奔走

執筆
任那伽耶
分類
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目を覚ますと、まだ早朝にもなっていなかった。

身体にかかる確かな重みに視線を向けると灰色の髪があった。

雫はすぅすぅと昨晩とは正反対の安らかな顔をして、小さな寝息をたてている。何だか無性にいとおしくなって、私は雫の髪に指を差し入れ、頭を撫でた。

雫は、ん――と声を出すと私の胸に頬をこすりつける。素肌同士がこすれあって少しくすぐったい。

しばらくそうやってじゃれているうちに、窓から細く光が差し込んだ。淡い明かりが部屋を満たしていく。

さて――私は約束を果たさねばならない。

雫を部屋まで送った後、私はゆっくりと歩き出した。

本来ならば誰も気付かないかもしれない真実を暴き、終わらせてしまうという雫の力。今まで断続的に続いていた違和感がその力によって引き起こされていたものだとすれば――そこに真実が隠れているはずだ。

しかし、どうすれば良いのだろうか?

自分のもとには事態を収束に向かわせるためのあらゆる情報が集まってくる――そんなことを雫は言っていた。つまり、雫の近くにある情報を取捨選択すればある程度形は見えてくるということか。彼女の言葉を信じればそういうことになる。

しかし、どう考えてもそれは際限なく膨大な量だ。もう時間があまりないというのに、この方法では無理がある。

――どうすれば良い?

そこで、私はハタと気がついた。

雫に莫大な情報を与えていたモノとは何だ。

それは――私だ。

私が今まで彼女に様々な知識を与えてきたではないか。

つまりは、私の教えたことに鍵が隠されている、ということか。

何だ。

それは、何だ。

私は考える。私は何を教えたのか、と。今までの日常を振り返り、目立った内容を掘り返す。

「そう――か――」

雫は数学の問題のどこが分からなくて私の部屋に来た?

雫は竹取物語でどこに疑問を持った?

それは。

――知っているはずの公式を思い出せなかったから。

――かぐや姫はいつから自分が天の人だと気付いていたか、ということ。

「忘れている――ということですか、僕たちは」

そう、違和感の元はそこだ。

私たちは、知っていたはずのことを何か忘れている。あることについての記憶がすっぽり抜け落ちたまま日常を過ごしていたのだ。

雫が分からなかったのも当然の話である。彼女のもとには情報は集まってきていた。だが、肝心の答えとなるものを彼女は思い出せなかっただけなのだ。

そう、それは荒唐無稽な考えだ。

全員が同じことを同時に、こんなにも長い間忘れていられるなど到底ありえた話ではない。これではまるで三文小説のトリックだ。

だが、それは間違いなかった。

「何だ。何を忘れている――」

自分自身に、そう問いただす。

答えはすぐに返ってきた。

そう。

どこかのことを忘れている。

突然、身体中が悲鳴をあげる。思い出すなとそこら中から声が響く。それは子供の頃になけなしの小遣いで買った雑貨屋の飴玉くらいに甘美な誘いだ。

この苦痛から逃れるためならそれも良いか。

――否。

妥協を必死で押さえつける。繰り返し襲い掛かる痛みを打ち消すように己の胸を何度もかきむしると、ゆるやかに波が引いていった。

「そうだ――」

頭の中の もや が急激に晴れていく。

「そういえば今日は……何月何日なんだ?」

自嘲気味に薄く笑う。

私がここに来たのが八月の中旬。そして家庭教師をはじめてから一ヶ月以上は優に経過しているはずだ。

だというのにこの気候はどうだ。まるで一ヶ月間変わってはいない。

まるで真夏ではないか。

私がここに来た〝あの日〟を、延々と繰り返しているかのように。

同じ一日を繰り返しているかのように。

「それに、」

ああそうだ――。

一人少ないではないか。

私はまだ きし む頭を押さえながら、歩いた。

「あれ、先生、どうかなされたんで――」

二階に上ったところで美千代に出くわした。

彼女は私の顔を見て慌てて駆け寄ってくる。どうやら端から見ても私の状況は相当に悪いらしい。

「今すぐ休まれて下さい! お顔が真っ青です」

ふらつく私の身体を支えて美千代はそう言った。

しかし私は頷かない。ようやく異変に気がつくことが出来たのだ。もしここで退けば、二度と思い出せなくなるかもしれない。そんな焦りが甘えを許さなかった。

「大丈夫ですよ、ただの貧血ですから」

「ですがっ!」

頭痛に大声はこたえる。少しだけ暴力的な気分になるのをこらえながら、静止しようとする美千代の肩を押さえる。

「――それより、」

あそこは誰の部屋でしたっけ、と言って私は一つの扉を指差した。

「え――? いえ。あそこはどなたも使っておられませんが」

「ずっと、ですか?」

「ええ、大奥様は一階の和室を使っておられましたし――あれ?」

美千代はそこで不思議そうに首をかしげた。

なるほど、そういうことになっているのか。

私の疑念は更に強まった。

「そうですか、ありがとうございます」

私は呆然としている美千代に背を向けると、そこへと向かった。

扉を開け、静かに中へ潜り込む。

ここは芳明の部屋の隣にあたる。

思ったとおりだった。つい最近まで使われていた様子のある、豪奢な部屋。複数の香水の匂いが散らばっているのか、良いとも悪いとも判然としない淀んだ空気の中、私はゆっくりと、すみずみまで部屋を観察する。

何か証拠はないものか。この怪奇な事態の謎を解く、証拠は。

ベッドの下、本棚、引き出しの中。思いつく限りの場所を調べた。

それは至極あっさりと見つかった。クローゼットの中にあった上着の内ポケットをわずかに罪悪感を覚えながら探ると、小さな手帳が転がり落ちた。

いかにもといった感じの鮮やかな青いカバー。

その中に、答えの一端はあった。

七月十八日

気付くとアレがじっと私を見ていた。私がにらむとアレは怯えたようにどこかに走っていった。

うっとおしい。気味が悪い。

あの髪も、あの瞳も、何もかもが気に入らない。

あんなのが眞籠の血をひいていると思うとぞっとする。

どうしてアレに次を任せられるものか。

七月二十三日

あいつが嫌いだ。

あいつが嫌いだ。

あいつが嫌いだ。

あいつが、嫌いだ。

七月二十四日

何故アレには隠れ蓑がない。

おかしい。

八月一日

十七年前のことを調べた。

前後一年間の間、屋敷にいたのは姉と母、そして一部の使用人だけだ。疑う所は大いにある。

わたしの考えている通りならば、ことが明るみに出ればこの屋敷はあの子か、わたしのものになる。

少しだけ、愉快な気持ちになった。

もしそうなったらアレはどうしてくれようか。

考えるだけで心が躍る。

八月九日

竹宮とかいう牧師がやって来た。いかにも善人ぶった微笑が胡散臭い。その顔が何日もつか楽しみだ。

アレにものを教えるなど不可能なのだ。

そういえば。

もしかしたら、この件はあの人の意志によるものかもしれない。

そう考えなければ、ここまで隠しとおせたわけがない。ならば私はのけ者ということか。

何もかもが許せない。姉妹だというのに、何故私がこんな扱いを受けなければならないのか。

そう、もしかしたら証拠はあそこにあるかもしれない。

早めに動くべきだろう。時間は――あまりない。

私は、目を揉みながら手帳を閉じる。

文面や文字から凄まじい怨念が にじ み出ていて、とにかく不快だった。なりふりなど構わず嘔吐したい気分だ。

文面に頻繁に出る〝アレ〟という言葉が雫を意味しているのは、容易に類推できる。それが余計に気分を悪くさせる。

だが、これでおおよその見当はついた。

「あとはその場所、か」

私は、書庫に向かうのと気分転換をかねて、屋敷の外に出ることにした。

夜。

部屋を抜け出すとゆっくりと屋敷の一階へと向かう。

私が目指す場所はただ一つ。

忘却の中心である。

何もない廊下の、その壁面。

私の目に送られてくるその情報は確かなものだ。

壁に手を触れる。

私の手から送られてくる冷ややかな感触は確かなものだ。

手をゆっくりと壁から離す。

これはただの壁だ。何もかも、間違いはない。

――しかし、それが間違っているとすれば?

ギリギリと頭が痛む。前にあの森で感じた痛みよりも、今日の昼に全てを思い出そうとして受けた痛みよりも、更に激しさを増している。五寸釘を何十本もまとめて脳の しわ に打ち込まれているような、そんな衝撃と痛みが絶え間なく続いている。

結界はいよいよ ほころ び始めている。終わりの無い輪が途切れようとしているのだ。

終幕は、近い。

再び壁に手を触れると、温かな木の感触が伝わった。

「ここ、か」

私がそう言った瞬間、視界の横で明るいものが揺らめいた。

振り向くと、そこには――。

「何をしているのですか、先生」

「貴方なんですね……静江さん」

そこには、カンテラを手にした眞籠静江が立っていた。

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化石が見る夢

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