「もう一度言います。あなたはかけがえのないエレノアを失ったことで、仕事に対する意欲も覇気も失った。彼女に比べれば仕事など取るに足りないものに成り下がった。 だから、あなたは逃げた。価値のないものにこれ以上、かかずらわっていたくなかった。かかずらわるのが苦痛になったから」 「………」 「これが私の分析です。異論がありますか?」 しばしの沈黙があった。その間も川の水かさは減ることもなく、滔々(とうとう)と流れ続けていた。 「……ハンス、君の分析は正解だろう。君の言うとおり、私にとってエレノアという女性の登場は、奇跡だった。彼女は私を未知の世界へと誘(いざな)ってくれた。三十年の人生で一度も味わったことのない価値観を芽生えさせてくれた。芽生えさせたまま……目の前から消えてしまった。おかげで私はすべてに興味を失った。人生のすべてに」 「………」 「だから、だから“組織”からも逃げた。彼らにとって仕事を放棄した私は無用の長物。反対に裏の秘密を知る人物として生かしてはおけないだろう。消される。だがあの頃は自分の人生に対しても興味を失っていたから、殺されるのもいいかと思った。でも、ハハハ、やはり怖い、怖かったんだ。だから逃げた」 ノーマンは川向こうの密林を眺めた。 「こんなところまで逃げてきた。そして隠れ棲んで五年。そう、船が事故に遭わなければ君を私の隠れ家にご招待するつもりだった。何もないところだけどね。あるのは五年前、病室で手にした雑誌一冊きりだ」 覚えている。ノーマンの失踪とともになくなった、エレノアの特集号。 「社長。あなたはそうして、愛する者を失う痛みを知ったのですね」 「ああ。アマゾンに引きこもって暮らしている間、ずっと心中にわだかまっていたものを言葉にすれば、そう表現されるのだな。 そういえば思い出したよ。学生の頃、同級生たちが女の子の話ばかりにうつつを抜かし、惚れたはれたと騒いでいたことを。私はくだらないと一蹴したが、普通ならあの頃にそんな経験を積むことで、バランスをとる能力を得るのだろうな。……それとも私がエリートとして英才教育を受けたからと、世の人間たちは言うだろうか」 「関係ありませんよ。他のエリートさんたちに失礼な考え方です」 「そうだな。私の持って生まれた資質なのだろう」 ふうとため息をつくノーマン。 「そして君の言い条によれば、エレノアが死んだのは、私の責任である、と」 「エレノアだけではありません。フレッドの家族に対してはどう思うのです?」 ヘンリーは先ほどから胸の動機が高鳴りつつあるのを自覚していた。いよいよ話はクライマックスを迎えつつあるのだ。 「フレッド? ああ、犯人の名前だっけね。どう思うかと……彼の家族を破滅に導いた責任をかね?」 「フレッドも愛する者を奪われた。あなたと同じなのですよ」 「なるほど。そんなふうに自分を他者に置き換えて考えようなどとしたことはなかったが、なるほど、同じだ」 妙に感心したように言う。ヘンリーは歯がみした。 彼に「思いやり」や「他人の身になって」という観念を理解させるのは無理なのだろうか。そもそもノーマンに理解を求めること自体、ヘンリーの価値観を押しつけることになりはしないだろうか。 いや、そんなことは絶対にない。 ヘンリーは頭を振った。自分は一般人としてごく普通の価値観を持っているはずだ。しかしそれがノーマンに受け入れられないとしたら──。 ここまで来ればもう後には引けない。いやもう今しかチャンスはない! 「社長、私はあなたに言いたいことがあります」 ノーマンは再びゆっくりと顔を上げた。 「何だね。あらたまった口調で」 いよいよだ。 |
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