2003年5月1日、前日の大雨とは打って変わった抜けるような青空のもと、室生古道を走ってきました。室生古道は、奈良県榛原町高井から仏隆寺を経て室生寺に至る古い道で、今は林道カトラ線という名前が付き、ハイキングコースのひとつになっています。私は、この道を室生寺から仏隆寺へ、さらに室生湖畔を通るという周回コースを取りました。
私がこのコースを自転車で走ってみようと思い立ったのは、昨年行ったことのある、室生寺近くの「松平文華館」を再び訪れてみたいと思ったためです。その「松平文華館」では、私の好きな写真家の一人である「前田真三」の常設展示がされており、もう一度前田真三の風景写真を見たかったのです。
それからもちろん、室生村から仏隆寺へ抜ける新緑の山道を走るときっとすばらしいに違いない、という思い込みがあったことは言うまでもありません。
今回のコースは次のとおりです。走行距離は約28kmでした。近鉄大阪線の「室生口大野駅」近くにある「大野寺前駐車場」を起点および終点としています。
大野寺前駐車場 → 室生寺 → 松平文華館 → 唐戸峠(役行者像) → 仏隆寺 → 室生湖 → 大野寺前駐車場
近鉄大阪線の「室生口大野駅」のすぐ近くに、枝垂桜で有名な「大野寺」があります。そのすぐ前に「大野寺前駐車場」があります。数台分の車を止めることができる小さな駐車場です。今回はここに車を止め、ここを起点とします。
車から自転車を降ろして前輪をはめていると、近くにいた、孫を連れたおばあさんが話し掛けてきました。室生口から室生寺までは広い車道が続いていますが、緩やかな上り坂で、とても楽に走ることができました。それに車道の端には、人や自転車が通れる側道が付けられており、安心して自転車を走らせることができます。新緑が美しい山の谷間を、室生川に沿って登って行きます。
室生寺に着きました。今日は室生寺の境内を見たいので、自転車を置く場所を探したのですが、すぐ近くには適当な場所がありません。仕方ないので、室生村の上の方を走っている細い車道(仏隆寺へ通じる道)の脇に置くことにしました。
久しぶりの室生寺は、大勢の人々でにぎわっていました。ここは石楠花で有名なのですが、花の盛りを過ぎており、時期的には少々遅かったようです。
台風による倒木で大きく破損した「五重塔」も、すっかり修復できていました。この五重塔のすぐ上には、倒れた杉の木の株が残されていました。直径1メートル数十センチはあろうかという大木です。こんなのに直撃されたのですから、比較的小さな室生寺の五重塔はひとたまりもなかったと思いました。
室生寺を後にしたのは、太鼓橋に着いてから1時間以上経ってからでした。
さて、松平文華館です。室生寺から仏隆寺へ抜ける車道の脇に、瀟洒な姿で建っている小さな美術館です。館内に入ると、昨年と同じように、前田真三の風景写真80点が展示されていました。彼は室生村が気に入って、室生村の風景をたくさん撮っています。見事に室生村の世界を描写しています。何度見ても前田真三の風景写真には感銘を受けます。室生村の写真のほかには、北海道美瑛町の実に美しい風景写真も添えられています。この松平文華館は、全国に4つある前田真三の写真の常設展示館のひとつです。
前田真三の写真を見た後、次の部屋に入ると、そこは少々雰囲気が異なっていました。そこには版画と焼き物が展示されていたのです。版画は「かるた」の形が取られていて、小さめの版画(取り札)と言葉を刻んだカード(読み札)が対になって、いくつも展示されていました。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩を題材にした「デクノボーの詩」という版画をはめ込んだ屏風もありました。
この版画がおもしろい。そう、棟方志功の版画のスタイルと似ていて、自由奔放といった感じです。花、蛙、山、木、野菜、空など、自然界のあらゆるものがその対象になっています。そして、その絵と対になっている言葉がいっそうそのおもしろさを広げます。自由、闊達、自然、勇気、感動、納得、摂理、宇宙、喜怒哀楽、… ああ、どんな言葉で表現すればよいのでしょう。そこには安らぎと、生きるためのエネルギーに満ち溢れた独自の空間が形成されていました。
私が版画を食い入るように見つめていると、館内で花を活けていた奥さんが話し掛けてきました。
『おもしろいでしょ。』
『すごいですね!これはどなたの作品ですか。』
『この版画や焼き物を作った人は、「江崎満」さんと言います。』
と言って、江崎満さんの話をしてくれました。
奥さんの話によると、江崎満さんはとてもおもしろい、変わった人で、いろいろな職業を転々としたあと、横浜から能登半島の山の中の廃村に家族で移り住み、農業をするかたわら版画や焼き物を作っている人だとのことです。はじめは能登半島で農業だけをしていたのだけれど、ある日棟方志功のテレビ番組を見て深い感銘を受け、その日以来自らも版画を彫るようになったのだそうです。また、「海」と名づけた子供さんは、母子ともに危険な異常出産がもとで脳に重度の障害を持ち、その子とともに生きていく中、「生きるとは何か」を真剣に考え始めたそうです。
室生村では2年に一度、春に彼の作品の展示会が開かれているそうですが、今年は初めて松平文華館でも展示されたのだそうです(展示期間: 2003/4/4 〜 5/5)。
そしてなんと、江崎満さんは4月14日にこの館に来ていたとのこと。そのときの話が大変おもしろく、館内に来られたお客さんは、彼の話に聞き入り、帰ろうとしなかったそうです。
館内に置いてあった江崎満さんの新しい著書「星吐く羅漢」(新宿書房)を目ざとく見つけた私は、即購入しました。この本はまだ読んでいる途中ですが、彼の作品や人物、生き方や考え方を知るために非常に参考になります。
この松平文華館は、一緒に展示している活け花もすごいのです。大小さまざまな季節の野の花を、大胆かつ繊細に活けておられます。 昨年私と一緒に訪れたうちの嫁さんは、はじめて見た前田真三の風景写真を気に入ったものの、それ以上に、ここに展示されているたくさんの活け花に大きな驚きと感動を覚えたと言っていました。
この松平文華館には40分ほどいました。そこを出て、山の斜面に広がる室生村の風景を楽しみながら、いよいよ室生古道へ踏み入れます。
30分ほど走り続けていると、やがて「腰折地蔵」のところにやって来ます。藁葺きの立派な小屋に、腰のあたりで2つに割れた地蔵さんがまつられています。
腰折地蔵のすぐ上からは道が更に細くなり、そこから先はダートの緩やかな登り坂になっています。木立に囲まれた林道を、快調に走ることができます。
でも、走り続けていると、なんだかだんだん道に石が多くなってきました。大小さまざまな石が邪魔して、じわじわと走りづらくなって来ています。それでも止まることなくペダルをこいでいると、向こうから元気なおば様たちの集団の声が。仏隆寺側から歩いてきているハイカーです。私は自転車を降りて押して歩き、『こんにちは』と挨拶してすれ違ったのですが、すれ違いざまそのおば様たちの一人から『こんにちは。あら、いい自転車に乗っているのね。』と声をかけられました。元気なおば様たちからこのような声がかかるとは全く予期していませんでしたので、咄嗟のうまい返事ができません。私は『はあ』としか答えられず、うつむいたまま通り過ぎてしまいました。ああ、私はすっかりおば様たちのパワーに負けていました。
道の勾配もだんだんきつくなってきています。相変わらず石が多い道を転倒しないように注意しながら走っていると、 急に腹が減ってきました。時計を見ると午後1時前です。とにかく、林道に腰を下ろし、持参してきた弁当を広げました。
しかし、再出発してからの道が、急に険しくなってきています。急坂となり、しかも道はガレています。舗装路であれば十分登りきれる登り坂ですが、まるで河原のように石がごろごろしている状態ですから、ギヤを一番低くしても、ついに足が着くようになりました。あきらめて自転車を押して登りました。
しばらく行くと、唐戸峠に出ました。
13:15 唐戸峠(役行者像) 12.4km唐戸峠には、休憩小屋が建っており、道の反対側には、室生寺や仏隆寺を開いたと伝わる役行者の像がまつられていました。いよいよここからは下り坂になりますが、下り勾配はきついうえに、相変わらず相当ガレています。とてもスピードを出して下るわけにはいきません。転倒しないようにそろそろと下るのですが、途中ブレーキを握る手が疲れて休憩してしまいました。下り坂で休憩したのは初めてです。また、私のスキルでは自転車に乗って下ることができないような部分もありました。このあたりは登山道そのものでした。
13:30 仏隆寺駐車場着 13:4km唐戸峠から下ること15分、やっと舗装路に出ました。そこを右に行くと仏隆寺の山門に至ります。しかし、私はそのまま坂を下って仏隆寺の駐車場に自転車を止めました。
仏隆寺は真言宗のお寺で、あるパンフレットには「仏隆寺は室生寺の南門といわれる」と書かれていました。室生寺と非常に関係が深いのですね。仏隆寺は、石段のそばに立つ樹齢900年の桜がつとに有名です。また秋には曼珠沙華が咲きそろうのだそうです。その季節にもう一度訪れてみたいと思いました。
仏隆寺の山門の前には、写真のような長い急な石段が続いています。実際に数えてみると、187段ありました。この石段を登り、仏隆寺の境内に入ると、きれいに咲いた藤の花が迎えてくれました。更に石段を登って本堂へ。静かで落ち着いたお寺です。
仏隆寺を出ると、穏やかな山村の風景の中、舗装路を下る一方です。かなり勾配があります。たまに車が通るので、スピードの出し過ぎには注意が必要です。坂道を下りきると、「高井バス停」に出ます。
高井からは榛原方面に向かって走り、「南垣内」というところで宇陀川に出ますが、そこを右に行くと室生湖に着きます。
室生湖は、宇陀川を室生ダムでせき止めることによってできた、細長い形の人造湖です。この室生湖を囲むように広い車道がつけられています。私は、右側の道を進むことにしました。
室生湖畔の道は快適です。平坦で、アップダウンがほとんどありません。車もめったに通りません。美しい湖を眺めながら、楽しく走ることができました。
湖畔の道を走ること40分で室生ダムに着きました。ダムとしては、それほど大きい方ではないと思いました。水はほぼ満杯に近く、豊富な水量です。
ここから少し走ると、室生口大野から室生寺への車道に出ます。出発点の大野寺前駐車場まではすぐそこです。
15:29 大野寺前駐車場着 28.6km大野寺前駐車場に着きました。出発してから5時間半ほどかかっていました。しかし、走行距離は30kmもありません。寄り道にかなりの時間を割いてしまったようです。
今回は新緑の室生村で前田真三の写真を堪能し、江崎満さんの版画に出合うこともでき、それに山中ではめったに遭遇しないガレガレの林道を走り、室生湖の景色を楽しみながらゆったりと走ることができました。いろいろと楽しめた一日でした。