久作関係人物誌
奈良原至(ならはら・いたる)
奈良原至(補註1)は旧福岡藩士で、玄洋社の草創期からの社員であった。
玄洋社随一の豪傑といわれるが、その生涯を記すものは極めて少なく、夢野久作の「近世快人伝」を除けば、辛うじて黒龍会編纂になる「西南記傳」第六巻の「福岡黨諸士傳」と、玄洋社々史編纂會が編纂した「玄洋社社史」に、ごく短文の略伝が掲載されているに過ぎない。それぞれ、以下に引用しておく。
玄洋社随一の豪傑といわれるが、その生涯を記すものは極めて少なく、夢野久作の「近世快人伝」を除けば、辛うじて黒龍会編纂になる「西南記傳」第六巻の「福岡黨諸士傳」と、玄洋社々史編纂會が編纂した「玄洋社社史」に、ごく短文の略伝が掲載されているに過ぎない。それぞれ、以下に引用しておく。
《西南記傳》
奈良原到、本姓は宮川氏、筑前の人、宮川轍の子、安政四年、福岡唐人町山の上に生る。弱冠にして同藩士奈良原氏を嗣ぎ、其姓を冐す。夙に文武館に學び、後、高場亂の塾に入る。明治八年、矯志社、強忍社等、民間結社の前後相踵て筑前に起るに及び、到、亦た青年有志の士と共に、堅忍社(補註2)を組織す。九年十二月、萩の亂後、箱田六輔等の縛せらるゝや、到、亦縛に就き、福岡、及、山口の獄に拘せられ、十年役後初めて赦さる。十二年『血痕集』の著あり。
奈良原到、本姓は宮川氏、筑前の人、宮川轍の子、安政四年、福岡唐人町山の上に生る。弱冠にして同藩士奈良原氏を嗣ぎ、其姓を冐す。夙に文武館に學び、後、高場亂の塾に入る。明治八年、矯志社、強忍社等、民間結社の前後相踵て筑前に起るに及び、到、亦た青年有志の士と共に、堅忍社(補註2)を組織す。九年十二月、萩の亂後、箱田六輔等の縛せらるゝや、到、亦縛に就き、福岡、及、山口の獄に拘せられ、十年役後初めて赦さる。十二年『血痕集』の著あり。
《玄洋社社史》
奈良原到、本姓は宮川氏、轍の子、安政四年、福岡唐人町山上に生る、弱冠にして同藩士奈良原氏を嗣ぎ、其姓を冐す、夙に文武館に學び、後高場亂の塾に入る。
奈良原、明治八年箱田六輔、中島翔等と堅志社を興し、大に青年子弟の元氣涵養に努む、來島恆喜、月成功太郎、成井龜三郎、内海重雄、中山繁等皆社中に在り、明治九年萩の亂に呼応せんと企て、箱田、頭山、進藤等と共に捕らえられ獄に下る、西南の亂平ぎて後ち釋されて福岡に歸來するや、宮川、頭山、進藤等とまた開墾社を興す、彼の大久保暗殺の報到るに及び、頭山と共に南海に板垣を訪い、大に議論を上下して其自由民權説に贊し、板垣愛國社再興の意あるを聞き頭山と共に再び福岡に歸來し、大に民權伸張の爲に奔走す、奈良原又意を對外關係に用ゐ、平岡、頭山等と畫策する所多し、明治十二年血痕集を著し、後ち玄洋社史の著あり、今尚お玄洋社中に起臥し、進藤社長を扶け子弟の教養に努むる尠からず。
奈良原到、本姓は宮川氏、轍の子、安政四年、福岡唐人町山上に生る、弱冠にして同藩士奈良原氏を嗣ぎ、其姓を冐す、夙に文武館に學び、後高場亂の塾に入る。
奈良原、明治八年箱田六輔、中島翔等と堅志社を興し、大に青年子弟の元氣涵養に努む、來島恆喜、月成功太郎、成井龜三郎、内海重雄、中山繁等皆社中に在り、明治九年萩の亂に呼応せんと企て、箱田、頭山、進藤等と共に捕らえられ獄に下る、西南の亂平ぎて後ち釋されて福岡に歸來するや、宮川、頭山、進藤等とまた開墾社を興す、彼の大久保暗殺の報到るに及び、頭山と共に南海に板垣を訪い、大に議論を上下して其自由民權説に贊し、板垣愛國社再興の意あるを聞き頭山と共に再び福岡に歸來し、大に民權伸張の爲に奔走す、奈良原又意を對外關係に用ゐ、平岡、頭山等と畫策する所多し、明治十二年血痕集を著し、後ち玄洋社史の著あり、今尚お玄洋社中に起臥し、進藤社長を扶け子弟の教養に努むる尠からず。
この二篇の略伝から知られることは、ごく僅かなものでしかない。人となりを想起させるなにものをも得ることはできない。奈良原至がどのような人物であったのかは、ひとり夢野久作の「近世快人伝」に拠る以外にないのである。
奈良原至は福岡藩士宮川轍の子であり、若年で同藩士奈良原氏を継いだ。同じ玄洋社社員の宮川五郎三郎は、その実弟にあたる。文武館から高場乱の興志塾へというコースは、奈良原より七歳年長の進藤喜平太と同様である。
明治八年、愛国者創立集会に参加した武部小四郎と越智彦四郎が、帰福してそれぞれ矯志社、強忍社を起こすと、奈良原至は矯志社に拠り、のち堅志社を起こして箱田六輔を社長に据えた。しかしこの三社は「玄洋社社史」が「名同じからずと雖も、素より其實は一なり、其志も一なり、其行はんとする所も一なり」と評したように、社員の世代や結社の指向に若干の相違はあっても、殆どひとつの結社に等しかった。
明治九年十一月、奈良原至は箱田六輔、頭山満、進藤喜平太らとともに警察に逮捕された。その前月末、前参議の前原一誠が挙兵した「萩の乱」に呼応しようとした容疑であった。しかしこの逮捕劇は、奈良原らが翌年の「福岡の変」に参加することを妨げ、結果としてその命を救うことになるのである。
明けて明治十年。雌伏していた薩摩の西郷隆盛は、私学校党の青年の暴発をきっかけとして、遂に挙兵した。これに呼応した武部小四郎と越智彦四郎は、西郷軍の敗色濃厚となった三月二十八日、福岡城下で蜂起したが、めざましい成果を挙げることができず、挙兵は失敗に終わった。越智彦四郎は政府軍に追撃されて敗走し夜須郡で捕縛、武部小四郎も逃亡の末、五月二日夜に福岡市中で逮捕された。越智の処刑は武部逮捕の前、五月一日であり、武部の処刑は逮捕の二日後、五月四日(補註3)のことである。
そして武部の処刑に際し、奈良原至という人物が永く後世に知られることになる鮮烈なエピソードが刻まれたことを記録したのが夢野久作の「近世快人伝」である。
奈良原至は福岡藩士宮川轍の子であり、若年で同藩士奈良原氏を継いだ。同じ玄洋社社員の宮川五郎三郎は、その実弟にあたる。文武館から高場乱の興志塾へというコースは、奈良原より七歳年長の進藤喜平太と同様である。
明治八年、愛国者創立集会に参加した武部小四郎と越智彦四郎が、帰福してそれぞれ矯志社、強忍社を起こすと、奈良原至は矯志社に拠り、のち堅志社を起こして箱田六輔を社長に据えた。しかしこの三社は「玄洋社社史」が「名同じからずと雖も、素より其實は一なり、其志も一なり、其行はんとする所も一なり」と評したように、社員の世代や結社の指向に若干の相違はあっても、殆どひとつの結社に等しかった。
明治九年十一月、奈良原至は箱田六輔、頭山満、進藤喜平太らとともに警察に逮捕された。その前月末、前参議の前原一誠が挙兵した「萩の乱」に呼応しようとした容疑であった。しかしこの逮捕劇は、奈良原らが翌年の「福岡の変」に参加することを妨げ、結果としてその命を救うことになるのである。
明けて明治十年。雌伏していた薩摩の西郷隆盛は、私学校党の青年の暴発をきっかけとして、遂に挙兵した。これに呼応した武部小四郎と越智彦四郎は、西郷軍の敗色濃厚となった三月二十八日、福岡城下で蜂起したが、めざましい成果を挙げることができず、挙兵は失敗に終わった。越智彦四郎は政府軍に追撃されて敗走し夜須郡で捕縛、武部小四郎も逃亡の末、五月二日夜に福岡市中で逮捕された。越智の処刑は武部逮捕の前、五月一日であり、武部の処刑は逮捕の二日後、五月四日(補註3)のことである。
そして武部の処刑に際し、奈良原至という人物が永く後世に知られることになる鮮烈なエピソードが刻まれたことを記録したのが夢野久作の「近世快人伝」である。
一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜って逃れた。香椎なぞでは泊つて居る宿へイキナリ踏込まれたので、すぐに脇差を取つて懐中に突込み、裏口に在つた笊《ざる》を拾つて海岸に出て、汐干狩の連中に紛れ込むなぞと云ふ際どい落付を見せて、たうとう大分まで逃げ延びた。此処まで来れば大丈夫。モウ一足で目指す薩摩の国境と云ふ処まで来てゐたが、其処で思ひもかけぬ福岡の健児社(補註4)の少年連が無法にも投獄拷問されて居るといふ事実を風聞すると天を仰いで浩嘆した。万事休すと云ふので直《たゞち》に踵を返した。幾重にも張廻はして在る厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振つて突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて震駭したと云ふ。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一入も謀議に参与して居ない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。
健児社の連中は、広い営庭の遙か向ふの獄舎に武部先生が繋がれて居る事を何処からとも無く聞き知つた。多分獄吏の中の誰かゞ、健気な少年連の態度に心を動かして同情して居たのであらう。武部先生が、わざ/\大分から引返して来て、縛に就かれた前後の事情を聞き伝へると同時に「事敗れて後に天下の成行を監視する責任は、お前達少年の双肩に在るのだぞ」と訓戒された、その精神を実現せしむ可く武部先生が、死を決して自分達を救ひに御座つたものである事を皆、無言の裡に察知したのであつた。
その翌日から、同じ獄舎に繋がれて居る少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向つて礼拝した「先生。お早やう御座います」と口の中で云つて居たが、そのうちに武部先生が一切の罪を負つて斬られさつしやる……俺達はお蔭で助かる……と云ふ事実がハツキリとわかると、流石《さすが》に眠る者が一人も無くなつた。毎日毎晩、今か/\と其の時機を待つて居るうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向ふの獄舎へ提灯が近付いてゴト/\人声がし始めたので、素破《すは》こそと皆蹶起して正座し、その方向に向つて両手を支へた。メソ/\と泣出した少年も居た。
そのうちに四五人の人影が固まつて向ふの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思ふと、その中でも武部先生らしい一人がピツタリと立佇まつて四方を見まはした。少年連の居る獄舎の位置を心探しにしてゐる様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるやうな颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。
「行《ゆ》くぞオォーオオオーー」
健児社の健児十六名。思はず獄舎の床に平伏《ひれふ》して顔を上げ得なかつた。オイ/\声を立てゝ泣出した者も在つたと云ふ。
「あれが先生の声の聞き納めぢやつたが、今でも骨の髄まで泌み透つて居て、忘れやうにも忘れられん。あの声は今日まで自分《わし》の臓腑《はらわた》の腐り止めになつて居る。貧乏といふものは辛労《きつ》いもので、妻子が飢ゑ死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなり度うなるものぢや。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんやうになるものぢやが、其様《そげ》な時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思ひ出すと、腸《はらわた》がグル/\/\とデングリ返つて来る。何もかも要らん、『行くぞオ』と云ふ気もちになる。貧乏が愉快になつて来る。先生……先生と思ふてなあ……」
と云ふうちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタ/\と滾《こぼ》れ落ちるのを筆者は見た。
奈良原到少年の腸《はらわた》は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかつた。
健児社の連中は、広い営庭の遙か向ふの獄舎に武部先生が繋がれて居る事を何処からとも無く聞き知つた。多分獄吏の中の誰かゞ、健気な少年連の態度に心を動かして同情して居たのであらう。武部先生が、わざ/\大分から引返して来て、縛に就かれた前後の事情を聞き伝へると同時に「事敗れて後に天下の成行を監視する責任は、お前達少年の双肩に在るのだぞ」と訓戒された、その精神を実現せしむ可く武部先生が、死を決して自分達を救ひに御座つたものである事を皆、無言の裡に察知したのであつた。
その翌日から、同じ獄舎に繋がれて居る少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向つて礼拝した「先生。お早やう御座います」と口の中で云つて居たが、そのうちに武部先生が一切の罪を負つて斬られさつしやる……俺達はお蔭で助かる……と云ふ事実がハツキリとわかると、流石《さすが》に眠る者が一人も無くなつた。毎日毎晩、今か/\と其の時機を待つて居るうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向ふの獄舎へ提灯が近付いてゴト/\人声がし始めたので、素破《すは》こそと皆蹶起して正座し、その方向に向つて両手を支へた。メソ/\と泣出した少年も居た。
そのうちに四五人の人影が固まつて向ふの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思ふと、その中でも武部先生らしい一人がピツタリと立佇まつて四方を見まはした。少年連の居る獄舎の位置を心探しにしてゐる様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるやうな颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。
「行《ゆ》くぞオォーオオオーー」
健児社の健児十六名。思はず獄舎の床に平伏《ひれふ》して顔を上げ得なかつた。オイ/\声を立てゝ泣出した者も在つたと云ふ。
「あれが先生の声の聞き納めぢやつたが、今でも骨の髄まで泌み透つて居て、忘れやうにも忘れられん。あの声は今日まで自分《わし》の臓腑《はらわた》の腐り止めになつて居る。貧乏といふものは辛労《きつ》いもので、妻子が飢ゑ死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなり度うなるものぢや。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんやうになるものぢやが、其様《そげ》な時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思ひ出すと、腸《はらわた》がグル/\/\とデングリ返つて来る。何もかも要らん、『行くぞオ』と云ふ気もちになる。貧乏が愉快になつて来る。先生……先生と思ふてなあ……」
と云ふうちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタ/\と滾《こぼ》れ落ちるのを筆者は見た。
奈良原到少年の腸《はらわた》は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかつた。
長文の引用になったが、近世快人伝中の白眉というべきこの一節は、あまりにも有名である。全篇ユーモアとナンセンスに包まれたようなこの評伝の中で、この部分は読む者の胸を打つ。武部小四郎の声が、読む者にも聞こえてくるような、見事な文章である。
奈良原らが釈放されたのは明治十年九月二十四日、すなわち西郷隆盛が敗走の果てに郷里鹿児島の城山で自刃した、その日であった。釈放された奈良原らは、海の中道に開墾社(向浜塾とも)を開き、隣接する松林(かつて家老加藤司書の所有地であった)の払い下げを受けて、薪を作って売りさばく傍ら、漢籍などの学習に勤しんだ。
翌明治十一年五月、東京紀尾井町に大久保利通が斬殺される。報を受けた頭山満と奈良原至は、直ちに土佐の高知へ板垣退助を訪ねたとされる(補註5)。前参議で戊辰の役に功のあった板垣は、西郷隆盛亡きあと、軍事力に期待できる唯一の在野勢力であった。頭山らの意図は、板垣に挙兵の意志があるのなら、これに呼応しようとするものであったが、頭山らを引見した板垣は「西郷にして既に兵に敗る、吾兵を動かす意なし」と言い、挙兵の意志を否定した。却って板垣は立憲政体の意義を説き、民権運動による政治変革を提唱した。
頭山は板垣の勧説に動かされ、奈良原もまた板垣の人物に感じた。このことによって、のちに向陽社を経て玄洋社となるべき集団の、歩むべき道が定まった。奈良原や頭山らは、自由民権論者として政治に関わろうとすることになったのである。
その年の九月、大阪において愛国社再興集会が開かれた。福岡から参加したのは頭山満と、成美社の進藤喜平太である。頭山は、自由党史によれば「客地から直に會す」とあるから、高知から直接大阪入りしたものと思われる。進藤の肩書きとなっている成美社は、福岡新聞(のちに筑紫新報と合併して福岡日々新聞となる)を発行していた新聞社である。頭山や進藤、奈良原らが出獄後に開いた開墾社は、その頃には経営不振から閉鎖を迎えていたのであるが、「玄洋社社史」によれば成美社の社長吉田利行が開いていた私塾の成美義塾が、その後頭山らに譲り渡され向陽義塾と改称され、同時に政社としての向陽社が組織されたものであることから、愛国社再興集会における進藤の肩書きは、そうした経緯の中から一時的に使用されたものであろう。頭山とともに高知に板垣を訪ねた奈良原至は、六月に越前の杉田定一を伴って帰福しており、愛国社集会には参加していないようである。
奈良原が愛国社集会に参加するのは翌明治十二年三月の第二回集会である。このとき、箱田六輔とともに正倫社の肩書きで参加した奈良原は、会議において東京分社設置を提議したという。石瀧豊美の「玄洋社発掘」によれば、正倫社とは当の箱田や奈良原らが拠る向陽社のダミーであり、向陽社内部において愛国社への参加をめぐる意見の相違があり、積極派の箱田らが正倫社を名乗って愛国社集会に参加したものである。
同年十一月の第三回集会において、民選議院開設に向け、全国を十の地域に分けて、各地の政社から遊説員を派遣することが決議された。十の地域とは、九州、四国、山陰、山陽、近畿、中仙道、東海道、北陸道、関東、奥羽である。そして、北陸道の遊説員に選ばれたのが奈良原至である。このとき、頭山満は日薩地方へ、的野恒喜(来島恒喜)は壱岐、対馬、五島などに遊説に向かっている。
奈良原は大阪から京都を経て福井県の小浜へ向かい、さらに武生から福井へと、各地で演説会を開いて遊説に当たった。福井までは杉田定一が同行したが、福井から金沢へは単独行、金沢で中島清愛という人物の同行を得て、さらに富山から新潟県の三条へ。
こうした奈良原の活躍ぶりは、さながら颯爽たる民権運動のリーダー然としていて、夢野久作が「近世快人伝」で書き記した、直情径行、横暴無頼の奈良原のイメージとは相当に異なっているといわざるを得ない。さらに奈良原は、この時期に「明治血痕集」を執筆し、さらに北陸遊説の記録をも遺しているのである。奈良原とは、実は演説もできれば文筆にも長けた教養人であったと言えよう。
しかしその後、奈良原はいつの間にか民権運動の表舞台を去ってしまう。向陽社を改称して玄洋社が発足した明治十二年末(補註6)時点での奈良原の動向は不明だが、翌明治十三年五月十三日付け進藤喜平太の名で福岡県警察本署へ提出された「玄洋社設置御届」に添えられた社員名簿に奈良原の名はなく、その年十月になって頭山満らとともに入社届が出されている。そして明治十四年一月の役員改選で、奈良原は幹事に選ばれているのだが、明治十五年七月現在の社員名簿からは既に奈良原の名は失われているのである。
民権運動の黎明期以後、奈良原の名は歴史から忘却されてしまう。その後半生は夢野久作の「近世快人伝」に拠る以外に、知る由もない。久作によれば奈良原は、明治中葉、福岡市の須崎監獄の典獄(補註7)となった後、日清戦争後に日本領となった台湾に渡って巡査となった。台湾から帰国後は福岡市の千代町役場に勤めた後、娘の嫁ぎ先である北海道に移住、大正元年に頭山満らによって福岡に呼び戻され玄洋社の二階に起居、その後対馬の親族の元で大正六乃至七年頃に死去したという。
奈良原の晩年については、石瀧豊美に久作の著作を補ういくつかの研究がある。それによって若干の補足をすると、奈良原は大正四年には女婿を頼って対馬へ渡るが、婿の家は狭く、子供もいることから、近所の農家の二階に間借りをしていた。農業に従事していた模様だが貧窮は相変わらずで、福岡の宮川太一郎から帰福を慫慂されても「例ノ達磨ニ付、オ葦ヲ渡セ」などと答えているし、親交があったと思しき清原強之助には、野菜の種子、葡萄の蔓、草花の種子などを無心する葉書を送っている。
奈良原が死んだのは、大正六年四月六日、六十一歳であった。
奈良原の人生は謎ばかりである。夢野久作の「近世快人伝」によって、その人となりや人生の概略は承知し得たとしても、実は久作の書いたものの中からも、大きな謎が生み出されている。筆者は奈良原について、以下の三点の大きな謎を、ここに提示しておこう。
第一は、奈良原はなにゆえ政治運動の表舞台から消え去ったのか、という点である。
この点について、久作は「奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容《い》れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却され」たと言い、「遂には玄洋社一派とも相容れなくなった位、極度に徹底した正義観念——もしくは病的に近い潔癖」がわざわいしたのだと結論付けている。この論は、奈良原自身と親しく交わった久作自身が、奈良原自身や玄洋社の社員たちから聞き取った話の記憶に基づくものであろうから、おそらく正鵠を射ているに違いない。では、奈良原はいったい何に対して清廉潔白を貫こうとしたのであろうか。奈良原の何に対する潔癖さが、他の玄洋社員と相容れなくなったのであろうか。それは玄洋社の性格の変容——民権主義から国権主義への転向と、何らかの関係はないのであろうか。
第二は、奈良原は武部小四郎の最後の絶叫をどうやって聞いたのか、という点である。
少し歴史を振り返る必要がある。箱田六輔や頭山満、奈良原至らが警察に捕縛されたのは、明治九年十一月七日から十一日にかけてのことであった。このとき、武部小四郎や越智彦四郎は救出を謀って遂げ得ず、鹿児島に遁れた。福岡県令渡辺清は、逮捕した頭山らを斬首しようとしたが、偶々福岡に滞在していた内務少輔林友幸の勧説により、武部ら残党の救出活動の及ばない山口の監獄へ、箱田以下の身柄を移したのである。そのとき汽船で山口へ送られたのは、箱田六輔、宮川太一郎、進藤喜平太、奈良原至、頭山満、松浦愚、阿部武三郎ら十人であったと、頭山満自身が述懐している。すなわち、武部小四郎が福岡の変に敗れて逮捕されたとき、奈良原たちは山口の監獄に収監されていたはずであり、逮捕後わずか二日にして斬首された武部が山口の監獄に移送された筈もないから、奈良原が武部の絶叫を聞くことができたとは考えられない。また、玄洋社や頭山満に関する様々な文献にも、「近世快人伝」から引用したものをのぞき、武部処刑の際の絶叫を書き留めたものは見あたらない。奈良原至自身の著述「明治血痕集」にも、そのような記述はされていないことも付言しておかねばなるまい。「近世快人伝」は武部刑死の場面に、真っ白な月と霜のイメージを与えている。武部の処刑は既述のとおり五月初頭のことであり、よほどの遅霜でもない限り、降霜の時期はとうに過ぎている。しかし、これが奈良原の記憶に残る武部の絶叫の時期を見出す手がかりになるかも知れぬ。
第三は、北海道にあった奈良原を頭山らが呼び戻したのは何故か、という点である。
夢野久作は「大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の委嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下」ったと説明する。筆者には、この「憲政擁護運動のため」という言葉が妙に引っかかるのである。周知のように憲政擁護運動とは、二個師団増設をめぐる上原勇作陸軍大臣の単独辞表捧呈によって第二次西園寺内閣が倒れた後、内府となって間もない桂太郎が、大正天皇の勅語を受けてその第三次内閣を組閣したことに対し、国民党の犬養毅、政友会の尾崎行雄、岡崎邦輔などが中心となって、藩閥政治の打破や憲政の擁護を叫んで起こった運動である。犬養ら護憲派の運動は国民的な潮流となり、福岡においても国民党と政友会による憲政擁護福岡県民大会が大正二年の一月に開催されている。桂太郎は、こうした民衆を巻き込んだ運動の圧力を支えきれず、僅か五十日で退陣することとなったのである。夢野久作の一文をこの歴史の中に対置してみるなら、福岡での護憲運動に協力するために、頭山満や杉山茂丸が奈良原を北海道から呼び戻し、福岡へ送り込んだものと読むことができる。しかし、頭山や杉山が、果たして政党のこうした運動に協力することがある得るのだろうか。頭山も杉山も、政党嫌いにかけては人後に落ちないのだから、そもそも政党と結託するかのような行動が想起できない。一歩譲るなら、桂に対する弾劾の言辞には、内大臣から首相への転身を「宮中・府中の別を乱す」というものがあり、それ自体は頭山やその周囲にある国家主義勢力が唱えることに違和感はないと言えようが、しかし頭山の伝記や玄洋社の社史にも、憲政擁護運動への関与についての記述はない。そして、とりわけ杉山にとって桂太郎とは、日露戦争から日韓合邦にいたる、その政治的閲歴の頂点をともにした盟友である。その桂の息の根を止めるような運動に、杉山茂丸が関与していたとは考え難い。また福岡には進藤喜平太が健在であり、憲政擁護運動のために、奈良原至を呼び戻す必然性があったとも思えないのである。
あるいはこれら筆者の指摘は、夢野久作の「近世快人伝」を貶めんとするもののように受け止められるやも知れぬ。否、久作の著述があって、初めて奈良原という魅力的な人物が歴史にとどめられたのであり、その存在があるから謎がある。久作の書いたものだけで奈良原を理解することはできないことを提示したものに過ぎない。
奈良原という人物は、どこまでも一筋縄ではいかないのである。
奈良原らが釈放されたのは明治十年九月二十四日、すなわち西郷隆盛が敗走の果てに郷里鹿児島の城山で自刃した、その日であった。釈放された奈良原らは、海の中道に開墾社(向浜塾とも)を開き、隣接する松林(かつて家老加藤司書の所有地であった)の払い下げを受けて、薪を作って売りさばく傍ら、漢籍などの学習に勤しんだ。
翌明治十一年五月、東京紀尾井町に大久保利通が斬殺される。報を受けた頭山満と奈良原至は、直ちに土佐の高知へ板垣退助を訪ねたとされる(補註5)。前参議で戊辰の役に功のあった板垣は、西郷隆盛亡きあと、軍事力に期待できる唯一の在野勢力であった。頭山らの意図は、板垣に挙兵の意志があるのなら、これに呼応しようとするものであったが、頭山らを引見した板垣は「西郷にして既に兵に敗る、吾兵を動かす意なし」と言い、挙兵の意志を否定した。却って板垣は立憲政体の意義を説き、民権運動による政治変革を提唱した。
頭山は板垣の勧説に動かされ、奈良原もまた板垣の人物に感じた。このことによって、のちに向陽社を経て玄洋社となるべき集団の、歩むべき道が定まった。奈良原や頭山らは、自由民権論者として政治に関わろうとすることになったのである。
その年の九月、大阪において愛国社再興集会が開かれた。福岡から参加したのは頭山満と、成美社の進藤喜平太である。頭山は、自由党史によれば「客地から直に會す」とあるから、高知から直接大阪入りしたものと思われる。進藤の肩書きとなっている成美社は、福岡新聞(のちに筑紫新報と合併して福岡日々新聞となる)を発行していた新聞社である。頭山や進藤、奈良原らが出獄後に開いた開墾社は、その頃には経営不振から閉鎖を迎えていたのであるが、「玄洋社社史」によれば成美社の社長吉田利行が開いていた私塾の成美義塾が、その後頭山らに譲り渡され向陽義塾と改称され、同時に政社としての向陽社が組織されたものであることから、愛国社再興集会における進藤の肩書きは、そうした経緯の中から一時的に使用されたものであろう。頭山とともに高知に板垣を訪ねた奈良原至は、六月に越前の杉田定一を伴って帰福しており、愛国社集会には参加していないようである。
奈良原が愛国社集会に参加するのは翌明治十二年三月の第二回集会である。このとき、箱田六輔とともに正倫社の肩書きで参加した奈良原は、会議において東京分社設置を提議したという。石瀧豊美の「玄洋社発掘」によれば、正倫社とは当の箱田や奈良原らが拠る向陽社のダミーであり、向陽社内部において愛国社への参加をめぐる意見の相違があり、積極派の箱田らが正倫社を名乗って愛国社集会に参加したものである。
同年十一月の第三回集会において、民選議院開設に向け、全国を十の地域に分けて、各地の政社から遊説員を派遣することが決議された。十の地域とは、九州、四国、山陰、山陽、近畿、中仙道、東海道、北陸道、関東、奥羽である。そして、北陸道の遊説員に選ばれたのが奈良原至である。このとき、頭山満は日薩地方へ、的野恒喜(来島恒喜)は壱岐、対馬、五島などに遊説に向かっている。
奈良原は大阪から京都を経て福井県の小浜へ向かい、さらに武生から福井へと、各地で演説会を開いて遊説に当たった。福井までは杉田定一が同行したが、福井から金沢へは単独行、金沢で中島清愛という人物の同行を得て、さらに富山から新潟県の三条へ。
こうした奈良原の活躍ぶりは、さながら颯爽たる民権運動のリーダー然としていて、夢野久作が「近世快人伝」で書き記した、直情径行、横暴無頼の奈良原のイメージとは相当に異なっているといわざるを得ない。さらに奈良原は、この時期に「明治血痕集」を執筆し、さらに北陸遊説の記録をも遺しているのである。奈良原とは、実は演説もできれば文筆にも長けた教養人であったと言えよう。
しかしその後、奈良原はいつの間にか民権運動の表舞台を去ってしまう。向陽社を改称して玄洋社が発足した明治十二年末(補註6)時点での奈良原の動向は不明だが、翌明治十三年五月十三日付け進藤喜平太の名で福岡県警察本署へ提出された「玄洋社設置御届」に添えられた社員名簿に奈良原の名はなく、その年十月になって頭山満らとともに入社届が出されている。そして明治十四年一月の役員改選で、奈良原は幹事に選ばれているのだが、明治十五年七月現在の社員名簿からは既に奈良原の名は失われているのである。
民権運動の黎明期以後、奈良原の名は歴史から忘却されてしまう。その後半生は夢野久作の「近世快人伝」に拠る以外に、知る由もない。久作によれば奈良原は、明治中葉、福岡市の須崎監獄の典獄(補註7)となった後、日清戦争後に日本領となった台湾に渡って巡査となった。台湾から帰国後は福岡市の千代町役場に勤めた後、娘の嫁ぎ先である北海道に移住、大正元年に頭山満らによって福岡に呼び戻され玄洋社の二階に起居、その後対馬の親族の元で大正六乃至七年頃に死去したという。
奈良原の晩年については、石瀧豊美に久作の著作を補ういくつかの研究がある。それによって若干の補足をすると、奈良原は大正四年には女婿を頼って対馬へ渡るが、婿の家は狭く、子供もいることから、近所の農家の二階に間借りをしていた。農業に従事していた模様だが貧窮は相変わらずで、福岡の宮川太一郎から帰福を慫慂されても「例ノ達磨ニ付、オ葦ヲ渡セ」などと答えているし、親交があったと思しき清原強之助には、野菜の種子、葡萄の蔓、草花の種子などを無心する葉書を送っている。
奈良原が死んだのは、大正六年四月六日、六十一歳であった。
奈良原の人生は謎ばかりである。夢野久作の「近世快人伝」によって、その人となりや人生の概略は承知し得たとしても、実は久作の書いたものの中からも、大きな謎が生み出されている。筆者は奈良原について、以下の三点の大きな謎を、ここに提示しておこう。
第一は、奈良原はなにゆえ政治運動の表舞台から消え去ったのか、という点である。
この点について、久作は「奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容《い》れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却され」たと言い、「遂には玄洋社一派とも相容れなくなった位、極度に徹底した正義観念——もしくは病的に近い潔癖」がわざわいしたのだと結論付けている。この論は、奈良原自身と親しく交わった久作自身が、奈良原自身や玄洋社の社員たちから聞き取った話の記憶に基づくものであろうから、おそらく正鵠を射ているに違いない。では、奈良原はいったい何に対して清廉潔白を貫こうとしたのであろうか。奈良原の何に対する潔癖さが、他の玄洋社員と相容れなくなったのであろうか。それは玄洋社の性格の変容——民権主義から国権主義への転向と、何らかの関係はないのであろうか。
第二は、奈良原は武部小四郎の最後の絶叫をどうやって聞いたのか、という点である。
少し歴史を振り返る必要がある。箱田六輔や頭山満、奈良原至らが警察に捕縛されたのは、明治九年十一月七日から十一日にかけてのことであった。このとき、武部小四郎や越智彦四郎は救出を謀って遂げ得ず、鹿児島に遁れた。福岡県令渡辺清は、逮捕した頭山らを斬首しようとしたが、偶々福岡に滞在していた内務少輔林友幸の勧説により、武部ら残党の救出活動の及ばない山口の監獄へ、箱田以下の身柄を移したのである。そのとき汽船で山口へ送られたのは、箱田六輔、宮川太一郎、進藤喜平太、奈良原至、頭山満、松浦愚、阿部武三郎ら十人であったと、頭山満自身が述懐している。すなわち、武部小四郎が福岡の変に敗れて逮捕されたとき、奈良原たちは山口の監獄に収監されていたはずであり、逮捕後わずか二日にして斬首された武部が山口の監獄に移送された筈もないから、奈良原が武部の絶叫を聞くことができたとは考えられない。また、玄洋社や頭山満に関する様々な文献にも、「近世快人伝」から引用したものをのぞき、武部処刑の際の絶叫を書き留めたものは見あたらない。奈良原至自身の著述「明治血痕集」にも、そのような記述はされていないことも付言しておかねばなるまい。「近世快人伝」は武部刑死の場面に、真っ白な月と霜のイメージを与えている。武部の処刑は既述のとおり五月初頭のことであり、よほどの遅霜でもない限り、降霜の時期はとうに過ぎている。しかし、これが奈良原の記憶に残る武部の絶叫の時期を見出す手がかりになるかも知れぬ。
第三は、北海道にあった奈良原を頭山らが呼び戻したのは何故か、という点である。
夢野久作は「大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の委嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下」ったと説明する。筆者には、この「憲政擁護運動のため」という言葉が妙に引っかかるのである。周知のように憲政擁護運動とは、二個師団増設をめぐる上原勇作陸軍大臣の単独辞表捧呈によって第二次西園寺内閣が倒れた後、内府となって間もない桂太郎が、大正天皇の勅語を受けてその第三次内閣を組閣したことに対し、国民党の犬養毅、政友会の尾崎行雄、岡崎邦輔などが中心となって、藩閥政治の打破や憲政の擁護を叫んで起こった運動である。犬養ら護憲派の運動は国民的な潮流となり、福岡においても国民党と政友会による憲政擁護福岡県民大会が大正二年の一月に開催されている。桂太郎は、こうした民衆を巻き込んだ運動の圧力を支えきれず、僅か五十日で退陣することとなったのである。夢野久作の一文をこの歴史の中に対置してみるなら、福岡での護憲運動に協力するために、頭山満や杉山茂丸が奈良原を北海道から呼び戻し、福岡へ送り込んだものと読むことができる。しかし、頭山や杉山が、果たして政党のこうした運動に協力することがある得るのだろうか。頭山も杉山も、政党嫌いにかけては人後に落ちないのだから、そもそも政党と結託するかのような行動が想起できない。一歩譲るなら、桂に対する弾劾の言辞には、内大臣から首相への転身を「宮中・府中の別を乱す」というものがあり、それ自体は頭山やその周囲にある国家主義勢力が唱えることに違和感はないと言えようが、しかし頭山の伝記や玄洋社の社史にも、憲政擁護運動への関与についての記述はない。そして、とりわけ杉山にとって桂太郎とは、日露戦争から日韓合邦にいたる、その政治的閲歴の頂点をともにした盟友である。その桂の息の根を止めるような運動に、杉山茂丸が関与していたとは考え難い。また福岡には進藤喜平太が健在であり、憲政擁護運動のために、奈良原至を呼び戻す必然性があったとも思えないのである。
あるいはこれら筆者の指摘は、夢野久作の「近世快人伝」を貶めんとするもののように受け止められるやも知れぬ。否、久作の著述があって、初めて奈良原という魅力的な人物が歴史にとどめられたのであり、その存在があるから謎がある。久作の書いたものだけで奈良原を理解することはできないことを提示したものに過ぎない。
奈良原という人物は、どこまでも一筋縄ではいかないのである。
《補註1》
夢野久作はその代表的評伝「近世快人伝」において、奈良原の名を「到」と表記している。また、「西南記傳」や「玄洋社社史」においても「到」と表記されているが、明治十四年に出版された奈良原の著書「明治血痕集」では「至」と表記されていることから、本稿では引用文を除き「至」と表記する。
《補註2》
正しくは堅志社である。
《補註3》
「玄洋社社史」の記述によった。奈良原至の「明治血痕集」と頭山統一の「筑前玄洋社」は、武部の処刑を五月三日と記している。
《補註4》
堅志社の誤りであろうが、投獄されていたのは堅志社の者ばかりではない。なお武部捕縛前後の経緯について、久作の記述は正確とは言い難い。筆者の別稿「玄洋社社史概観 1.筑前勤王党から西南戦争へ」を参照。
《補註5》
「玄洋社社史」の記述による。実際には、大久保暗殺以前の同年四月中に、既に頭山と奈良原は高知に滞在している。
《補註6》
玄洋社の成立時期については論議のあるところだが、ここでは石瀧豊美の説に拠っている。なお、玄洋社の正統である社団法人玄洋社記念館の館報「玄洋」も、玄洋社設立時期は明治十二年説を採用している。
《補註7》
石瀧豊美「玄洋社関係資料の紹介 第3回」(玄洋社記念館館報「玄洋」第60号)によれば、奈良原が就いたのは典獄(刑務所長)ではなく、福岡監獄の看守長である。
夢野久作はその代表的評伝「近世快人伝」において、奈良原の名を「到」と表記している。また、「西南記傳」や「玄洋社社史」においても「到」と表記されているが、明治十四年に出版された奈良原の著書「明治血痕集」では「至」と表記されていることから、本稿では引用文を除き「至」と表記する。
《補註2》
正しくは堅志社である。
《補註3》
「玄洋社社史」の記述によった。奈良原至の「明治血痕集」と頭山統一の「筑前玄洋社」は、武部の処刑を五月三日と記している。
《補註4》
堅志社の誤りであろうが、投獄されていたのは堅志社の者ばかりではない。なお武部捕縛前後の経緯について、久作の記述は正確とは言い難い。筆者の別稿「玄洋社社史概観 1.筑前勤王党から西南戦争へ」を参照。
《補註5》
「玄洋社社史」の記述による。実際には、大久保暗殺以前の同年四月中に、既に頭山と奈良原は高知に滞在している。
《補註6》
玄洋社の成立時期については論議のあるところだが、ここでは石瀧豊美の説に拠っている。なお、玄洋社の正統である社団法人玄洋社記念館の館報「玄洋」も、玄洋社設立時期は明治十二年説を採用している。
《補註7》
石瀧豊美「玄洋社関係資料の紹介 第3回」(玄洋社記念館館報「玄洋」第60号)によれば、奈良原が就いたのは典獄(刑務所長)ではなく、福岡監獄の看守長である。
参考文献
●「近世快人伝」夢野久作・葦書房・1995●「増補版 玄洋社発掘 もうひとつの自由民権」石瀧豊美・西日本新聞社・1997
●「玄洋社関係資料の紹介 第3回、第5回」石瀧豊美・玄洋社記念館館報「玄洋」第60、62号所載・1995
●「玄洋社社史」玄洋社社史編纂会・近代資料出版会・1977
●「九州における近代の思想状況」西尾陽太郎・平凡社「九州文化論集4 日本近代と九州」1972所収
●「筑前玄洋社」頭山統一・葦書房・1988
●「頭山満翁正伝 未定稿」頭山満翁正伝編纂委員会・葦書房・1981
●「西南記傳 第六巻」黒龍会・国立国会図書館近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/index.html)
●「自由党史(上)」板垣退助監修・岩波書店・1997
●「日本の歴史23 大正デモクラシー」今井清一・中央公論社・1992
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