ヘンリーには、ノーマンが失踪した理由がうっすらと判ってきた。しかし精神科医でもない自分が分析を試みたとしても、相手を納得させることができるかどうか。 「社長、倒れたエレノアに駆け寄ったとき、あなたは生まれて初めて“パニック”を味わったのでしょうね」 「パニック……そうか、あれがパニックという状態なのか」 「茫然自失とも言えるでしょうが……」 「君は私じゃないのに、断言できるのか?」 「経験がありますから」 「そうか。経験か」 ノーマンはぶつぶつと独り言を唱え続ける。 それを見ながら、ヘンリーはあらためて目の前にいるノーマンという男の存在に驚嘆していた。語弊があるが、感銘を受けたと言ってもいい。 常に強い意志と信念を持って、何ごとによらず理性的に対処してきた彼にとって、心の混乱など想像すらしたことがなかったのだろう。人の心が判るなどと豪語しても、彼と自分ら一般の人間の間には、海溝よりも深い溝があったのだ。 「社長。あなたにはこれまで『もやもやと言葉にならない感情』というものは、なかったのですね」 ノーマンはうつむけていた顔を上げると、無言で頷いた。そこには先ほどまでとはうってかわって、神妙な顔つきがあった。 ヘンリーは息を吸い込むと、ひと言ひと言ゆっくりとノーマンに語りかけた。 「あなたは、エレノアを愛していましたか?」 「唐突に何を訊く?」 「だいじなことです」 「当然だ。結婚しようとしていたんだぞ」 「判ってます。そうではなくて。──じゃあ質問を変えましょう。あなたがエレノアとデートしていたときのことを思い出してください。あなたはどんな気持ちがしていましたか」 「それは……こう、何というか、つまり、有意義な時間を過ごしているなと」 ヘンリーはまるで子供相手に話している気分がした。ノーマンもふざけているわけでは決してない。必死に言葉を探しているのだ。彼にとって縁のなかった感情を伝えようと。 「エレノアとの結婚には、どのような意味がありましたか?」 「それは言うまでもない。彼女の実家と姻戚関係を結ぶことで、資金面で強力なバックを獲得することになる。世界戦略になくてはならない重要な布石となるはずだったのだ」 さすがである。この手の話になると流暢にしゃべり始める。 「それでは、結婚式以前に、あなたが関係した女性の数は?」 「そうだな。ざっと二、三十人というところか」 拍子抜けするぐらい、あっさりと答えが返ってきた。 「どれも政略的、打算的な関係でしたか?」 「当然だろう。他に何がある?」 「判りました」ふと悪戯ごころが湧いて「それでは訊ねます。……エレノアの唇の感触はいかがでしたか?」 「な──そんなことを答えねばならんのか?」 ノーマンは怒鳴り返した。その顔はおかしいほど真っ赤だった。 「いえ結構。もう答えてもらったようなものです」 そして、おもむろに付け加えた。 「社長。私は今日ここに来て、ようやく社長の真意を理解することができました」 「ナニ……すると私の不可解な行動が、ハンスには解明できたというのか?」 「はい」 「教えてくれ。私はこの五年間寝ても醒めても、この謎にいたぶられ続けているのだ。頼む!」 ノーマンは必死の形相である。ヘンリーは複雑な思いにかられていた。 ヘンリーが自分の考えを開陳しようと口を開きかけた、まさにその時だった。 |
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