We're alive
No.54

アマゾン 32

「………」
 ノーマンの答えはすぐに返ってこなかった。ヘンリーは忍耐強く次の言葉を待った。やがてノーマンは口を開いた。
「私は一生をかけて一枚の絵を描こうとした。地球のと同じ広さを持つキャンパスの上に。それはかつてどんな芸術家も描き得なかった大作だ。この世のありとあらゆるものがそこに描かれる予定だった。
 完成の暁には、描かれたすべてが私の構想したレールの上を走ることになる。人間も動物も商品も芸術作品も情報も思想も、すべて一切合切だ。何もかもが世界中を流通する。海を越え国境を越え、人種を越え民族を越え、偏見も迷信もすべてを越えて!
 その先にこそ真の世界平和がある。
 私はそんなグランド・デザインを一人、頭の中に掲げた。そしてこの絵を完成させるため、私は帝王学を学び、イギリスの流通業界に革命を起こし、さらにアメリカでの成功を足がかりに全世界に飛び出そうとした。
 いいかね、計画とは大きければ大きいほど、小事にかまっていては完成しないものだ。だから私は必要とあれば法に触れることだって躊躇なく実行してきた。なぜか? 必要だからだ。私は必要ない行動は一切とらない。街を破壊したのも、人を殺したのも、すべて私の中では正当な理由があってのことだ。
 歴史を振り返ってみたまえ。いや現代の地球を眺めるだけでもいい。為政者は敵味方を含め何万という兵士や住民たちの死によって領土を確保し、利権を守り、おのが野望を実現してきた。そう、野望すなわち理想の前には人間の命は平等ではないのだ。
 理想を実現できる力を持つ者は、法に縛られず、人倫の道を気にもせず、おのれの価値観だけを頼りにして、何ごとも決断していいのだ、行動していいのだ」
 ヘンリーは五年ぶりに聞く弁舌にただ圧倒されていた。
「──ところが、ところがだ」
 ノーマンは荒くなった息を整えるため、ペットボトルの水で喉を潤した。
「畢生の大作である我が絵に、ある日、見たこともない極楽鳥が描き添えられていたじゃないか。極楽鳥は美しい翼とくちばしを持ち、じつに妙なる声で鳴いた。
 それが、エレノアだった」
 ノーマンのトーンが変わった。
「初めは単なる点景だった極楽鳥は、気づかないうちに、中心に位置を占めると、美しい翼を大きく拡げた。私はそれでもいいと思った。彼女の存在価値は、持っているバックボーンだけでなく、私に箔を付けることでもある、私はそんなふうに認識していた。……ところが、彼女がいなくなった途端、どうだ。何年も苦労を重ねて描いてきた絵が、ドロドロに溶け出し、しまいには一片の反古と化してしまったのだ。
 私はいやでも知らされることになった。エレノアこそが“絵”の魂だったのだと──。
 ハンス、いや、ヘンリー」
 うつむいていたヘンリーは顔を樹上のノーマンに向けた。彼の表情は影になって、よく見えなかった。
「愛する人を失うとは、とどのつまりこういうことなんだな。まるで自分の肺腑をえぐり取られたような気分というか」
「……そうです」
 ヘンリーは力強く頷いた。ノーマンの言葉が続く。
「私も芸術を理解する人間だ。想像力はあるつもりだ。だから──昨夜、君の話を聞いてからずっと考えていた。
 私が消した人間を愛していた者がいたら、その者は私と同じ気分を味わったのだろうか? これほどひどい絶望感を味わったのだろうか?」
「当たり前です!」
 ヘンリーは叫んでいた。いつしか両眼にいっぱいの涙を溜めながら。
「フレッド・モースもか?」
「もちろん」
「君もか? ヘンリー・マクファーソン」
「………」
 ヘンリーは答えられなかった。堰(せき)を切ったようにあふれ出した涙をぬぐうので精一杯だった。
「──私はもっと早くエレノアと出逢うべきだったよ」
 その時、ヘンリーのうなじに一滴の熱い水が落ちた。それこそヘンリーが一番求めていたものかもしれない。ノーマンの涙を。

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