人物誌タイトル画像
久作関係人物誌




玄洋社史概観(1.筑前勤王党から西南戦争へ)
玄洋社の歴史を考察するには、その前史としての筑前勤王党の悲劇から説きはじめなければならない。
 筑前五十二万石の地を領する雄藩黒田家は、藩祖長政より数えて十一代に当たる長溥が薩摩の島津重豪の第九子として出生して黒田家を継いだ人物であったことや、その地理的条件から、幕末動乱期に徳川家と対峙する薩摩・長州に対する影響力が強く、また藩の目指すところも勤王の色彩が強かったと言われる。
 その中心に在ったのが家老加藤司書であり、加藤を取り巻く勤王党急進派として声名高かったのが建部武彦、月形洗蔵らであった。
 筑前藩は元治元年の第一次征長戦争の際には、対立する関係にあった薩長両藩の間に立ってその和解を斡旋し、その前年の文久三年に公武合体派が京都から尊皇攘夷派を一掃した政変において都を落ちた三条実美ら五人の公卿を太宰府に迎え入れるなど、勤王派諸藩の中にあって歴然たる存在感を誇示していたが、幕府の勤王派諸藩に対する圧迫が激しくなると、かつて勤王派に理解を示し、その思想をもって藩の方針たることを容認していた藩主黒田長溥は、藩内佐幕派の巻き返しもあって、藩論を一変させた。
 慶応元年十月、加藤司書ら筑前勤王党と呼ばれた藩士たちは、切腹七名、斬首十四名など、総勢百四十名にのぼる大量の処刑者を出すこととなった。
 これが筑前勤王党を壊滅させた「乙丑の獄」である。
 しかし歴史の流れは、勤王派を断罪した佐幕派の思惑の外にあった。慶応二年の第二次征長は幕府の無惨な敗北に終わり、翌年十月には徳川慶喜の起死回生の秘策ともいうべき大政奉還がなされたが、薩長の攻勢を巻き返すことはできず、慶応四年一月の鳥羽伏見の合戦へとなだれ込んで行った。その結果、乙丑の獄以後、福岡藩の政務を掌握してきた浦上数馬ら三家老は腹を切ることとなったのである。
 追い打ちをかけるように、明治三年、筑前藩は新政府から贋札事件を咎められ、旧藩主たる黒田長知が知事を罷免され、藩の重臣五名が斬首されることとなった。
 このような歴史を経て、薩長を中心とした藩閥による明治新政府の専制化は強化され、一方で幕藩体制において有力な大名であった黒田家とその家臣団の政治的地位は、凋落の一途を辿ったのである。乙丑の獄以降の筑前福岡藩の内争は、筑前藩から有為の士を悉く失わしめることとなり、薩長連合による維新鴻業に際し、筑前藩はその原動力たる地位を占めることができなかった。その事実は、幕府の瓦解と明治新政府の創建という大変革の過程において、国を動かす人材を一人たりとも供給できないという結果を生んだのであり、それはさながら幕末動乱期に国論を主導する地位にありながら安政大地震によって藤田東湖を失い、天狗党の反乱によってまた武田耕雲斎、藤田小四郎ら有為の士を失った水戸藩の凋落を髣髴とさせる。
 しかし、これらの歴史の片隅では、次代を担う人材育成が胎動しつつあった。
 福岡藩の儒学の祖ともいうべき亀井南冥の孫に当たる亀井暘洲の門下生で、「亀門の四天王」に数えられた高場乱(たかば・おさむ)は、眼科医高場正山の末娘として出生して父の跡を継ぎ、生涯を男裝で過ごし帯刀をも許されたという異色の女性であった。高場乱は安政年間に私塾を興し、のち現在の博多駅近くに塾を移して儒学を講じた。高場の私塾は正式には興志塾と称するが、その所在地が朝鮮人参の栽培地にあったことから、俗に「人参畑塾」と呼ばれている。
 高場乱の興志塾に学んだ青年の中から、次代の指導者たるべき人物が育った。その筆頭に挙げられるのが武部小四郎と越智彦四郎である。武部は乙丑の獄で処刑された建部武彦の子であり、また越智彦四郎は戊申の役に黒田藩が皇軍の一員として出兵した際に従軍して武功のあった人物で、それぞれ凋落していた福岡黒田藩において人望を集めつつあったものである。そして武部や越智に遅れて興志塾に学んだ人物に、のちに玄洋社を興すこととなる箱田六輔、進藤喜平太、奈良原至、宮川太一郎、頭山満らがあった。
 筑前福岡の政治的凋落をよそに、明治維新の原動力となった薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、後藤象二郎、肥前の江藤新平、大隈重信らによる新政府は、廃藩置県、秩禄処分などの政策を断行し、着々とその地歩を固めつつあったが、明治六年に至り所謂征韓論を契機として、内治派と外征派に別れて政争を招来した。太政大臣三条実美が無能をさらけ出したこの政争に勝利を収めたのが、内治派たる大久保利通や木戸孝允であったことは周知のとおりである。その結果、西郷、江藤、板垣、後藤らは官職を辞し野に下った。明治史の一大転換点たる「明治六年政変」である。
 これ以降、冷徹な官僚主義を徹底した大久保の手腕によって、明治新政府はその権力機構を確固たるものにしたのであるが、一方で秩禄処分によって困窮するかつての武士層には、新政府に対する不満が澎湃としてきた。
 明治六年政変から西南戦争に至る歴史は、そうした不平士族の明治政府に対する鬱積の爆発の歴史であった。そして武部小四郎や越智彦四郎も、凋落し辛酸を嘗める福岡の不平士族の指導者として、藩閥政権に対する叛逆の芽を着々と育てていたのである。
 征韓論に敗れて参議を辞し三ヶ月、明治七年二月に江藤新平は郷国佐賀において、元秋田県令の島義勇とともに挙兵した。「佐賀の乱」である。江藤らの辞職によって明治政府の最高権力を掌中に治めていた大久保利通は、自ら兵を率いて鎮定に出馬し、同月十七日に博多へ入った。このとき、越智彦四郎は政府軍の一員として箱田、宮川ら四百五十名を率いて佐賀に入った。越智は佐賀に入ってのちに江藤と通じ、叛乱軍に寝返る心算であったというが、政府軍から支給された銃の口径と弾薬の口径とが相違していたために、この計画は失敗に終わったと伝えられる。福岡の藩兵集団を佐賀に派遣することを決定したのは大久保と児玉源太郎であったという。大久保の怜悧な頭脳と児玉の智謀の前では、越智の秘策も筒抜けだったということであろうか。なお、福岡の青年士族の一方の旗頭である武部小四郎は、このとき政府と江藤の斡旋を図り事件の穏便な解決を志向していたため、戦いの火蓋が切られた後はいずれにも与しなかったという。
 佐賀の乱から一年後の明治八年二月、大阪において民権の確立を目指した愛国社創立集会が開催された。前参議板垣退助率いる土佐立志社の主唱に応じ、全国から集まった人々の中に、武部小四郎と越智彦四郎も福岡を代表して参加していた。
 我が国における政党運動の嚆矢となるこの集会から帰福した武部と越智は、それぞれ同志を糾合して政社を興した。武部が率いたのは矯志社と称し、社員には平岡浩太郎、頭山満、進藤喜平太、宮川太一郎、阿部武三郎、林斧助、松浦愚、月成元雄(福岡藩中老月成家の長子、月成勲、光らの長兄である)らの名が見られる。後年玄洋社を興し、その中核となった面々が顔を揃えていた。一方、越智が興した強忍社には、久光忍太郎、舌間慎吾、大畠太七郎らがいた。更に、この矯志、強忍の二社と並んで結成された堅志社は、箱田六輔が社長を務め、社員には中島翔、奈良原至、月成功太郎、来島恒喜(当時は的野姓)らがいた。
 福岡の民権運動は、この三社が鼎立して黎明を迎えることとなったのであるが、箱田や奈良原はのち矯志社にも加盟しており、その社員は相互に出入りがあったものと推定される。玄洋社社史はこの三社の関係を「名同じからずと雖も、素より其實は一なり、其志も一なり、其行はんとする所も一なり」と表現している。そしてその「行はんとする所」とは、有司專制の藩閥政府を覆すことにあったのはいうまでもない。そのため「宜敷天下四方の同志と款を通じ以て大義を詢へ、其目的を貫かざる可らず」との認識のもとに、鹿児島の西郷隆盛や、西郷らより早く明治三年に参議を辞職していた萩の前原一誠らとの間に誼を通じていたのであった。
 しかし、このことは一面、当時の民権運動が言論による專制政府との対峙という、本来の民権思想にまで昇華していなかったことをも意味する。当時の我が国においてただ一人の陸軍大将であった西郷に対するシンパシーは、その軍事的実力に対する期待でもあった。一方で民意を施政に反映させようとする民権運動に名を連ね、もう一方で武力によるクーデターを意識するという背反した行動の裡には、武によって死ぬことを使命とする武士の思想が色濃く反映されている。目的は政府の転覆にあって、それが言論によるものであろうと、武力によるものであろうと、手段はいかようにも講じればよいという思想が、武士たる意識を引きずる武部らの限界であったともいえよう。
 一方、愛国社創立集会を主導した板垣退助は、並行して大久保や木戸孝允との大阪会議に臨み、元老院や大審院の設立、地方官会議の開催など政府改革を行うことを条件として、明治八年三月、参議に復帰した。板垣にとっては民権の伸張を実現するための足掛かりであったのだろうが、愛国社創立の主導者たる板垣の政府復帰という事実が、武力と言論との間で揺れ動く武部らに与えた影響がネガティヴなものであったことは想像に難くない。
 対立していた板垣と木戸を政府に引き込んだ大久保は、明治九年三月に廃刀令を公布し、さらに八月には金禄公債の発行によって士族の禄制の完全な廃止を断行した。
 大久保政権のこうした專制に対し、真っ先に叛乱の烽火を挙げたのは、狂的な神道信奉者であった熊本の太田黒伴雄であった。太田黒は明治九年十月二十四日に挙兵し、熊本県令安岡良亮や熊本鎮台司令長官種田政明らを殺害したが、夜襲を逃れた児玉源太郎指揮の鎮台兵によって鎮圧された。これが「熊本神風連の乱」と呼ばれる士族連続蜂起の端緒である。
 神風連の乱の三日後の十月二十七日、福岡の旧秋月藩士宮崎車之助が、神風連の蜂起に呼応して兵を挙げた。「秋月の乱」である。さらに翌二十八日、萩の前原一誠もまた挙兵し「萩の乱」を起こした。
 一連の士族叛乱は、いずれも政府軍の優越した武力によっていくばくもなく鎮圧されたが、これらの叛乱を起こした人々が呼応を期待した西郷隆盛は、静観して動かなかった。そして、福岡の武部小四郎と越智彦四郎も自重を続けたのであるが、武部や越智の自重は、西郷との盟約に基づくものであるとも伝えられる。
 その武部や越智の自重とうらはらに、その配下にあった青年士族は前原一誠と通じ、前原の挙兵に呼応すべく行動を始めていた。箱田六輔や頭山満、進藤喜平太らがその一群である。しかし、前原の周辺には、大警視川路利良の放った密偵の存在があったと言われ、箱田ら福岡急進派の動きは官憲の把握するところであった。萩の乱が、福岡における蜂起の暇がないままに鎮圧された十一月七日、まず箱田六輔が警察に身柄を拘束された。九日には頭山満、松浦愚、進藤喜平太、奈良原至、阿部武三郎、林斧助らが逮捕され、宮川太一郎も自首した。頭山と松浦は、その前日に留守宅を搜索されたことに抗議するために警察に赴いたところ、逆に拘引されたものであるという。武部と越智は、箱田らの救出を企図して果たせず、鹿児島に逃れた。
 このとき、箱田らの師たる人参畑塾の高場乱もまた、警察に身柄を拘束された。取り調べに対し不敵な態度で知らぬ存ぜぬを押し通す高場に対し、官吏は子弟に謀叛人が出た以上罪は免れないと脅したが、高場は平然と「拙者不取締の筋、仰付けらるゝ條、喜んでお受け致さう。が、それと同様、縣令渡邊清も其管下に於て謀叛人を出した段、是又取締不行屆の筋を以て、不肖高場亂同様、罪科仰付けられ、拙者のこの白髮首と縣令殿の首を並べて貰ひませう」と言い放ち、遂に放免された。
 奈良原至の実弟である宮川五郎三郎は、当時九歳の幼年であったが、高場や箱田らが拘留されていた獄舍に、毎日牛肉を差し入れたことを記した手記を残した。夢野久作の「近世快人伝」では、牛肉を届けたのは宮川太一郎と記されているが、宮川太一郎は箱田らとともに獄舍にあったから、久作の錯誤である。
 逮捕された箱田、頭山らは、まもなく身柄を山口の獄舍に移送された。福岡県令渡辺清は、逮捕者を速やかに斬首することを考えていたが、そのとき福岡にあった内務少輔林友幸の言を容れて、矯志社残党による箱田らの奪還を防ぐために山口へ送ったものであった。
 箱田らが捕縛され、武部と越智も鹿児島に逃れたことから、矯志、強忍、堅志の三社は解散し、新たに三社を基礎とする十一学舎が明治十年一月に結成された。ほどなく武部と越智も福岡に帰来したのであるが、同月三十日の鹿児島における私学校党青年の暴発をきっかけとして、西郷隆盛はそれらに引きずられるように、桐野利秋、篠原国幹らを従え、二月十五日遂に挙兵した。
 西郷軍には各地から呼応するもの数多く、挙兵の際には鹿児島県士族一万五千人の勢力が、最盛期には四万人もの大軍になっていたという。挙兵後一週間で、西郷軍は早くも熊本城を包囲したが、谷干城が率い、児玉源太郎が指揮する熊本城は、それから一ヶ月を要してもまだ落ちなかった。その間に、政府は総勢六万に及ぶ兵を九州各地に上陸させ、西郷軍の背後を圧迫した。三月二十日、熊本の北方田原坂における二十日間の激戦が、篠原国幹の戦死、西郷軍の敗走という結果に終わり、漸く西南戦争の帰趨が明らかとなった三月二十八日、福岡において呼応の烽火が挙がった。
 西郷挙兵の報に、福岡においても呼応の動きは激しかった。同時に、官憲の武部らに対する警戒も甚だしく、私学校党の暴発があって間もない二月五日には、十一学舎が解散を命じられ、更に旧藩主黒田長知による藩士懐柔工作も行われた。黒田長知は武部と越智を藩邸に招いたが、武部らはこれに応じず、士族間に信望厚い内田良五郎(玄洋社三傑の一人と呼ばれる平岡浩太郎の実兄。のち黒龍会を興した内田良平はその息である)の斡旋によって漸く応じたものの、もとより意見が合致するはずもなかった。これら政府の干渉に加え、三人以上の集会が禁じられる中、武部らは内田良五郎邸や小河孫次郎邸を集合場所として、挙兵の密議をこらさざるを得なかった。こうした状況こそが、武部らの西郷軍への呼応が、実行に至るまでに一ヶ月以上もの時間を費やし、その敗勢が濃厚となった時期に挙兵せざるを得なかった原因である。
 西郷に呼応する福岡の士族は八百五十名、武部と越智がそれぞれ大隊長となり、武部には舌間慎吾、越智には久光忍太郎が大隊副官となり、久世芳麿、大畠太七郎、加藤堅武(乙丑の獄に刑死した加藤司書の息)、村上彦十を小隊長に配して、三月二十八日午前一時をもって挙兵する算段が決定されていた。計画では、まず越智の軍勢が福岡城を襲って火を放ち、それを合図として全軍が一斉に福岡城を攻撃することとなっていた。
 しかし、挙兵計画は樣々な方面で齟齬をきたした。
 まず、村上彦十の小隊は福岡監獄を襲撃して秋月の乱で收監されていた諸士を救出したが、福岡城に火の手が上がらないことから、呼応軍の陣と定められた大休山に引き揚げることとなった。また、越智彦四郎の本隊は加藤堅武の小隊と大畠太七郎の小隊が福岡城を襲ったものの、勢力の優越する政府軍の反撃に衆寡敵せず、民家に火を放って大休山に引き揚げた。
 一方、武部小四郎の軍は住吉神社にあって越智軍の戦果を待つこととなっていたが、当日住吉神社に参陣したのは僅か二十余名に過ぎず、また越智軍からの合図たるべき火の手が、福岡城とは相違する方面から上がったことから、挙兵計画の失敗を悟らざるを得なくなった。武部は、寡兵をもって福岡城に迫ったとしても目的を達することは不可能と判断し、平岡浩太郎らを伴い、再挙を期して舌間慎吾と別れ、身を隠したのであった。
 越智は、大休山に舌間の軍勢と合流し、佐賀から熊本へ進んで西郷の軍勢に合流することを図ったが、政府軍の追走に遭い、秋月に向かう途中の交戦で、大隊副官の舌間、大畠、久世を含む三十余名が敗死、村上が戦傷を負って捕縛されるという結果に終わった。更に、秋月に入った越智らは、政府軍の包囲を脱して夜須郡椎木村の浄円寺に身を隠したが、浄円寺住職の通報によって遂に官憲に捕らえられることとなった。
 武部は敗走の途中、西郷軍に投じた平岡浩太郎とも別れ、転々と居所を変えて政府軍の追求をかわしていたが、五月二日夜、福岡上土居町において捕縛されるに至った。
 こうした経過を辿って、武部と越智による「福岡の変」は無惨な敗北に終わった。武部と越智の他に、久光忍太郎、村上彦十、加藤堅武が斬首され四百二十人余が懲役刑に処されたと伝えられる。

参考文献
●「玄洋社社史」玄洋社社史編纂会・近代資料出版会・1977
●「増補版 玄洋社発掘 もうひとつの自由民権」石瀧豊美・西日本新聞社・1997
●「筑前玄洋社」頭山統一・葦書房・1988
●「九州における近代の思想状況」西尾陽太郎・平凡社「九州文化論集4 日本近代と九州」1972所収
●「巨人頭山満翁」藤本尚則・文雅堂書店・1942
●「日本の歴史19 開国と攘夷」小西四郎・中央公論社・1992
●「日本の歴史20 明治維新」井上清・中央公論社・1992
●「自由党史」板垣退助監修・岩波書店・1997
●「秩禄処分 明治維新と武士のリストラ」落合弘樹・中央公論新社・1999
●「福岡県先賢人名辞典」三松莊一・古書肆葦書房・1986
●「日本系譜綜覧」日置昌一編・講談社・1991