We're alive
No.55

アマゾン 33

「社長」
「………」
「私もひとつ告白したいことがあります」
「なんだね」
「元秘書のアラン・ベネット。彼の死には私も責任があります。あの日、彼は私の目の前で轢き逃げされました。……ところがそれでも彼にはまだ息があったのです。私は救急車を呼ぼうとしました。ところが……あなたの言葉を思い出してしまったのです。アランがいなくなれば私があなたのそばに行くことができる。復讐に一歩前進できると考えて。そして……愚かにも私は気を失っているアランを、路地へと引きずり込んだのです。……翌日、彼は凍死体で発見されました。だから、だから私は、殺人の共犯者です……」
 ヘンリーは唇をかんだ。
「──私も自分の野望、仇を討つという目的のために、他人の命を踏みにじりました。だから私にはあなたを責める資格はありません。
 このことを今日まで私は深く考えないようにしてきました。自分の中に矛盾があることを認めなくなかった。逃げていたのです。それでも心のどこか奥底がしくしくと痛んでいた。平気じゃなかったことが唯一の救いでしょうか……いや、いまさら善人ぶったって」
 ヘンリーは背筋をぐいと伸ばした。
「お判りでしょう。あの時、私も悪魔に魂を売り渡したのです。わずかの間、私はあなたになったのです。
 人間とは、なんとひ弱で、だらしない存在でしょう。私だけは違う、私には世の正義のため、あなたをこの世から抹殺する権利と義務があると思っていたのに……」
「……もういい。君の言いたいことはよく判った。だから寝なさい。交代の時間だ」
 ノーマンは降りてくると、ヘンリーからライフルを受け取り、彼を樹上へと追い立てた。
「約束どおり一時間したらちゃんと起こしてください」
「了解だ。早く寝ろ寝ろ」
 ヘンリーの心に、ノーマンのつっけんどんな言葉が、ひどく温かく響いた。ヘンリーは涙の跡をぬぐうと、すぐに眠りに落ちていった。

 ヘンリーは懐かしい風景の中にいた。薄曇りの空から申し訳なさそうに注がれる陽光。霧の中にぼうっと浮かび上がる崩れた煉瓦塀。暗い路地。饐えたにおいの漂う空気。間違いなく彼の生まれ育ったイーストエンドである。彼は小さな体で、石畳の道の上を軽やかに駆け抜けていった。
「あら、おかえり」
 家の前まで来ると、通りに面した窓越しに母親が声をかけてきた。彼女はいつも窓辺に置いたミシンを踏んでおり、道行く人に愛想よく声をかけては、仕事をしながら世間話に興じた。どこからかいいにおいが漂ってくる。
「父さんも、ほら、帰ってきたわ」
 ヘンリーは往来に目をやった。するといつものように足の裏を引きずるようにして歩いてくる父親の姿を発見した。彼は右手に持ったトレードマークの酒瓶をわずかに上げてみせた。
「早く手を洗っといで」
 母親に促されて、ヘンリーは家の中に駆け込んだ。そして手を洗うより前に、台所の戸口に立っていた。先ほどから彼の鼻をくすぐっていたにおい、その源がここだ。
「おかえり、未来の絵描きさん」
 姉のメアリーは満面の笑顔で出迎えると、ヘンリーの額にキスをした。
「晩ご飯までもうちょっとだから、待っててね」
 ヘンリーは、うんと頷いて、姉の後ろにある鍋を見た。ヘンリーの大好物であり、近所でも評判の“メアリーのシチュー”である。かぐわしいにおいと共に、ぐつぐつと鳴る音がヘンリーの空腹をさらに刺激する。
「あらら、ゴミ箱がいっぱい。ヘンリー、お願いしていい?」
 オッケーと応え、ヘンリーは生ゴミが山のように入った箱を抱えて、勝手口から裏の路地に出た。
 ゴミ箱の中身を、大きな箱の中にひっくり返していると、鼻が妙にひくついた。ヘンリーは空を見上げた。
 雲がさっきより拡がっている。雨が来そうだ……。

「──ンス、おい、起きろ」
 ふくらはぎをライフルの筒先で叩かれて、ヘンリーは目を覚ました。周囲はすでに明るくなっている。

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