ヘンリーは半ば意識を喪失した。 『人間とは、なんとひ弱で、だらしない存在でしょう』 昨夜、彼自身が口にした言葉。それが頭の中で教会の鐘のように鳴り響いている。何回も何回も。そのうちに残っていた意識も深い霧に包まれ……。 チューーーン。 耳のそばを銃弾がかすめた。 グオオオオオッ。 突然、耳を圧するような咆吼が空気を震わせ、ヘンリーを包んでいた霧を吹き払った。ノーマンの撃った弾丸はどこか急所に当たったのだろう、それまで王のように振る舞っていた巨大ワニは、その貴族然とした雰囲気をかなぐり捨て、持って生まれた獰猛さを露わにした。 「ヘンリー! 早く逃げろ!」 ノーマンの声でスイッチが入ったように、ヘンリーはくるりと向きを変え、抜き手を切って泳ぎ始めた。 銃声が立て続けに起こり、巨大ワニはさらに凶暴化し、蹴立てる波がヘンリーの泳ぎを妨げた。 それでもしゃにむにがんばり通したおかげで、どうにかパンナムの幹にたどりつくことができた。 しかし巨大爬虫類は攻撃の手をゆるめなかった。奴はヘンリー目がけ、一直線につっこんできた。 「あぶない!」 ズンッ。 巨大ワニはその鼻面を幹の中ほどに激突させた。ヘンリーは跳ね飛ばされまいと渾身の力で樹に食らいついていた。せり上がった水が、まるで津波のように彼の体に襲いかかる。ノーマンの安否が気になりながらも、目を開くことができない。 銃声が聞こえる。ああまだ無事だ。しかしいつまでもつだろうか。絶体絶命だ──。 ヘンリーは少しでも水の上に出ようと、両手両足ではさんだ樹の幹を昇り始めた。彼にはそうするより他に何も思いつかなかった。 雨がヘンリーの顔を濡らす。それでも構わず大きな眼を開けて怒鳴った。 「ノーマン、逃げろー!」 その時だった。ヘンリーの視界を右から左へと横切ったものがあった。それも恐ろしく速いスピードで。 今度は何が現れた? 視線は睨みつけるように、鈍く光るその物体を追った。 「ヘリ……?」 いきなり耳に回転翼の音が飛び込んできた。 「ヘリコプターだ! 社長、救助隊です!」 まぎれもなく飛行物体はヘリコプターだった。 ヘリは高度を上げると、森林の上を迂回した。そして川の上流に出たかと思うと、低い高度でスピードを下げながら、巨大ワニへ突っ込んでいった。 チカチカと窓のあたりが明滅し、銃声が聞こえた。巨大ワニはたまらず逃げ始めた。さらに追い打ちをかけるヘリは銃撃を続け、とうとう撃退に成功した。巨大ワニは恐ろしい声をあげながら視界の外へと消えていった。 ヘンリーにとって、その一部始終はまるで映画を観ているようだった。 やがてヘリが戻ってくると、扉が開かれ、誰かが大声で叫んだ。 「ヘンリー!」 意外なことに、それは女性の声だった。 |
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