことなのですか。私にはさっぱり……」
「天狗の隠れ
私が言うと、静江の表情が一変した。
身体中を襲っている痛みが反響を伴いだす。
うわんうわんと耳の中で音が聞こえ出した。
視界が急激に狭くなり、歪みさえ起こした。
そう、あそこが震源なのだ。
そう、今日一日考えて考えた結論。
荒唐無稽すぎて笑いが止まらないような答え。
だがそれが真実だということは、身体が証明していた。
――伝承が真実なのだと。
――この屋敷に非日常的な事態が起きている、と。
「『羽田野拾遺』を読ませていただきました。眞籠の家には天狗からいただいた特殊な力があるそうですね。……どういう原理で作用するかなんて分からないし、その起源なんかも僕にはさっぱりです。あの本の伝承もどこまで信じてよいのか――」
静江はしなやかな肉食獣のように、じっと私を睨みつけている。
「でもどうやら、一つだけ真実があるらしい」
搾り出すように、私は言い放った。
「この部屋を消したのは貴方ですね」
わずかに、痛みが退いた。
「おかしなことをおっしゃいますね、先生。そこにあるのはただの壁。部屋などございません」
静江は上品に笑う。
「そうですか? 屋敷の間取りを考えると、僕の部屋の下――つまりここにも部屋がないとおかしいでしょう。それに外から見たらちょうどこのあたりに窓があるはずなのに、それも見当たらない。不完全な隠し部屋がここにあるのは明らかです。……妙な結界さえ張られていなければ何てことはないんでしょうけどね」
思いつく限りの〝違和感〟を私は立て続けに挙げた。
そのたびに少しずつ痛みが和らいでいく。
私は壁――おそらくここに扉がある――を軽く叩いた。
「そしてこの中にはあなたの妹、眞籠幸江がいる」
「私には妹なんて……」
「では芳明さんと貴方はどういうご関係です? あぁ、そういえば芳明さんの部屋の隣はどなたの部屋でしょうか。見たところつい最近まで使われていたようですが」
ぐ、と静江が返答に詰まる。
「ともかく、この扉を開けます。この結界を解いて下さい」
「それは……出来ません」
静江は、低く、はっきりとそう答えた。
「そうですか」
やはり聞き入れてはもらえないらしい。私は肩をすくめると、壁に手を伸ばした。確かな感触がある。
目には見えないが確かにそこには円い金属の塊があった。
「どうしてもその扉を開けようというのなら――」
静江がそれだけで人を殺せそうなほどの意志を込めた視線で睨みつけたその瞬間、私は静かに口を挟んだ。
「これ以上やっても、貴方の寿命を縮めるだけですよ」
「な――」
静江が絶句する。
練り上げられていた意志の力がはらりと散らばったのが分かった。
私はその隙をついてノブを回し、一気にそれを解き放つ。
それが最後の一押しだった。
空気が駆け抜けるのが分かる。堅く閉ざされていた空間が外界と情報を交換し合うようにうねった。
そして全てが収まった時、
部屋の中には、くの字になって倒れている眞籠幸江の姿があった。
その腹部と、周りの
まるでたった今死んだばかりのように、それはそこにあった。
確実なのは、彼女が既に死んでいるということだけ。
だがそれで十分だった。
窓の外で雷が唸りをあげた。幾重にも光を重ね、部屋を照らす。
「外の結界も解け始めたようですね」
私が言うと、静江は小さく頷いた。
沈黙が続く。停滞した世界が動き出したというのに、何も動かない。
冷や汗が流れ落ちる。
静江の周りの空気が〝違う〟のだ。あの痛みは消滅したが、その代わりに言いようのない圧迫感が包んでいる。
そう、ここは、異界だ。
異界に対峙するのは二人。
私と、静江。
一言でいえば、それはとても分が悪い。
しかし異界は一瞬にして崩壊した。
ばたん、と扉が開きドタバタと騒がしい音を立てて美千代が私たちの間に駆け込んできた。
「わ、ど、外が……! そ、その何が起こってるんですか一体っ?」
どうやらいち早く異変に気がついたらしい。慌てて出てきたらしく、いつもはきっちりとしている服が大きく乱れている。
「話は後です。美千代さん、とにかく警察を呼んで下さい」
「え、あ、でもどうやってっ?」
パニックなのか、先刻までの結界の影響なのか。大いに美千代は慌てふためいている。私は美千代のさらなる混乱を避けるため部屋の中にある幸江の遺体を自分の身体で
「電話ですよ。通じにくくなっているかもしれませんが粘って下さい」
私はゆっくりと、言い聞かせるように美千代に言う。美千代は何度かその言葉を
「わ、わかりましたっ!」
と言って駆けていった。
*
「これで一安心……と」
「全てが終わりました。もうこれで……何もかも」
安心したような、嘆くようなそんな溜息を吐く。おそらくはその両方だろう、私はそう察した。
「事情を、話していただけませんか。いったい何があったのか。僕に分かっているのは断片的なことだけですから」
「その前に、どこまで分かっておられるのか教えていただけますか。そのほうが話が早いでしょう」
まるで推理小説の探偵役にでもされた気分だ。こうなれば道化を通す他ない。
「そうですね――。僕に分かっていたのは数点の事実です」
私は、唾を飲み込む。
「まず、貴方を除くこの屋敷の人間はみんな幸江さんを、そしてこの書斎を忘れていた。もう一つは、僕たちはこの屋敷の外のことも何故か考えないようにしていた。最後に、いつまでも終わらない夏です。それはまるで世界の一部だけを切り取ったようでした」
「そこで、羽田野拾遺の話を思い出したのですか」
私は頷く。
「包んだものを隠してしまう力であり、周りも何が包まれていたのかを忘れてしまう――それが眞籠の〝天狗の隠れ蓑〟だそうですね。もしそんなもので部屋一つをまるまる包み込んだら、ちょうど先ほどまで体感していたような感じになるのではないか、そう思ったんです。それならこの不思議な状況も納得がいく」
あったはずの部屋に誰も気付かず。
いたはずの家族のことを皆が忘れている。
そして、誰も外に出るということを考えない。
――こんな状況は異常というより他にないだろう。
「幸江さんの日記に書いてあったこととあわせ考えると、どうやらあの人は僕がここに来た当日、先代が重要なものを置いていた場所―― この書斎に来ようとしていたらしい。その時に何かがあった。あの夜に僕と美千代さんが聞いた物音はこの時のものでしょう」
――どこからかドタン、と大きな物音が聞こえた。
――ちょうどタンスか何かをひっくり返したような感じだ。
――続いてもう一度、物音。
――洗濯場――洗面所――美千代の部屋――先代の部屋。
――物置と三つの空き部屋。食堂――台所――二つの遊技場。
――応接間。
――どの部屋を覗いても異常はどこにも見られなかった。
「一階を調べた際に違和感があったのは、すでに書斎が〝消された〟後だったからですね」
そう、私たちが見た部屋には異常はなかった。だが私たちの見ていない部屋――つまり書斎には、幸江の屍体が転がっていたのだ。
「とにかく、部屋もろとも幸江さんは忘れられた。――確証があったのはその程度です。屋敷の周りにも結界のほうはあるのは見当がついていましたが、どういう事情かは分かりませんでした」
私はゆっくりと書斎の中に入る。静江も後に続いた。
部屋の中は血と香水と古い部屋特有のホコリめいた匂いが混ざり合っている。薄暗い空間は外に轟く雷と静江のカンテラに照らされ、どこか幻想的でさえある。
「だから聞かせて下さい。何が、あったのかを」
私が言うと、静江は窓の外に視線をやった。
「すべては、あの時から――あの女性が屋敷の前に現れた時から始まりました」
昔話でも語るように、噛み締めるように静江は話した。
「十六年前の夏、一人の女性が屋敷の前に倒れていました。ちょうどあの時は今のようにメイドの多くが休暇中で、発見が遅れてしまったのです。かかりつけのお医者様に診てもらったところ彼女は出産直前だということで――病院に運ぶには時間がかかりすぎるため、この屋敷で、彼女は一人の赤ん坊を出産しました。しかし、子供のほうは無事でしたが、母親のほうは――」
「亡くなってしまったというわけですか」
「どうしたものかと私が困っているとお母様が来られて」
――お前の子だということにしてしまえばええ。
――眞籠には、娘が必要じゃ。
「私は幼い頃の病のために子を産めぬ身体でした。でも私は子供が欲しかったし、眞籠家にはお母様のおっしゃるとおり娘が必要でした。ですから結局、私はその赤ん坊を自分の子供としました。そのほうが、全てが丸く収まると思ったのです」
静江は目を伏せる。
「私は彼女の遺体を裏の森に埋めて、そこに〝隠れ蓑〟を張った。彼女のことを知るものはもういない。だから、それで全て終わるはずだったんです」
静江は積もり積もったものをすべて吐き出すように言った。
――強い女性なのだ。
「そのことに、幸江さんは気付いたわけですか」
「幸江は雫を毛嫌いしてましたし、何より眞籠の財産を自分のものにしたかったようでした。でもまさか幸江があんなことを考えているとは思いもしなかった。あの晩も、幸江はこの部屋で証拠を探していた。そこに偶然私が出くわして――」
――全部わかっているのよ。
――アレは眞籠の血なんか引いてない。
――眞籠家は私のものよ。
――あんなバケモノには渡さない。
「気がつけば、私は部屋にあった果物ナイフで幸江を刺していた」
静江はちらりと自分の掌を見た。
「私は慌てて隠れ蓑を使いました。一つだけでも体力を削がれるのに二つも隠れ蓑を同時に使えばどうなるかは分からない。ですが、幸江を殺したのが露見すれば雫の秘密も明らかになってしまう。それだけは、何としても避けたかったのです」
たった一つの事実を守るには隠したいことが多すぎて。
彼女は、自らの生命を賭けた。
それが――終わらない夏を生み出した。
「ですがあの時、まだ幸江は死んでいませんでした。何を考えたのか幸江は最後の力でこの屋敷全体に隠れ蓑を使った。本当なら幸江の死によって屋敷を覆う隠れ蓑は解けるはずだったのですが、幸江が私の隠れ蓑の中にいたため、結界は残ったままになってしまいました」
「外の結界を解除するには、貴方の結界も解かなければならない。だが、それは絶対にできなかった。そんなことをすれば事が露見してしまうからだ。だから――こんなことをずっと続けていたわけですか」
静江はゆっくりと肯く。
「静江さん」
私は一度大きく息を吐くと、彼女を見つめた。
「貴方が死んでしまったら――雫さんはどうするんですか」
静江は、驚いたような目で私を見た。私は続ける。
「雫さんとずっと親子でいたかったのはよく分かります。でもね、」
「それは雫さんも同じだったはずですよ」
しっかりと彼女を見据える。
「血が繋がっているかどうかは問題じゃない。雫さんにとっては貴方はれっきとした母親だったはずです。そうでしょう? 貴方が彼女と過ごしてきた時間は、そんな簡単に崩れ去ってしまうようなものじゃなかったはずだ」
陳腐だ。我ながら陳腐すぎる台詞である。だが、それは今の静江に最も効果的なものだと思えた。
全てを収束させるために、望むべき結末のために、私はひたすら言葉を繰る。
「貴方のやったことは確かにどうしようもない罪です。でも、きっと雫さんはその理由を分かってくれる。貴方の気持ちを理解してくれるはずです」
静江は黙って私の言葉を聞いている。
どう思っているかなど私にはわからない。だが私は言葉を続ける。
――たとえ陳腐であっても、それは私の言葉だ。
「だから、ちゃんと罪を償ってください。それでもきっと貴方と雫さんは今までどおり、〝親子〟としていられることができるはずです。 ――そうですよね、雫さん」
私は振り向かずに彼女の名前を呼んだ。そこに彼女がいるのは分かっている。気配を察したのでも勘でもない。
――そうあるはずなのだから。
「母様……」
静江が振り返った。
部屋の外に、雫が立っている。世界の終わりに相対しているような重い表情で立ちつくしている。彼女の唇が震えるように、開く。
「何があっても、」
その目から、大粒の涙がこぼれた。
「母様は、母様――だよ」
感情の起伏が乏しい彼女が、精一杯の笑顔で。
心の底から溢れ出るような声で、そう言った。
静江は背後の壁にもたれかかると、
「ああ――」
と言ったきり、動かなくなった。
その目からは大粒の涙がこぼれていた。
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